合唱音源デジタル化プロジェクト 山古堂

早稲田大学グリークラブOBメンバーズ<特別編集> 真性合唱ストーカーによる合唱音源デジタル化プロジェクト。


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第7回 東西四連って何? その3

四連と聞いて「浦和川越松山熊谷」とスラスラ即答したローカルなキミ、逝ってヨシ。
キミのせいで一時期「へぇ~、大学にも四連ってあるんだぁ」ぬぁんてのたまう女子大生が出たのです。

昭和26(1951)年の暮れ、東西四大学合唱連盟が成りました。4団が集まっての設立会というものがあったかどうか不明ですので、前回御紹介した慶應ワグネルOB・高橋氏の記述にある正式提案の日に4校の基本合意を得たものとして、昭和26(1951)年10月20日(土)を東西四連設立の日としましょう。

栄えある第1回合同演奏会(昭和27/1952)は、関東では未だ合唱を聴きに行くという風潮が根付いていないという理由で、関西での開催としたそうです。
以降、関西と関東で毎年交互に開催することとしました。ということで奇数回は関西、偶数回・特に10の倍数回の記念演奏会は全て関東で開催となるのでした。
東西四連が始まって数年後、関東開催の年には関西で同関交歓演奏会、関西開催の年には関東で早慶交歓演奏会が開催されるようになります。

また、東西四連の設立準備より僅かに早い取り進めで、早稲田の主唱で東京六大学合唱連盟の設立が進められ、昭和26(1951)年の11月に東京六大学合唱連盟が設立されました。
略称は「東京六連」で、第1回合同演奏会は東西四連と同じ昭和27(1952)年。
なお、この東京六大学とは野球の東京六大学と同一で、また基本的に男声合唱団の連盟として成立しました。このうち明治大学は当初、男声合唱団が無かったので混声合唱団が出演していましたが、その後「日本一の男声合唱団を目指す」という大変立派な設立趣旨を標榜した明治大学グリークラブが昭和33(1958)年秋に始動し、昭和34(1959)年の東京六連第8回定期演奏会から参加、よって全合唱団が男声となります。
 加盟団体は創立された順に、下記の6団です。

 慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団(明治34/1901年創立)
 早稲田大学グリークラブ(明治40/1907年創立)
 東京大学音楽部コール・アカデミー(大正9/1920年創立)
 立教大学グリークラブ(大正12/1923年創立)
 法政大学アリオンコール(昭和4/1929年創立)
 明治大学グリークラブ(昭和33/1958年創立)


実は明治グリーの設立年について山古堂主人の推論なんてものがあって、明治グリー御本体が

私たち明治大学グリークラブは1949年に明治大学交響楽団合唱部が組織した、明治大学合唱団(混声)に由来します。
その後、当時学内に男声合唱団がなかったことや、部員の増加などにより男声部独立の気運が高まり、1958年秋、日本一の男声合唱団を目指して百人近い明大生が集まり「明治大学グリークラブ」が誕生しました。
(以上明治大学グリークラブWEBサイトに記載あり)

と明記しておられますけれど、外野の雑音として一応書き留めておきます。
SPレコードの項で御紹介した通り、昭和4(1929)年には既に明治大学学友会音楽部として管弦楽(交響楽団として大正12/1923年に創立)と合唱(当時は女学生さんがいないから男声)が存在したこと、そして太平洋戦争後の昭和24(1949)年に明治大学交響楽団の付属という形で混声合唱団が設立された、という事実の間に、何らかの関連があると山古堂主人は思っているわけです。
だって、交響楽団が突然合唱団を組織する、ってのが不自然ではないですか。
もし学内公募したって、突然交響楽団と歌いたい人がゾロゾロ集まるとも思えない。
だから明治大学以外の東京六大学の各合唱団(男声)のように、復員学徒の中には戦前から続いていた合唱団の所属員がいて、そういう方を核とした合唱サークルが戦後活動を「再開」しており、明治大学交響楽団はそれを合唱団の中核として取り込んだ、と考える方が自然だもの。
その仮説については現在明治大学交響楽団OB会に照会中ですけど、明治大学の学生合唱の系譜として、上記の推測のように戦前の合唱団から連綿と続いていると考えるべきで、明治大学グリークラブがその系譜から全く別に現れた系統であることは無く、グリーとして分化したのが昭和33(1958)年、という考え方もあながち外れていないように思われます。
もっと蛇足を書いちゃうと、現代においては「日本一の男声合唱団」の客観的な意義付けが出来ないのですが、山古堂主人の耳と主観で言えば、明治グリーは第31回東京六連「流氷のうた」(湯山昭作曲/昭和57/1982年)でその年の早慶同を超え、関西学院に肉薄する掛け値なしの素晴らしい演奏をした。残念なことに関西学院を超えた、と書けないのは、その頃の関西学院は史上最強というか異常だったから(笑) 
だってこの年の関西学院たら第31回東西四連で神の領域にあと一歩の「ギルガメシュ叙事詩《前篇》」、第51回リサイタルではあの超絶の「川よとわに美しく」と後日に再収録して東芝から発売された超絶の「尾崎喜八の詩から」なんてぇ化けモンみたいな演奏やっちゃってるんだもん。
人数も120人とかいたし、あれにゃ誰も勝てねぇよ(笑) だから「日本二の男声合唱団 in 1982」。
明治グリーの演奏では前年の第30回記念定演「五つのラメント(改訂版初演か)」も、翌年の第32回東京六連「ゆうべ、海をみた(委嘱初演)」も山古堂のお気に入りです。もともと合唱団として変な癖が無い(個性が無いということではない)から、良い声が揃った年や有能な学指揮のいる年は本当に良い演奏をする。これ、1980年代の関西大学グリークラブと同じ美点です。
 そうそう、初演と違う「解釈」だというだけで他団の「ラメント」の演奏を全く認めない一部のあなた達、了見狭いよ、一緒に飲んでも酒がまずいよ。
初演時に指導に来た作曲者の指示とは逆の奏法だとかいう理由だったけど、そんな理由ならフルトヴェングラーの名演の半分はダメだよ。
作曲家だって自分の手を離れたらどう解釈されても仕方ないという覚悟があろうし、そういう手垢に耐えられる作品を書くべきだし(と高田三郎氏がどこかで言ってたな、いや、逆説で「俺の作品はどう演奏しても俺のメッセージが伝わるように書いてある」だったか)、だいたい作曲者の決めたたった一つの「解釈」しかない合唱曲なんてのがあるのなら、そんなのは初演と同時に滅びるべきだ。
公共の電子を使いゴチャゴチャ記しまして、失礼しました。

ということで、東西四連、東京六連とも昭和26(1951)年の連盟設立で、その翌年から合同演奏会を開催していますから、演奏会の回数が同じなわけです(平成16/2004年は共に第53回)。

ちなみに早大女声合唱団も本当に存在しました。ホントのことです。
昭和26(1951)年春に発足、翌昭和27(1952)年には単独演奏をしたという記録があります。
また初代メンバー18名全員の名前も判明しています。
その方々が御健在でしょうから多くは語れませんが(笑)、早稲田グリーの往年のOBの方が酒の席で仰ったことには「シロートの女学生さん達のコーラスを早稲田グリーが一体になって指導し、立派な合唱団に育てることによって、早稲田グリーの実力も世間に認められるだろう、という考えさ」というお話でした。
が、当時はやっと女学生さんが大学に入り始めた時期ですし、やはりそこは早稲田グリーの新入生獲得のための色仕掛け、という下心があったという話もあります。
ちなみに当時日本女子大学合唱団に嫌われるようなことをしたという話は全く聞きませんでした(爆)。
 何にせよ、その発想と実行力、さすが政界やマスコミ界に多くの人材を送り込んでいる早稲田だけのことはあります。
一時は30名くらい在籍者がいて、慶應ワグネル女声とも交流があったそうですが、結局8年ほどでその使命を全うし、というかやはり当時の早稲田に入学してくるような女学生さんには女声合唱の人気があまり無かったようで、昭和34(1959)年頃に消滅したとのことです。

なお、混声合唱団でも東京の六大学による連盟がありますが、こちらは後発なので「混声」と添えて「東京六大学混声合唱連盟」という名称になり、略称は「混声六連」です。こちらは下記の6団。

 早稲田大学混声合唱団
 明治大学混声合唱団
 法政大学アカデミー合唱団
 東京大学柏葉会合唱団
 慶應義塾大学混声合唱団学友会
 青山学院大学グリーンハーモニー合唱団


第1回定期演奏会は昭和34(1959)年に開催、平成16(2004)年5月に第46回定期演奏会を開催予定。。
蛇足ながら東大柏葉会と慶應楽友会は他大学の学生も受け入れています。

一緒に整理しておくと、関西では関西六大学合唱連盟が男声、関西学生混声合唱連盟が混声。
関西六大学合唱連盟は略称「関西六連」。
設立当初はいわゆる「関くゎん同立」と京大・神戸大だったのですが、その後紆余曲折あって下記の6団となり、その後ほぼ30年間の活動をしてきましたが、人数の減少や他の行事と時期的に重なる等といった個々の団の事情もあって、残念ながら平成15(2003)年11月の第29回定期演奏会を以って、合同演奏会は中止となりました。

 関西学院グリークラブ(明治32/1899年創立)
 同志社グリークラブ(明治37/1904年創立)
 立命館大学メンネルコール(昭和22/1947年創立)
 関西大学グリークラブ(昭和24/1949年創立)
 甲南大学グリークラブ(昭和27/1952年創立)
 大阪大学男声合唱団(昭和27/1952年創立)


関西学生混声合唱連盟は略称「関混連」。
下記の6団で、平成16(2004)年6月に第35回定期演奏会を開催予定。

 同志社学生混声合唱団C.C.D.( Collegiate Choral Doshisha)
 立命館大学混声合唱団メディックス
 神戸大学混声合唱団アポロン
 関西大学混声合唱団ひびき
 関西学院大学混声合唱団エゴラド
 大阪大学混声合唱団


一応記しておきますが、これまでに出てきた各団の創立年は、その合唱団の母体となる聖歌隊なり同好会的な集まりなり、あるいは教育学部音楽専攻科の有志なりといった前駆的活動があって、しかる後にある程度陣容が整ったところで、例えば初の対外的な演奏を行ったとか、あるいは団名を命名したとか、晴れて結団式をしたとか、そういうエポックの年が創立年とされています。

ずいぶん脱線しました。東西四連に話を戻します。

コンクールで鎬を削っているようなハイレベルな合唱団が連盟を組み、合同演奏会を催すということでしたが、現在と違って合唱組曲といっても「月光とピエロ(清水脩曲/堀口大學詩、1949)」しかない頃ですから、最初の頃は愛唱曲などを数曲まとめて1ステージ構成とし、それを各校2ステージ演奏して、最後にこれも愛唱曲程度の合同演奏をする、というものでした。
初期の合同演奏曲には「いざ起て戦人よ」なんかがあったりします。
また、第2回(昭和28/1953)の東京公演では二日公演を決行、危惧した通り、客席が半分しか埋まらず大赤字になったそうです。
 
何回か演奏会を重ねるうち、ただ集まって愛唱曲を披露するだけでは連盟を組む意味が無い、とか、マンネリである、ということで、一時は連盟解散という話にもなったそうです。そこで、第10回記念演奏会(昭和36/1961)で、これまでの演奏会スタイルを一変させ、各校1ステージとして密度を上げ、真っ向勝負の演目をぶつけるようにし、合同ステージも「枯木と太陽の歌」(石井歓曲/中田浩一郎詩、1956)を堂々歌い上げたのです。
この演奏会スタイルが現在まで続いています。
なお、東西四連は当初から昼夜なり二日なりの二回公演でしたが、第40回(平成3/1991)から1回公演となります。
やはり集客力の問題のようですが、詳細は耳にしていません。

会の名称も何度か変更があったようで、現時点で判る限りでは下記の変遷です。

 第1回~ 「東西四大學合唱音楽會」
 第4回~ 「東西四大学合唱連盟第○回合同演奏会」
 第10回~ 現行の「第○○回東西四大学合唱演奏会」


第10回記念演奏会(昭和36/1961)以降については、別項で記しています通り、ほとんどの音源を整備しました。
ここでは演奏そのものについては触れませんが、第13回(昭和39/1964)では各団が校歌を歌い始めると客席から歓迎の拍手が起こったり、第20回では同志社が単独ステージで初のオーケストラ伴奏(それが何と関西フィルの前身で、その前年に創立されたばかりのヴィエール室内オーケストラ)をつけたり、演奏中に客席が完全に静まり返って曲間になると盛大に咳払いが聞こえ(特に関西学院)、あるいは数多くの作品が意欲的に初演され、あるいは最大で330名もの大人数が舞台狭しと並んでホールを鳴らし、拍手喝采に目を潤ませ、演奏後は夜を徹して美酒杯を乾かさない、そんな演奏会です。

資 料
東西四連における初演作品を以下に記します。
(早慶交歓・同関交歓における初演を含む、第10回~第52回分までの把握分)

委嘱初演

「わが歳月」
大中恩
同志社
第13回
昭和39/1964年

「中原中也の詩から」
多田武彦
関西学院
第16回
昭和42/1967年

「北斗の海(改訂版)」
多田武彦
早稲田
第26回
昭和52/1977年

「ことばあそびうたII」
新実徳英
関西学院
第27回
昭和53/1978年

「ギルガメシュ叙事詩《前篇》」
青島広志
関西学院
第31回
昭和57/1982年

「ギルガメシュ叙事詩《後篇》」
青島広志
関西学院
第32回
昭和58/1983年

「青いメッセージ」
高嶋みどり
早稲田
第33回
昭和59/1984年

「鐘の音を聴け」
新実徳英
関西学院
第33回
昭和59/1984年

「繩文ラプソディー」
荻久保和明
早稲田
第36回
昭和62/1987年

「白き花鳥図(改訂版)」
多田武彦
関西学院
第44回
平成7/1995年

男声版初演

「MISSA MATER PATRIS」
ジョスカン・デ・プレ
皆川達夫編
慶應
第10回
昭和36/1961年

「十の詩曲」
ショスタコーヴィッチ
福永陽一郎編
同志社
第14回
昭和40/1965年

「海の構図」
中田喜直
福永陽一郎編
合同演奏
第19回
昭和45/1970年

「Messe Solennelle de Sointe Cebile」
グノー
福永陽一郎編
同志社
第20回
昭和46/1971年

「三つの抒情」
三善晃
福永陽一郎編
同志社
第21回
昭和47/1972年

「海の構図(改訂版)」
中田喜直
福永陽一郎編
合同演奏
第22回
昭和48/1973年

「ミサ曲 ホ短調」
ブルックナー
遠藤雅夫編
早稲田
第23回
昭和49/1974年

津軽の音素材による合唱「四季」
田中利光
福永陽一郎編
早稲田
第24回
昭和50/1975年

歌劇「タンホイザー」第3幕から
ワーグナー
福永陽一郎編
合同演奏
第25回
昭和51/1976年

「繩文」
荻久保和明
早稲田
第32回
昭和58/1983年

「若人の歌」
佐藤眞
早稲田
第42回
平成5/1993年

「淡彩抄」
別宮貞雄
北村協一編
慶應
第51回
平成14/2002年

合唱編曲版初演

リヒアルト・シュトラウスの歌曲による
「愛の詩集」
福永陽一郎編
同志社
第16回
昭和42/1967年

「Seven Beatles Numbers」
宮島将郎編
関西学院
第20回
昭和46/1971年

「CHANTS D'AUVERGNE
(オーヴェルニュの歌)」
北村協一編
関西学院
第45回
平成8/1996年

本邦初演(はっきり判っているもののみ)

「MISSA MATER PATRIS」
ジョスカン・デ・プレ
Eliot Forbes編
同志社
第32回
昭和58/1983年

「MISERERE(男声版)」
ドニゼッティ
福永陽一郎編
同志社
第34回
昭和60/1985年

「ドイツ民謡集」

同志社
第35回
昭和61/1986年

その他、慶應のコダーイの原語演奏やシベリウス「六つの合唱曲」も、本邦初演かも知れません。

上記以外にも、東西四連の各団によって定期演奏会や東京六連・関西六連で初演された演目は大量にあり、例えば多田武彦氏の作品だけでも下記のものがあります。

関西学院
中勘助の詩から
雪明りの路
航海詩集
白き花鳥図
尾崎喜八の詩から

早稲田
北国
北斗の海
ポピュラー・ソング・アルバム1(「アカシアの径」を含む5曲)

同志社
雪と花火
三崎のうた(改訂版)

慶應
草野心平の詩から


また、福永陽一郎氏や北村協一氏による歌曲やミュージカル等の男声合唱編曲の初演も数十曲に及びます。
各団の人数推移については、手許の資料から作成したので第26回(昭和52/1977年)以降しか判りませんが、別ページの推移グラフを参照願います。


最後に、東西四連の発展に御尽力・御貢献された方は、指揮者・ピアニスト・ヴォイストレーナーの諸先生を始め、学生指揮者やマネージャーの方々など、数多くおられますし、もちろん東西四連のステージを踏んだ歌手全員が歴史の担い手であり、その一人一人に今でも熱いものが残っているかと思いますが、ここでは代表として下記の文章を転載し、この項をお開きとさせて頂きます。

<「東西四連」30年に思う 福永陽一郎>
(1981/06/21 第30回記念東西四大学合唱演奏会プログラムより、原文まま)

「東西四連」の30年は、大学合唱と指揮者としての私との関係においても、30年の歴史を意味する。
1953年の第2回の演奏会(東京で初回)で合同演奏の指揮をしたのが、私が大学の合唱を指揮した最初であったのだから。それ以来、合同指揮者として、同志社グリークラブ、早稲田大学グリークラブの指揮者として、ほとんど欠けることなく、この日本で最高水準にある合唱祭を、共に体験してきたのであるが、振り返ってみると、「四連」の歴史はまた、日本の合唱活動史の30年でもあると、つくづく思い到る。

この30年間に、日本の合唱界は実に大きな飛躍を遂げているのであるが、たとえば、この30年間の「四連」の、うたわれた曲目の変遷や、指揮者の顔触れや交替など、実に日本の合唱音楽のこの三分の一世紀の変革そのものを如実にあらわしている。例を挙げて言うと、合同合唱の曲目は、第1回や第2回ではアルカデルトの「アヴェ・マリア」であり、「希望の島」「いざ起て戦人」であって"戦前"そのままである。
それが第10回で「枯木と太陽の歌」が全曲演奏され、第16回でワーグナーのオペラの中の、それこそ、四連の合同演奏でこそ完璧の演奏が可能になると言ってよい曲目が合同合唱の曲になる。
単独のステージでいうと、はじめのうち、それぞれの愛唱曲の展示会の観があったプログラムが、第10回、各団演奏がそれぞれワンステージになると共に、これまたそれぞれの合唱団が、その時点の実力を発揮すべく、案としても演奏効果としても、練りに練ったものが出されるようになり、「四連」の曲目は、その時点の日本の合唱界の、技術的にも内容的にも最高の基準になるものと見られるようになった。

「四連」30年のはじめの半分のうちに、4大学とも、合唱コンクールに出場しなくなった。
その結果、コンクールに出なくなることが、大学合唱団として一段上のレベルに見られるという現象もおこった。
そして、「四連」は全日本合唱コンクールの大学の部より、うんとハイレベルの競争の場になった観を呈した。「四連」の仲間は、連帯意識も強いが、競争心の戦いもまた激しいのである。
「四連」での演奏が、それぞれの定期演奏会の成果を上廻っていると思わせられたことが、しばしばある。

毎年毎年、超満員の聴衆を集めてきた「四連」は、そのこと自体、いかに注目すべきイヴェントであるかの証明になっている。と同時、「四連」を構成する4大学の合唱団それぞれの、合唱音楽に対する意識の高さの保持こそ、日本の合唱界が誇ってしかるべきものであり、そのための"場"としての「四連」は、いまや、かけがえのない存在となっているのである。

「四連」は、大学が持続するかぎり、限りなく回数を重ねるにきまっているが、単なる年中行事に堕することのないことを、切に期待したい。

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