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合唱音源デジタル化プロジェクト 山古堂

早稲田大学グリークラブOBメンバーズ<特別編集> 真性合唱ストーカーによる合唱音源デジタル化プロジェクト。


第6回 東西四連って何? その2

山古堂主人として、当時の先輩方の胸に去来するものについても私なりに理解した上で、一つの歴史としてニュートラルに筆を運んでみます。

 
前回に記しました第1回早関交歓演奏会が開催される半年前の昭和25(1950)年春、早稲田グリーで大事件が起こります。
当時の早稲田グリーは、太平洋戦争からの復員後早々にプロとしての音楽活動を始めていた早稲田グリーOB・磯部俶氏/昭和17(1942)卒を常任指揮者とし、磯部氏の指導を受けながら戦後のグリークラブ建て直しと演奏活動の充実を図る、という方針で3年が経過しようという頃ですが、前年の昭和24(1949)年後半頃から、

 A)もう磯部先生の指導を乞わず、現役学生のみによって自立すべきである

 B)いや、磯部先生のおかげでやっとここまで来た、これからが更に大切な時期だ


という議論が沸騰します。
A)を唱えたのがこの年の学生指揮者。
学生指揮者に限らず、上の学年とは違う新機軸を打ち出したいという本能は、いつの時代にも存在します。
特に早稲田はその気風が強いかも知れません。
総論的に言えば、既存のスタイルに反発するのが若者の特権ということでもありましょう。
また戦後すぐでしたから、日本の風潮全体が既存の価値観の大転回という渦中にあった、ということもありましょうか。
結局、団内での激しい論議の末にも溝が埋まらず、「磯部指導体制支持/不支持」の全員投票を敢行し、学生指揮者を中心とする不支持派が遂に早稲田グリーから分離しました。
不支持に賛同する多くの部員を引き連れて独立した学生指揮者が関屋晋氏、独立した合唱団は「コール・フリューゲル」という名称で、早稲田グリーとは別個に活動を開始します。
関屋氏は卒業後も永くコール・フリューゲルの指導をし、現在は「桂冠指揮者」となって、常任指揮者は関屋氏の薫陶を受けた清水敬一氏となっています。
コール・フリューゲルは創立当初から「少数精鋭」を打ち出していますが、実際に「少数」であったかどうかはともかくとして、そこに「磯部指導体制の是非」云々だけではない、合唱団の技術的な運営方針にかかる関屋氏の考えがあったであろうことも推測されます。
また関屋氏は湘南市民コール・松原混声合唱団という2つの優秀な合唱団を率いてコンクールで一時代を築き、、現在はその2団を中心とする関屋氏指導下の合唱団が合同活動する際の呼称「晋友会」を率いて、サイトウ・キネン・フェスティヴァルや来日する大物指揮者からの合唱出演要請を受けるなど、さまざまなイヴェントで世界的な合唱指揮者としての地位を確立しています。

この分離が生じた時に、期を同じくして当時創立直後の早稲田大学混声合唱団(早混、昭和24/1949創立)などの他団に移った方もおられ、百名を超えていた早稲田グリーは20~30名までになったと聞いたことがありますが、とにかく戦後第1回目の関東コンクールで優勝し、上昇気流に乗ろうとしていた早稲田グリーが一転、危機を迎えます。

この危機の収拾が容易ではなく、後遺症も小さくなかった。
この昭和25(1950)年は定例行事としての6月の関東合唱祭と11月の関東コンクールは不出場とし、また同年11月24日(金)の第1回早関交歓演奏会は、開催はされましたが、早稲田グリーが単独で歌ったのは校歌のみで、その他は関学との2校合同演奏(ドイツ・ミサ/シューベルト)と、関学・東京家政学院・日本女子大との4校合同演奏(メサイア(ヘンデル)抜粋)、そして関学や女声の単独演奏でした。
この早稲田グリー史上最大の危機を強い使命感と意志で乗り切った当該年度の責任者は楢木潔身氏/昭和26(1951)年卒、マネージャーは内田裕和氏/昭和27(1952)年卒で、このお二人を含む「残留メンバー」の結束と努力があればこそ、早稲田大学グリークラブの今があります。

この危機を打開し「早稲田グリーが早稲田大学を代表する男声合唱団である」ことを示すために、という意図もあったと聞きますが、恐らく正しくは「早稲グリが早稲グリであるために」、

1)東西四連の設立

2)東京六連設立を主導し実現する

3) 早大女声合唱団の立ち上げによる「兄妹」作戦



という企画が立案され、全て実行に移されます。


東西四連については、早稲田は関学との絆が出来、慶應もちょうどこの頃に同志社と交歓演奏会を始めていて、慶應も関学と交歓演奏会を持ちたい、それならば4校合同で演奏会をやれば良い、ということで早慶とも合意、ここに東西四大学合唱連盟の骨子が固まります。
慶應と同志社が交歓演奏会を始めた経緯については、山古堂主人は情報を持っていませんが、「コンクールに批判的な慶應」と「職人肌の同志社」で上手くウマが合ったのでしょうか。
面白いことに、陸上競技などの体育会系競技会においても、早慶戦は勿論、早関戦と慶同戦が昔から行われています(2000年には学院創立111周年の関西学院が提唱し、共同開催の「早慶同関陸上競技大会」として開催されたそうです)。
また山古堂主人が現役だった1986年には、弓道場に早慶同関弓道交流戦の記念ペナントが飾られていました。
早関/慶同に限らず、この時期から今で言うジョイントコンサートが活発になりますが、それにしても早慶同関というのは、何とも実に絶妙な組み合わせではありませんか。

ここで、第30回記念東西四大学合唱演奏会(昭和56/1981年)のプログラムから立役者の早慶お二人の文章を転記します。
東西四大学合唱連盟設立について簡潔に記されています。
文字化けしそうな旧字体を除いて原文まま。

忘れ得ぬことども 昭和27(1952)年慶應卒 高橋和夫

 昭和26年の初秋9月11日の午后、新宿風月堂に早慶の幹事が集り、六大学の合唱連合の件と、早慶・同関の交歓の件が検討され、六大学設立の準備は早稲田の内田君が責任をもって行うこととし、早慶同関についてはワグネルの私が設立の準備の責任をもつことになり、以后種々の交渉を経て、26年10月20日、京都プルニエにて開催された、同志社グリー主催のワグネル歓迎パーティーの席上(特に関西学院グリークラブ幹事4名を招待していただく)、早慶を代表して私が四大学の交歓演奏会を行うことを正式に提案しました。
 当時の音楽界は日響がNHK交響楽団と改称した年であり、外来演奏家として戦后初めてバイオリンのメニューヒンが来日し、東京で切符が手に入らず、幸い関西のOBのお世話で道頓堀の松竹座で聞いたことを昨日の夜のことの様に思い出します。
亦合唱界は、朝日新聞社主催の合唱祭・合唱コンクール全盛期で、同志社、関学の関西の1位争いは壮絶を極め、全く犬猿の仲で、コンクールに批判的であったワグネルが強く希望したことは、音楽することを自らの独立自尊の精神の下に置くことでした。
楽譜を自由に交歓することもその友情と共に重要なことの一つでした。
東京六大学及び、東西四大学合唱連盟は、戦后全国に先がけて、早慶同関の若者によって創られたものです。
 尚当時の世相と申しますと、敗戦后の連合軍の占領下にあり、三鷹・下山事件を経て総評が結成され、講和条約発効の前年に当り、主食の米は配給であり統制経済下にありました。パチンコが流行しはじめたのもこの年です。
明るい話題として、東京-大阪間を特急さくらが8時間で走ったことで、このことはスピードの改新であり東西交流の重要なコミニケーションの源流でした。
 四連結成の忘れ得ぬ人々として、・・・・・・先年相ついで他界された 慶應OBで詩人の藤浦恍先生、同志社OBの小野義夫先生のお二人は四連にとって大切な恩人です。
その他会場を提供して下さった大阪サンケイ会館の同志社OBの橋本さん、西宮の白鹿の辰馬さん、連絡場所や会員券の販路をつけて下さった当時の大阪慶應倶楽部の常任幹事藤田太郎先輩、ペナントを作って下さった大阪大丸の山本晋さん・・・・・・は記憶にとどめておきたい方々です。
 設立のため苦疲を共にした人々は、同志社・土肥、日下部、中井、山田、戸町の各氏、関学・児玉、松浦、大谷、小林の各氏、早稲田・内田、中野、坪井、田中の各氏、そして慶應・中村、村田、松倉の各氏であります。みんなきっと今日の隆盛をよろこんでいると思います。四連の発展と関係OB各氏の健康を祈るばかりです。


四連出産のこと 昭和27(1952)年早稲田卒 内田裕和

 30年経ったんですねえ。私個人としては、昨年銀婚式を終え、この5月には長女が嫁に行き、年とったなあと痛感しています。
反対に四連の方は年々活気が増して若返って行くような気がします。
喜ばしいことです。
 そもそも四連はというと、―――今日ご来場の方々の大半がまだ生まれていない頃、そうつまりは30数年前のお話です。昭和24年大阪で全日本合唱コンクールがありまして、早稲田が学生優勝、関学が一般優勝(何故かこの年OBを交えたため)という結果になり、早関が初めて顔合わせしました。
幹事間の話合いで急遽、翌日早稲田が関学学校ホールに招待され、一夕それはそれは楽しい交歓会になりました。その折正式な両校交歓演奏会を始めようと言うことことになり、場所はコンクール決勝開催地(当時は東京か大阪でした)、時期もその直後と決めました。これはどちらも必ず地域代表になると言う、虫が良い、図々しい前提があったからです。
何となれば往復交通費は合唱連盟から補助があるからです。
明けて昭和25年、早稲田は事情があり不参加。
関学は方針通り関西優勝として上京、早稲田大隈講堂で第1回早関交換演奏会を開きました。
翌昭和26年、又々決勝は東京。
関学上京、第2回早関を東京家政学院講堂で行いました。
早稲田は此の年東京六大学の結集を主唱、秋11月には明大講堂で結成大会を開くまでになっていました。
ここで慶應、同志社の登場なのですが、両校は此の年第1回慶同演奏会を開き急速に親しくなっており、慶應としては関学とも交歓したいから、早稲田も同志社とやれよとのこと。
言うのは易いのですが、費用、スケジュール等で実現は無理なことです。
方法は一つです。
四つまとめて一つにすれば良いと言う頭の良い解決方法でした。
そこで連盟結成。
但し六連のように近い者同志でないため第1回は正式演奏会として、翌昭和27年にと言うことになり手をしめました。
慶應の申し入れがなかったら、今でも、早関、慶同と別々に続いていたかも知れません。
 六連、四連共同じ年に生れ30歳、常に独身男が歌い続け、還暦になっても米寿になっても、観客を魅惑し続けて行くことは確実です。
 再び思います。若いなあ。


追記。 
この時期の早稲田グリーに関係するトピックス。

昭和26(1951)年7月12日(木)、神奈川県津久井郡「夫婦園」での早稲田グリー夏合宿で、名曲が誕生します。
そう、あの「遥かな友に」です。
作曲の経緯詳細は磯部氏の文筆が出ていますので省略しますが、要は、宿の枕の数が少し足りなくて、取り合いという娯楽が毎晩勃発してしまうので、静かな曲でも歌って聞かせて抑止力に出来ないか、ということから、磯部氏が数時間で作詩作曲された、ということです。
初演は当時のパートリーダー、T1内田裕和氏、T2中野昭氏、B1玉崎洋一氏、B2澤登典夫氏(共に昭和27/1952卒)で、当初の目的に適い、大成功であったとの由。
平易な旋律と友を思うシンプルな歌詩。
それまでにあった激動、すなわち太平洋戦争――戦後初の関東コンクールで優勝――その3年後にコンクール全国大会制覇――「分裂」と人数激減――コンクール欠場――粉骨砕身の早関交歓演奏会への準備という背景を重ねる時、この曲に託された思いは如何なるものであったか。

また、この激動を受けて、その翌年の昭和27(1952)年に早稲田グリーOB会、及び同時に早稲田グリーOBによる東京グリークラブが創立され、早稲田グリーOBを組織化しての現役バックアップと、そして何より卒業後も歌える場が提供されました。
後に稲門グリークラブと改称され、現在は東京稲門グリークラブという名称で精力的に活動を続けています。
「OBによる手本」を示そうという趣旨もあったのかどうかは判りませんが、稲門グリークラブは合唱コンクールでも好成績を収め、現役・OBでアベック優勝したこともあります。
この稲門グリークラブと早稲田グリー現役、そして早稲田大学の音楽団体では歴史・規模とも早稲田グリーと双璧を誇る世界屈指の学生オーケストラ・早稲田大学交響楽団(通称ワセオケ、大正2/1913年創立)という、早稲田関係者のみによって、1975年にショスタコーヴィッチ交響曲第13番「バビ・ヤール」が本邦初演されるという歴史的なイヴェントがありました。
これはショスタコーヴィッチ追悼と銘打った二日公演で、プロ団体の度肝を抜く偉業でもありました。
早稲田グリー関連の補足をしますと、バス独唱はグリーOBで欧州でも活躍したオペラ歌手、現在も歌曲の演奏会等を精力的に続けておられる岡村喬生氏/昭和29(1954)年卒、また初演は邦訳で行われましたが、その訳者もグリーOBの伊東一郎氏/昭和47(1972)年卒、現在早稲田大学文学部教授(露文)です。

交響曲 第13番 作品113“バービィ・ヤール”
(バス独唱と男声合唱及び管弦楽のための)

作曲: ドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチ
(1906/9/26~1975/8/9)
作詩: エヴゲニィ・エフトゥシェンコ
訳詩: 伊東 一郎(早稲田大学グリークラブOB)
指揮: 山岡 重信(早稲田大学交響楽団OB)
独唱: 岡村 喬生(早稲田大学グリークラブOB)
管弦楽: 早稲田大学交響楽団
合唱: 早稲田大学グリークラブ、稲門グリークラブ

昭和50(1975)年12月5日渋谷公会堂、及び12月7日東京厚生年金会館大ホール


以下はレコードジャケットより、原文まま。

早稲田大学交響楽団グリークラブ楽友会主催、早稲田大学学生部後援によるショスタコーヴィチ追悼演奏会は、1975年12月5日・7日の両日、各々渋谷公会堂と新宿厚生年金会館大ホールに於て催された。
プログラムは同年夏急逝した作曲者を偲んで、映画「ハムレット」の音楽と交響曲第13番「バービィ・ヤール」を日本初演するというものであった。
演奏は、指揮者に早稲田大学交響楽団OBの山岡重信氏、バス独唱に早稲田大学グリークラブOBの岡村喬生氏を迎え、管弦楽を早稲田大学交響楽団、合唱を早稲田大学グリークラブの各々現役OBによって構成するという、いわばオール・ワセダによる大規模なものであった。
公演は両日共に成功を収め、その成果は音楽界より多くの賛辞を浴びることとなった。
このレコードは、公演の2日目にあたる12月7日、厚生年金会館大ホールに於ける交響曲第13番、日本初演の実況録音である。


録音を聴くと、やはりワセオケが上手い、というのもありますが、岡村喬生氏が凄い。
合唱はほとんど低声系ユニゾンなので、評価しようにもなかなか(笑)
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