・・・ととりあえず冒頭に書き始めておいて、実は1ヶ月で済みました。
普通Blogというと、日記風に日々更新するもののようですが、こちらはもともとそういうコンセプトで始めたものでもないので、更新頻度が上がりません。と言う中で、「いちいち長文ぢゃ無くて良いから更新頻度を上げてよ」「いや、このボリュームのままで毎日更新しろ」などという声も聞こえて参りますが、そこはググッとこらえて頂いて、何卒お許しを。
でもまあ、10回代四連の稿を見ていると、今よりずっと短文でしたわね。もっと書けば良かった(笑)。
過日、東京出張のついでに都内某所で宴会を行いました。早稲グリOBメンバーズ有志を始めお集まり下さいました皆様、有難うございます。宴会をアレンジ頂きました当Blog管理人・H田様、感謝感激でございます。そして、卒業以来の再会となる栃木屋香阪堂ご主人、変わってないねぇ中身は(爆)。そうそう、その場で33回定演のレコードを2セットお借り致しましたが、上手く組み合わせることでかなりノイズの少ないデジ化テイクが出来そうで、取りあえず校歌・クラソン・月下の二群・三つの抒情・Western Nostalgiaはかなりクリアにデジ化を完了。あとは37回定演のレコードで、傷の少ない「阿波」の盤が無いかしら。
中国という国に駐在となって早くも10ヶ月が過ぎ、相変わらず言葉も喋れず郷に従えない山古堂主人ではありますが、それなりに生活しており、また歌っております。
5月中旬には浙江省・杭州在住の日本人女性の集いに招待され、杭州の観光名所である西湖に船を浮かべ「上海グリー/男声合唱の夕べ」を開催させて頂く、という喜ばしいイベントもありましたし、また一説によると、6月25日に海音楽学院内の賀緑汀音楽庁で開催される「上海ブラスバンド」の演奏会において、山古堂主人も参加させて頂いております上海グリークラブが少しお時間をお借りし、賛助出演の形で20分・5曲程度を歌うのだそうです。そんなこんなで、そこはかとなく男声合唱を継続しております。
そんな上海生活で、5月頃から市内の川魚料理店などで見かけるようになってきたのが、ザリガニ。
日本にいるアメリカザリガニは甲殻の表面がザラザラしていますが、こちらのザリガニは、オマールエビのように滑らかな感じで、茹であがりも真っ赤というよりオレンジです。でも香辛料を大量に使って茹で上げるから、結局真っ赤。既に一部の方に発信しているネタですが、使い回しで下記転載。
「夏の風物詩はザリガニ」というお話。
◆夏場迎えザリガニ出荷が急拡大
上海市では夏場を前に、同地で「小龍蝦」と呼ばれる食用ザリガニの出荷量が増えている。
市内最大の水産物卸売市場である銅川水産市場の関係者によると、5月中旬から入荷が増えてきており、現在は1日当たり20トン余り。ピーク時の7、8月にはこれが70トン強になる見通し。現在の卸売価格は、50グラムの標準的なもので500グラム当たり10元だという。
江蘇省南京市で誕生したといわれる小龍蝦料理は、上海でも夏の味覚としてすっかり定着した。上海での売り上げは年間5億元(70億円)規模という。
翻訳すると(笑)、ピークの月には上海地区だけで毎日70トン÷50グラム=140万匹のザリガニが喰われるのです。恐らく中国全土ではどう少なく見てもその10倍は喰われてるでしょうから、仮に下記の前提で計算すると、少なく見積もっても;
4月:上海で1日10トン、20万匹*10倍*25日営業=0.5億匹
5月:上海で1日30トン、60万匹*10倍*25日営業=1.5億匹
6月:上海で1日50トン、100万匹*10倍*25日営業=2.5億匹
7月:上海で1日70トン、140万匹*10倍*25日営業=3.5億匹
8月:上海で1日60トン、120万匹*10倍*25日営業=3.0億匹
9月:上海で1日40トン、80万匹*10倍*25日営業=2.0億匹
(これ以降は上海蟹の季節)
合計:13億匹。ぢゅうさんおくぴきですよ、奥さん。
それでも中国の人口で割ると、一人当たりで年にたった1匹(超爆)。日本人がエビを一人当り年2.5Kg食べてるのに比べたら小さい、ちいさい。実は、ザリガニの育たない華北の寒冷地や、食材の豊富な華南地区では、ザリガニをあまり食べないのだそうで、そういう意味では本当は13億匹も喰われていないかも知れません。
当地のザリガニは、日本にいるアメリカザリガニの大きいやつとほぼ同じサイズで、現在ではほぼ全てが養殖モノ。というか養殖じゃなかったら恐ろしくて喰えません。そもそもは安徽(あんき)省という上海から西に600Kmほど行ったところの名物というか貴重なタンパク源だったようで、トウガラシと香辛料を計13種類とか思い切りぶち込んで茹で上げる(なので料理名も十三香小龍蝦とか言う)のですが、これが上海から西に300Kmの南京でブレイクし、上海に飛び火したようです。
で、5月末の南京出張の折り、「小龍蝦城」という店に入って喰ってきました。といっても「小龍蝦城」という看板の店がいくつもあって、混んでる店や客一人いない店など悲喜こもごもなので、一番人気のありそうな、つまり一番混んでいる店に入りました。
ちなみに「小龍蝦」はザリガニですが、「龍蝦」はイセエビです。
基本的には600円くらいで直径30cm・高さ15cmくらいの鍋のような器に30匹くらい入って来ます。一面どす黒いと言っても良いまっ赤な液体と香辛料の混じった器の中に、これまた派手に赤く茹で上がったザリガニが巨大なハサミを見せながら積み上がっていて、これを透明な薄手のポリ手袋をして尻尾やハサミをちぎり取り口に放り込みバリバリと噛み砕き殻をペッペと吐き出し、豪快に喰う訳です。
ええ、ポリ手袋なんかすぐ穴が空きますし口の周りもテーブルも大変。はっきり言って食べるところは全ザリガニ体積の2割くらいでしょう、足元の屑用バケツがあっという間に一杯。テーブルの上にはトイレットペーパーロールが豪快に鎮座されまして、その消費もとっても速い。
で、周囲を見渡して驚くのは、若い女性2人連れとかデートのカップルとかが、それを3杯とか平気で喰っていて、中にはサイドオーダーもなくザリガニばかり4杯も喰ってる連中もいる。そりゃあ香辛料を多少変えたりして、4通り位のヴァリエーションはありますよ。でもそんなに、一人で一度に60匹も喰ってどうすんの? それともうひとつ、中国の方は食べ慣れているのか何なのか、1匹喰うのに要する時間がとても早く、1分も掛からない。しかも口元や手もあまり汚さない。口に入れてバリバリモグモグして残りをペッペと吐き出す、という食べ方、これは上海蟹やその他一般の甲殻類、そして例えばヒマワリの種なども同じなのですが、こういうのの食べ方は見習いたいです、ホント。
そうそう、味はどうかというと、香辛料たっぷりなので、味や食感はエビっぽいというくらいしか言えません。だからメチャクチャ美味いという訳でもないし、殻も硬くて食べづらいのですが、ただ香辛料の刺激もあって、クセになる人がいるのも頷ける。
こういうザリガニ専門店、とある人が数年前に専門店を開いてボロ儲けし、二匹目のドジョウを狙ってこの数年で専門店が急増・ウハウハに儲かったらしくて、今では店が増えすぎてつぶれるところもあるそうです。この国、こんな料理屋から数百億円規模の投資まで、事業投資の行動パターンが全く一緒なのが恐れ入る。
なお、聞いた話では、上海に「かに道楽」ならぬ「ザリガニ道楽」と呼ぶべき季節店があって、殻も取って食べやすいザリガニづくしの料理を堪能出来る専門店があるそうです。ザリガニ食べるなら、夏においで。
さてここで、山古堂と濃厚で密接な関係を持つ近藤大酒店総経理(岩手)から1月に頂いていた興味深いレポートを、遅ればせながら転載致します。男声合唱界で知らぬ者は無い、かの名編曲「斎太郎節」の誕生にまつわる内容です。
先日「男の合唱まつりinみやぎ」にコールMとして参加してきました。宮城県下の男声合唱団(混声の男も含む)30余団体が一堂に会して歌う、なかなかユニークなコンサートでしたが、終演後の懇親会の席上、「斎太郎節」の編曲者である竹花秀昭さんにお会いしました。それこそ現役の頃から「一体どういう人なのかな?」と思っていましたが、司会者の「では続いて斎太郎節を、やはり編曲者の竹花秀昭さんに振って戴きましょう!」との言葉に驚き、演奏後に竹花さんをつかまえて話を伺いました。
東北学院グリーのご出身(S42卒)で、当日も同OB合唱団で参加されていたのですが、後日メールで質問までしてしまいました。竹花さんが3年でサブの指揮者だった時に、演奏旅行で歌うレパートリーに地元の民謡を入れようということになり、2ヶ月ほどかけて編曲、夏の北海道演奏旅行で歌ったそうです。
そして翌年、関西学院グリークラブが仙台に来てジョイントコンサートをした際、関学から「是非この楽譜を譲って欲しい」と頼まれ、「関学さんに歌って戴けるのなら」と渡したところ、恐らくは北村協一先生の手元に届いたのでしょう、グリークラブアルバムに掲載されたということでした。竹花さんは掲載されていることを随分後になって知ったそうですが、「関学グリーと北村先生には本当に感謝しています。自分の未熟な編曲が全国で歌われるようになるとは思っていませんでした。本当に嬉しいことです」と話されていました。
ただ、冒頭の「エンヤー」部分の4小節は「大漁の網を引き上げるところなので、本当は倍のテンポ(8分音符を1拍)で歌って欲しい。これは速度指定をしなかった自分のミス」とのことで、「合唱まつり」でも8分を1拍で振られていました。
民謡の風情を大切にする編曲者のお気持ちを知ってか知らずか、某Wグリーが1980年代中盤あたりから、エラく威勢の良い、というより海賊が物盗りに現れたような攻撃型演奏スタイルにしてしまったのでした。
いずれにせよ、こういった歴史のご報告が出来ることをとても喜ばしく思います。近藤大酒店総経理殿、感謝、謝謝。
編曲にまつわる話としてもう一つ、グリークラブアルバムにも載っている「見上げてごらん夜の星を」に関して。この編曲、確かグリークラブアルバムには「編曲者不詳だが、早稲田グリーで長く歌い継がれている」というような注釈があったと思いますが、元々、慶應ワグネル1974年度の演奏旅行のために当該年度の学生指揮者・秦実氏が編曲をされたもので、これをクリスマス恒例・東京帝国ホテルでの早慶クリスマスコンサートに際して、早稲田グリーが「柔らかい持ち歌が無いから」と歌わせて頂いたのだそうです。その後、早稲田グリーの定番レパートリーに加わったのでした。秦実氏を直接には存じ上げませんが、卓越した音楽的才能をお持ちのようで、1974年の慶應ワグネル第99回定演においてはご自身が編曲された「真珠採り」で伝説的な演奏を残し、卒団後も第30回東京六連において慶應ワグネル「Liebeslieder」のピアノ連弾を受け持っておられます。
ただ、この編曲を早稲田グリーが歌う場合、四分音符=54程度のかなりゆっくりしたテンポであることがほとんどで、その上にフレーズ毎に終端ルバートをかけるから、山古堂主人としては相当かったるい。坂本九さんの歌う原曲はいかにも顔を上げて歌うべき、明るくポップなもので、若者が愛や夢を無邪気に語るのにふさわしいテンポなのに、早稲田グリーの演奏はいかにも「うつむく青年」。モテないネクラな大学男声合唱団員が徒党を組んで、「巨人の星」の明子ねえちゃんよろしく物陰から、夜空を見上げ愛や夢を無邪気に語るベンチのカップルを、虚ろな目の色溶かしたミルク的視線で見ている、そんな感じなのよ。だから恐らく、遅くとも四分音符=72程度、かつ2/2の感覚にした方が、変なストレスの掛からない爽やかな演奏になるし、アゴーギグの効果も出しやすいと思います。
訃報。
平成17年(2006)6月5日、早稲田大学グリークラブOBの楢木潔身先輩/昭和26(1951)卒が逝去されました。衷心より哀悼の意を捧げますと共に、以前記した拙文の一部を再掲します。
昭和25年(1950)春、早稲田グリーにおいて、戦後程なく確立した早稲田グリーOB・磯部俶氏/昭和17(1942)卒による指導体制から、学生のみによる自主運営に切り替えるべきだ、という議論が当時の学指揮・関屋晋氏を中心として動議され、結局この収拾は関屋氏を中心とした「コール・フリューゲル」の分離独立という形となって、早稲田グリーが人数の激減で史上最大の危機を迎えたことを、「東西四連って何?」の項で記しました。
この早稲田グリー史上最大の危機を強い使命感と意志で乗り切った当該年度の責任者は楢木潔身氏/昭和26(1951)年卒、マネージャーは内田裕和氏/昭和27(1952)年卒で、このお二人を含む「残留メンバー」の結束と努力があればこそ、早稲田大学グリークラブの今があります。
話を良く聞いて下さる大先輩でした。
<第35回東西四大学合唱演奏会>
(1986/06/21 大阪フェスティバルホール)

HANSHIN LIVE RECORDING HLR-8617~9
阪神ライブレコーディングという、山古堂的にはB級制作会社による録音だが、今回の録音はその中でもまあまあ良い方の仕上がりになっている。大阪フェスティバルホールで合唱演奏を収録する際の音響特性に、やっと気付いてきたのかしら?
1.エール交換(慶應・関西学院・早稲田・同志社) |
慶應、何か変。個人合唱主義の権化の時期で、いつも(と言っても70年代を指さない)のワグネルらしいうねりが無い。何か精神的にも技術的にもワグネルとして一体化していない感じ、というのが率直な感想。
関学、珍しく個人合唱主義を甘受している、というより個人に頼っている観すらある。かたやトップテナーではかなり振幅の広いvivratoを効かせた歌声を抑えもせず、かたやバリトンでは、率直に申し上げて音楽性があまり感じられない土管バリトンが一人、張っては上ずって内声をメチャメチャにしている。後述する、昼の部の演奏が上手く行かなくて追い詰められたことによる気合の逆効果だとしても、関学としては誠に珍しいことです。
早稲田、「レクイエム」でコバケン先生からしつこく「子音を立てろ」と指示されてきた結果、吐き捨てるようなマルカートであり、そして子音を吐いた後始末が悪いから母音も荒れ気味。そして団員の中にそういう表面的な歌い方だけに専念する少数精鈍(久々の山古堂PAT.PEND)特殊部隊がいるものだから、合唱団として荒々しく歌ってるのか「素」なのか良く判らない。・・・そういえば、米軍にもありましたね、敵国の市民を先導して内乱を起こさせる特殊部隊。
同志社、英語発音の処理やフレージングに磨きをかけてきたことが、はっきりと判る。エール交換では、久しぶりに同志社が最も良い。
2.慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団 |
「Zigeunermelodien Op.55」
1)Mein Lied ertönt
2)Ei, wie mein Triangel
3)Rings ist der Wald
4)Als die alte Mutter
5)Reingestimmt die Saiten
6)In dem weiten, breiten, luft'gen Leinenkleide
7)Darf des Falken Schwinge
作詩:A. Heyduk
作曲:A. Dvořak
編曲:福永 陽一郎
指揮:畑中 良輔
Pf:花岡 千春
この年の慶應義塾はテナーに鋼鉄のノドを持つ前田純男氏、バリトンに後年プロとなる堀内康雄氏をパートリーダーに擁し、彼らの独唱を前面に出しつつ、他方で東京六大学合唱連盟定期演奏会や定期演奏会では、前年度から数年間にわたり、北村協一氏を指揮に迎えて「Negro-Spirituals」や「Sea Chanties」を取り上げるなど、木下保氏亡き後の慶應ワグネルとして、多様な表現方法を模索していた時期でもある。
1曲目、指揮者入場の拍手が終わるか終わらないかのうちに演奏を開始するという、北村協一氏ばりのパフォーマンスを見せる畑中良輔氏に率いられた慶應ワグネルは、故・木下保氏の指導を受けた者が全て卒団した、言わば純・畑中体制の初年度でもある。
この「Zigeunermelodien」、1曲目のソロは、昼の部は堀内氏、夜の部すなわちレコードに残った演奏は前田氏が歌った。また終曲の最後、D-moll八度からD-dur十度への展開は、畑中良輔氏が好んだオプション。独唱原曲では単純にD-dur八度の終止である。Mollからdurへの展開という変則は、恐らくスラヴ・ジプシーの哀愁を少しでも表現しようとしたのかも知れないが、山古堂主人的にはこの意図を解しない。
なお余談ながら、この「ジプシーの歌」を演奏するにあたり、鋼鉄のノドを持つテナー前田氏は本番に向けて更に磨きをかけるため鍼灸師を訪ね、「高音の出るツボ」にハリを打ち、高校時代にラグビーで身体を鍛え抜いて来たバリトン堀内氏は、本番直前に気付け薬と称してポケットウイスキーを呷っていた、という伝説もある。
演奏は、可もなく不可もなく、というのが正直なところで、エール交換の項で記したように何となくまとまりに欠けるから、音楽のうねり感が薄いし、また数人の押し出しの強さが「その他大勢」から分離されて聴こえる。発声練習のようだ、というと言い過ぎだが、それでは何か表現としての意思表示が感じられるかというと、そうでもない。一応のワグネル・クオリティとは思うが、もう少し各個人の表現意欲があればもっと良い演奏になりえたのではないか。この点、後述します。
それにしても、と山古堂主人は敢えて言う。このジプシーの演奏の開放感の無さは何か、と。ダイナミクスやリズムの変化が全然生きていないことにも首をかしげる。
ドヴォルザークが当時流行していたジプシー音楽をヒントとする作品に乗じて、自国の精神的開放をも織り込んだことは想像に難くない(但し、第31回四連・早稲田の項で記した通り、「売らんかな」の商売心もあってドイツ語の歌詩を使い、チェコ国民から猛烈な批判を食らった)。そもそもジプシー音楽が19世紀中盤以降にもてはやされたのは、単にそのほの暗く情熱的な旋律や、ラッサン/フリスカという派手なリズム変化によるものだけではなく、形式に囚われがちになってしまった音楽界においてお手軽に目新しい方向に走っただけでもなく、ジプシーのライフスタイルすなわち「自由」の象徴として、当時の世相に合致したからに他ならない、と思うので、何かに自主性を絡め取られているようなこのワグネルの演奏は、聴いていて少々痛いのである。「歌うために歌う」、言い換えれば倣い覚えた発声技術の開示という行為で満足してしまうことが、男声合唱、特に大学男声合唱では往々にして生ずる陥穽であるにせよ、あの「Nänie」で聴かせた慎重で柔軟なフレージングが、ここでは文字通り鳴りを潜めているし、かといってソリッドなのかと言うとそうではなくて、リズムやフレージングの感覚も何となく合っていないし、更には4曲目、かの名曲「Als die alte Mutter/我が母の教え給いし歌」のフレージングがゴツゴツしていたり、聴いていて腑に落ちない点が少なくない。まさか歌手の皆さん、あまりこの作品が好きぢゃなかったとか?
なので、「ワグネルにはいつも辛口」と批判を浴びていることは承知で書いちゃうと、この演奏においてワグネルの演奏表現は、花岡千春氏のピアノに完全に置いて行かれてます。無論、この演奏を名演と称される方々がおられるのも良く分かっていますけれど、でも、例えばドヴォルザークのチェロ協奏曲やブラームスのハンガリー舞曲集なんかを聴けば、この作曲家の音楽が持つ特質が、このワグネルの演奏と異なる方向であることは、お分かり頂けるのではないかしら? 或いは、フランツ・リストだってわざわざ「Rhapsody(狂詩曲)」と銘打って、ジプシー音楽の自由さに自身の発想の自由奔放さを重ね合わせる実験をしてたでしょ?
上記に関しては、純・畑中体制となったこととの相関があると考えている。この時期から慶應ワグネルの演奏スタイルが木下氏ご存命の頃と全く異なるものになったことも書き添えておく。四連加盟団体の中でも、とりわけ慶應ワグネルは指導者の強い個性が前面に出された演奏をする団体であり、このあたりの変化は畑中氏に拠るところ、大なのであろう。従い、ここまで記してきたことは即ち、畑中氏への批判に他ならなくなってしまう。ともあれ、木下氏時代には木下氏の厳格な音楽構成、そして厳しい指導と、他方で、これが重要な点なのだが、それらへのカウンターバランスとしての学生の音楽的な自主性が育まれ、両者が上手く拮抗していたようにも感じており、それが畑中氏時代になって学生が大家・畑中氏に頼りきりになり、自主的な音楽創造力が弱まったところに、声楽的に優れた一部の学生が重用されるものだから、まさに個人合唱主義に嵌ってしまったのではなかろうか、と山古堂主人は考えている。
但し、少し先のことを書いちゃうと、1991年の慶應ワグネルもテナーに黒須徹弥氏、バリトンに谷口伸氏を擁していて、状況は似通っているものの、その演奏はまとまりもバランスも良く、第116回定演では近代ワグネルの中でも屈指の合唱機能と演奏を聴かせる。遠慮感覚の希薄な「新人類」が、図らずも(笑)畑中氏に拮抗出来るだけの自由度を持ち得た、ということか? この年の学指揮・杉原佐登司氏が「俺を神と呼べ」と豪語したのも、これを裏付ける傍証である・・・かも。
3.関西学院グリークラブ |
男声合唱とピアノのための「祈りの虹」
1)"炎"より(峠 三吉)
2)"業火"より(金子 光晴)
3)Vocalise
4)"ヒロシマにかける虹"より(津田 定雄)
作曲:新実 徳英
指揮:北村 協一
Pf:浅井 康子
過去にも「ことばあそびうたⅡ」「鐘の音を聴け/The Bells」等の初演を手がけ、新実徳英氏と親密な関係にあった関西学院グリーが、これも難曲の「祈りの虹」に挑んだもの。
この作品は大阪大学男声合唱団の1983年度委嘱作品として、第10回関西六大学合唱演奏会(1983/11/03 大阪フェスティバルホール)において初演された。核廃絶の世界的な高まりの中、核への怒りを以って筆を運んだ、との新実氏の初演時の寄稿がある。
初演時の演奏会プログラムの表記では、各楽章の区別も表題も無く、楽譜にのみ(I)~(IV)と記されていたようである。
第1楽章ではAlcadeltの「Ave Maria」がモチーフとして使用され、冒頭でSoliに主導されるこの旋律が次第に合唱と共に変容して、救いへの希求と抑圧を示しつつ、タイムスリップのように急激に、60年前に現実であった地上の地獄絵へと場面が転換される。この原子爆弾投下直後の地上の様相は、音程やダイナミクスの激しい変化によった、落ち着くことのない、恐怖を伴う合唱の語り口と、そしてピアノのササクレだった右手打鍵と混沌とした左手打鍵で示される。その緊張と憤怒の情景描写は第2楽章にも引き継がれ、抗うことの出来ない破壊の象徴としての「炎」を合唱による擬音表現と小刻みなピアノ低音、そして、これも音程とダイナミクスの激しい変化で描写していく。この2つの楽章は、原子爆弾によって地上に何がもたらされたのかを直接的に聴覚に訴え、強烈な効果と印象を残す。その後、死と時の経過を示すと思しき第3楽章のVocaliseを経て、第4楽章で再びAlcadeltの「Ave Maria」の旋律を引用しつつ、物質・精神を超えた復興と平和への希求を歌い上げていく。この第4楽章は第1・第2楽章とは異なり、構成・展開とも非常に安定した、いわば古典的な手法によっている。
以上のようなことを理解した上での演奏構成では、第1・第2楽章の強烈な印象と訴求のポイントをどこまで聴く者に伝えられるか、そしてVocaliseの後に置かれた、言わば聴きやすい第4楽章の印象を、第1・第2楽章とどこまでバランスを取って聴く者に残し、かつ歌手が前2楽章と同等の緊張感を保つことが出来るか、が成否の鍵を握る。
関学グリーの演奏の結果としては、一聴して頂けば分かる通りで、楽譜に極めて忠実であり、技術的には減点すべき要素も少ない、極めて優れた演奏である。聴衆も大いに満足したであろうことは間違いない。
この日、昼の部の演奏は関学グリーにとって悪夢であったに違いない。演奏が何か上手くかみ合わず、「”業火”より」の途中で客席から「ブラボーKGボーイズ!」とヤジが飛ぶという信じがたい事件が起きた(ヤジを飛ばしたのは関学OBだった、という話もある)。また、終曲のトップテナーのAで派手に裏返った歌手がいるなど、関西学院グリーとしてあるまじき事態も生じた。これによって相当プレッシャーを感じたのであろう、夜の部に臨む関学グリーメンには気合と悲壮感が漂い、演奏後には舞台裏に戻って来るなり泣き崩れて、両脇から抱えられている団員も見受けられた。
そうして演奏された夜の部の演奏が賞賛すべき仕上がりであること、特に関西では名演の誉れ高いものであること、全く異論は無い。しかし、と山古堂主人が付言してしまうのは、この演奏に何かこう、説得力というか音符を超えた「熱」に欠けたものを感じてしまうからである。関学グリーが基本的に「熱」で聴かせる合唱団ではないにせよ、それにしても何か、なのである。
その「何か」について。
全くの個人的な話ではあるが、この組曲に関しては、福永陽一郎&早稲田グリー&久邇之宜氏の演奏(第32回定演/1984)を最初に聴いてしまったことが不幸であるのかも知れない、と思う。少々の乱れこそあるものの、「声の力」と、とてつもない集中力と燃焼度を持つ早稲田グリー以外に、ついぞ心動かされる演奏を聴いた事が無い。とにかく初演の大阪大(第10回関西六連/1983)、この関西学院、同志社(第83回定演/1987)、慶應(第44回東西四連/1995)、東西四連合同(第50回東西四連/2001、作曲者自身の指揮)と聴いて、その全てが今ひとつ胸に響いてこない。これは、曲そのものの魅力に何らかの問題があるようにも思われるのである。僭越であることを承知で具体的に記すと、新実氏が「核兵器への怒り」を以て書いたはずの第1・2楽章が、楽譜の指示記号通りに演奏をすると非常に平板になること、またこれらの楽章のリズム設定が複雑で、歌い手が同調しにくいこと、そして新実氏にしては、或いは第1・2楽章の筆致と比べ、いかに「怒り」と「救い」の対照を試みたとしても少々陳腐な第4楽章のため、第3楽章のVocaliseと合わせて15分近くにもなる後半2曲の音場において緊張感が持続しにくいこと、などの理由が挙げられる。それ故、完璧なまでに楽譜に忠実な奏法とアーティキュレーションで演奏された関西学院グリーを聴いてもなお、早稲田グリーの演奏ほど心動かされない、のだと思う。
言うまでもないが、原子爆弾や核兵器に関する合唱作品は少なからずあって、これを歌う者がどこまで掘り下げて歌うべきか、人によって解はいろいろに異なる。被爆された方々の意思・意識と関係なく、政治的手段として原爆投下を語る者達の是非が問われたこともあり、その延長としてこういう作品を演ずること自体にどんなポリシーを持たせるのか、という難しい議論に嵌ってしまう事もある。これらの点については、山古堂主人も特に解を見出せている訳ではないが、音楽というものが持つ力を信じるのであれば、この作品の演奏において、昭和20年8月にこの地上に起きた事がどのようなものであったか、それを表現することにまず全力を注ぐべきであり、また、同類のいずれの作品にも共通する、構成上どうしても予定調和的に配置される平和訴求の終楽章については、そういう調和を強く「信じる力」を歌手が見せなければ、単にクラシカルなアニメストーリーになってしまうから、非常に強い意志を育んだ上で演奏に臨まねばならない、と考えている。故・福永陽一郎氏の言葉を借りるなら、「単に雰囲気だけをなぞった演奏」に価値は無いのである。
無論、北村先生&関学グリーの演奏は上記のようなことを充分に含んだ演奏をしていることは明らかであり、関学グリーの演奏スタイルとしては、それがやや表に出にくいのである。
但し、この関学グリーの演奏におけるピアノ伴奏は、あまりにお粗末で致命的である。新実氏の意図した音場を構成出来ていないし、要所・急所でのミスタッチが目立ち過ぎ、そうした全てのピアニズムが聴く者の感情の高まりを阻害する。音色もオモチャピアノみたいで何だかおかしいが、無論それはピアノのコンディションのせいではない。他のステージにおいて花岡千春氏や久邇之宜氏の演奏するピアノの音を聴けば、すぐに判明することである。
蛇足その1。
学生やアマチュアの演劇などを見ていると、「怒り」の演技だけが舞台の中で突出している事が良くある。年季を重ねるほどに「怒り」の表現の多様さや難しさを知っていくのだろうな、と勝手に思っているが、他方で合唱みたいにチマチマと揃えることを優先する表現形式においては、逆に「怒り」などの激しい表現は最初に削ぎ落とされてしまうのではないか、とも思う。従い、「祈りの虹」のような作品では、たまたま早稲田グリーの天性の表現が合致したのであろう。「青いメッセージ」と同年の演奏だし(爆)。だから、合唱音楽の王道を行ったこの関西学院グリーの演奏は、間違いなく模範的であり、好演であります。
・・・というか、大学合唱団でも演劇とか音楽史を真面目に勉強したら、結構凄いことになるかもよ。ただのカデンツァ練習でも「はい、ぢゃ怒った声で/次、笑って/次、悲しい感じで/次、静かな怒りで/最後、中世イギリス調で」とか言ってね。
蛇足その2。
ビクターより市販の南山大学メールクワイヤーの演奏/1984年録音というのもあるが、これは南山メールクワイヤーの演奏云々以前に、制作上で重大な問題がある。故・福永陽一郎氏の言葉を借りれば、「クレシェンドでミキシングボリュームを上げ、ディミヌエンドで絞っているのがあからさまで、フォルテでいきなり人数がグンと増え、ピアノでドッと減るように聴こえる」。こんなマヌケな録音エンジニアリングでは全くのお笑い種だし、南山メールクワイヤーも可哀相である。「スピーカーの向こうに演奏者が見える録音」を標榜した東芝現代合唱シリーズを監修する福永氏は、この録音の向こうを張ろうとして、東芝に早稲田グリーの録音を送って市販化しようとしたが、実質的に無視された。この一件が、福永氏をシリーズから遠ざけさせ、実質的にシリーズに終焉を迎えさせた要因の一つにもなった。
4.早稲田大学グリークラブ |
男声合唱とピアノ及びバリトン独唱のための「レクイエム」
1)前奏 ~ 第一楽章
2)第二楽章
3)第三楽章
4)第四楽章
5)第五楽章
作曲:三木 稔
指揮:小林 研一郎
Pf:久邇 之宜
独唱:勝部 太
いきなり余談で恐縮だが、山古堂主人が当事者であった時期の演奏会ゆえ、こぼれ話を期待しておられる向きもおられるので。
小林研一郎氏は第27回東西四連でもこの曲を指揮したが、その時は第一楽章の冒頭1小節の歌い出しだけで1回目の練習を費やした、という。この伝説を知る練習部門メンバーは、この第35回東西四連での指揮を小林研一郎氏にお願いするにあたって、事前練習を周到に行った。その結果、第一回目の練習の際、この冒頭の歌い出しに何の注文もつかず、却って拍子抜けしたりした。更に余談ながら、この初練習で指揮棒を忘れてきた小林氏、団員が弁当を食べた後の紅生姜で染まった箸を指揮棒に使い、その上団員からもらった稲荷寿司だっけ?を食べた後、「腹が痛い」と休憩中に愛車フェアレディZの中で横になっていたりした。気さくな巨匠である。
更に、小林氏の推薦で起用したプロのバリトン歌手・勝部太氏が、初合わせに際して全く譜読みをせずに来てロクに歌えなかったところに、練習ソリストであった当時のバスパートリーダー・伝説の細野孝規氏(1987卒)がほぼ完璧にソロの「手本を見せた」ものだから、勝部氏は細野氏に握手を求めてその場を収めるしか無い。そのお陰で、次の練習ではきちんと歌う事が出来た勝部氏であった。
演奏自体はやや粗っぽいが、それは子音を鋭く発音することに執拗なまでにこだわった小林氏の音楽創りに拠るところも大きく、場面場面で必要な音場と色彩はきちんと演出されていて、小林氏のドライブと団員の集中力とが相乗効果をあげた名演と言って良い。
東西四連に先立つ第14回早慶交歓演奏会では、作曲した三木稔氏が小林氏の楽屋を訪れて感極まり声を詰まらせ、東西四連での演奏後には久邇氏が感極まって大泣きし楽屋から出てこなかった、等という話もあるが、話の一部は山古堂主人の同期で最も腹黒い三瓶雅夫氏/1989卒が言いふらしていた話なのでマユツバかも知れない。それはともかく、観客の感想も「演奏後に緊張の糸が切れて、どっと疲れた」というものが言い得て妙である。
この演奏において小林研一郎氏が造り込んだ、特筆すべき仕掛けがいくつかある。例えば第1楽章冒頭、「きこえるか友よ」から始まる4小節は、下級生に「n」のいわゆるハニングで歌わせることで暗い音響効果を加え、第2楽章後半の歌詩で「霧のベールが」とあるを「ヴェール」とし、「ヴ」を長めにすることで語感を強調し、第4楽章冒頭のピアノのアルペッジォではペダルを使わずに、鋭い、まるで熱帯の動物の鳴き声を模写するような表現を演出するなど、まさに作品を手中に収めたファンタジスタとして、作品の要諦を余すところ無く音にし、示している。
ただ、単独ステージで1団体だけ50分近いステージを組んぢゃうのは、本当はズルイのよね。実利的に言えば、前述の第14回早慶交歓演奏会では、早稲田が「季節へのまなざし」と「レクイエム」で計70分、慶應が「雪明りの路」と「ジプシーの歌」で計30分、費用負担は折半と言う理不尽なものになりました。
ついでに言えば、早稲田グリーも昼の部はあまり芳しい出来ではなかった。個人攻撃になるから詳細は避けるが、この時代は5~6月が就職活動の盛りで、4年生はあまり練習に参加せずに本番だけ乗る事も許された、という背景のみを記しておく。
更に蛇足を言えば、前述の早慶交歓演奏会における「レクイエム」の演奏こそが超名演であったと、山古堂主人は今でもそう思っている。それは客席アングラ録音のカセットテープでかろうじて残っているが、あまりに音質が悪く、残念ながらレファレンスに足るものではない。
5.同志社グリークラブ |
「ドイツ民謡集」-新しい合唱のスタンダードを求めて-
(現代ドイツの新しい編曲による、本邦初演)
1)Das Lieben bringt gross Freut(愛の大きな喜びは)
2)Es, es, es und es(職人の別れの歌)
3)Sie gleicht wohl einem Rosenstock(バラのような彼女)
4)Ich weiss mir einen guten Gspan(俺の友達、いい奴で)
5)Das Mühlenrad(風車の歌)
6)Handwerksburschenlied(若い職人の歌)
7)Es hatten drei Gesellen(三人の若者が)
8)Aus der Traube in die Tonne(葡萄を摘んでかごに入れ)
9)De profundis(深き淵より)
11)Liebhaber in allen Gestalten(変身自在の恋人)
指揮:福永 陽一郎
福永陽一郎氏の体調が最悪の時期で、本番当日も福永氏が指揮するかどうか分からない/最終的に福永氏が指揮をしたのだが、それでも本番中に万一のことが起こらないとも限らないので、暗譜はしていたが譜持ちでステージに臨む、等々の異常な状況であった。かかる状況において同志社グリーのメンバーは、数年振りに60名を割り込む人数ながら、高音に対する恐れやヘタレを全く知らないトップテナーの伝統のヘッドヴォイスや、そのテナーを上手く活かしているセカンドテナー、珍しく(笑)見事な団結力を見せる低声系などをエレメントに、福永氏への信頼と、危機感の裏返しもあったであろうことも加え、全てがポジティヴに凝縮された、大変に素晴らしい演奏を展開したのである。職人横丁の気概が実に立派に炸裂したこの演奏は、前回の末尾にも記した通り、山古堂主人屈指のお気に入りである。
恐らく、あの時のあの同志社でしか為し得なかった、という演奏である。実際、リハーサルの時点から異様な気合であったと記憶している。また、現代ドイツの新しい編曲という各曲も、それぞれ小品ながら様々に輝きを放ち、同志社グリーの声質や芸風と良くマッチしている。1曲目からテナーが率先してどんどん上ずるのだが、全くヘタれずに高音を張りまくるのにも恐れ入ってしまう。そういった要素も全て、音楽の前進力と躍動感、そして生命感に通じてくる。
特に8曲目などは、低音のDから高音のHに到るまでの広域を駆使し、かつ音楽的にも一つの小宇宙と言うべき完成された構成の名編曲だが、これをここまで自由闊達に歌っちゃう同志社グリー、何度聴いても持っていかれてしまいます。下記、同志社グリーの手による意訳を記しておきます。慶應ワグネル様のHPでこの演奏を聴きながら、素敵な歌詩と同志社トーンも味わって下さい。各パートが機能を充分に発揮していること、音楽が生き生きとしていること、詩と曲と演奏が融合していること、全てにおいて素晴らしい。
<葡萄を摘んでかごに入れ>
葡萄からかごの中へ、かごから樽の中へ、
樽から -あぁ楽しみに、瓶に、グラスに、
グラスから喉の中へ、胃の中へ、
そして血となって魂の中へ、
そして言葉となって、口の中へ。
言葉から少し後になって感激した歌になる。
それが雲と大気を通って、人間の喜びとなる。
そして次の春にまた、この美しい歌が露となって、
葡萄の木に落ちてくる。
そしてまた、葡萄酒のようになる。
また、9曲目に何気なく「De Profundis/深き淵より」を滑り込ませているあたり、故・福永先生が悪戯っぽくウィンクしているのが見えるようである。
こういう、歌う喜びとか、生命感の吹き込まれた音楽と言うのは、狙って出来ることではないし、演奏者としても聴衆としてもその場に居合わせたことを僥倖と思うのが一番である。しかもそういうとびきりの演奏が、阪神ライブレコーディングとは言え、そこそこのクオリティの録音で残されていることが、山古堂主人としては何とも嬉しい。スーパーで売られている切り身パックみたいな演奏をしている合唱団の皆さん、こういう作品に正面からぶつかってみては如何?
聴いていてこちらも躍動感や生命感を分け与えてもらえる演奏(の録音)というのは、手元にある限りではこの同志社グリー、そして日本女子大学合唱団の第7回定演(1962)が文字通り抜群であり、これらに追随する演奏はあまりない。
蛇足1。
やっぱり書いちゃう(笑)。
関西の大学男声合唱団において、売り文句として、或いは独自性を出すために「トップの○○」と称する団が1970年代後半から1980年代に存在した。要はトップテナーが立派、ということを言いたいのであるが、そういう団(もしくはその団の出身者)の方に話を伺うと、「かつてトップの同志社という言い方があったが、我々の頃は同志社はもうダメで、我々はそれを超えていた」というような、同志社グリーとの比較に拠っていることがほとんどである。同志社も浮き沈みが大きいから、確かにそういう時期があったと思うし、また同志社は何かにつけてこういった時の標的になりやすい。しかし、誠に残念ながら(?)、山古堂においては、関西六大学合唱演奏会も、1970~1980年代のある有意な期間をデジタル化しており、「居酒屋の自慢話」ではなく客観的にそういう「トップの○○」の演奏を聴いて評価出来てしまうのである。結論を記すと、「トップの○○」とは、たまたまノドの強い人が数名在籍していた時期があったということであって、4年で卒業する学生合唱団にあってはそういう属人的な音色や音量に継続性が無いから、○○には合唱団名ではなく個人名を入れて頂いた方が良さそうである。やはり関西では「トップの同志社」ではないでしょうか。少なくとも戦後から1990年代前半までの半世紀にわたる継続性、という観点においては。
ちなみに関東では、昔から「関東テナー(山古堂復刻PAT.PEND)」と称されるようにカンカン・ギンギンと鳴らす団が少なくないから、あまり「トップの○○」という呼称は聞かないように思います。その背景として、もしかしたら戦前から明るく張りのあるテナーを擁していた早稲田グリーや、贅沢な指導者達の薫陶を受けた立派なテナーが何となく毎年いた慶應ワグネルの存在があるのかも知れません。そういうのを聴いて「ああ、トップってこういうものなんだ」みたいな文化が関東以北に根付いちゃったような。
蛇足2。
上に記した関西六大学合唱演奏会の録音に関しては、山古堂とこれまた濃厚で密接な関係を持つ新居屋明石本店ご主人(兵庫)とのコラボレーションによって、下記の音源をデジタル化している。
第1回~第7回までは、関西大学グリー所蔵のオープンリールを、新居屋明石本店ご主人がわざわざ中古オープンリールデッキまで購入してデジタル化して下さり、第8回~第16回は山古堂の「古」こと古賀準一君が奔走して集めたカセットをデジタル化した。
◆第1回(1974)
関西大学グリークラブ 「月光とピエロ」
◆第3回(1973)
関西大学グリークラブ「チャイコフスキー歌曲集」
◆第4回(1977)
エール交換
関西学院グリークラブ ミュージカル「南太平洋」より
大阪大学男声合唱団 合唱による風土記「阿波」
同志社グリークラブ 男声合唱組曲「沙羅」
甲南大学グリークラブ 男声合唱組曲「おじさんの子守唄」
関西大学グリークラブ 男声合唱組曲「追憶の窓」 -委嘱初演-
立命館大学メンネルコール 男声合唱組曲「枯木と太陽の歌」
合同演奏 「ドイツオペラ合唱曲集」朝比奈隆&大阪フィル
◆第5回(1978)
エール交換
同志社グリークラブ 男声合唱組曲「北斗の海」
関西学院グリークラブ 「Robert Shaw愛唱曲集」
大阪大学男声合唱団 「合唱のためのコンポジション第6番」
◆第7回(1980)
エール交換
関西大学グリークラブ 男声合唱組曲「吹雪の街を」
立命館大学メンネルコール フランスの詩による男声合唱曲集「月下の一群」
◆第8回(1981)
エール交換
立命館大学メンネルコール 男声合唱組曲「海鳥の詩」
甲南大学グリークラブ 「さすらう若人の歌」
関西大学グリークラブ 男声合唱組曲「若しもかの星に」
同志社グリークラブ ルネッサンス合唱曲集
関西学院グリークラブ 合唱による風土記「阿波」
大阪大学男声合唱団 男声合唱組曲「光のうた」
合同演奏 「オルフェオン・ミサ」 根津弘
アンコール 「Die Nacht」
◆第9回(1982)
エール交換
関西大学グリークラブ 男声合唱組曲「水墨集」-委嘱初演-
立命館大学メンネルコール 男声合唱組曲「隠岐四景」
甲南大学グリークラブ 「アーン歌曲集」より
大阪大学男声合唱団 「男声合唱のための祝歌・悲歌・恋歌」
同志社グリークラブ 「ZIGEUNERLIEDER Op.103」(J. Brahms)
関西学院グリークラブ 「Sea Shanty」より
合同演奏 男声合唱組曲「枯木と太陽の歌」 関屋晋
アンコール 男声合唱組曲「クレーの絵本 第2集」より「死と炎」
◆第10回(1983)
エール交換
関西学院グリークラブ フランスの詩による男声合唱曲集「月下の一群」
大阪大学男声合唱団 男声合唱とピアノのための「祈りの虹」-委嘱初演-
同志社グリークラブ 男声合唱組曲「わが歳月」
甲南大学グリークラブ 「愛の歌」「新・愛の歌」より
関西大学グリークラブ 男声合唱組曲「木下杢太郎の詩から」-新版初演-
立命館大学メンネルコール 男声合唱組曲「春と修羅」-委嘱初演-
合同演奏 「LES PRELUDES(前奏曲)」福永陽一郎 -合唱初演-
アンコール 「Media Vita(祈りの歌)」
◆第11回(1984)
エール交換
同志社グリークラブ 「Zigeunermelodien Op.55」(A. Dvorak)
関西学院グリークラブ 「シユーベルト男声合唱曲集」より
大阪大学男声合唱団 男声合唱とピアノのための「ことばあそぴうたII」
立命館大学メンネルコール 男声合唱組曲「富士山」
甲南大学グリークラブ 「メンデルスゾーン作品集」より
関西大学グリークラブ 男声合唱組曲「北斗の海」
合同演奏 「コダーイ男声合唱曲集」より 洲脇光一
アンコール 「AVE MARIA」(A. Bruckner)
◆第12回(1985)
エール交換
大阪大学男声合唱団 「合唱のためのコンポジションIII」
同志社グリークラブ 「Ein Liebesliederbuch」(R. Strauss)
関西学院グリークラブ 男声合唱組曲「草野心平の詩から」
関西大学グリークラブ 男声合唱組曲「三崎のうた」
立命館大学メンネルコール 男声合唱組曲「燈台の光」-委嘱初演-
甲南大学グリークラブ 7つのスペイン民謡
合同演奏 「Requiem in D-minor」(L. Cherbini)小松一彦&関西フィル
アンコール 「フィンランディア讃歌」
◆第13回(1986)
エール交換
甲南大学グリークラブ 男声合唱組曲「木下杢太郎の詩から」
関西大学グリークラブ 男声合唱組曲「若しもかの星に」
立命館大学メンネルコール 男声合唱組曲「五つのラメント」
関西学院グリークラブ 「Robert Shaw Chorus Album」
大阪大学男声合唱団 「おとずれ」-委嘱初演-
同志社グリークラブ 「7 Negro Spirituals」
合同演奏 「岬の墓」関屋晋
アンコール 「We are the World」
◆第14回(1987)
(この年はエール交換が割愛されている)
同志社グリークラブ 「Nӓnie(哀悼歌)Op.82」
大阪大学男声合唱団 男声合唱組曲「御誦」
甲南大学グリークラブ 「Zigeunermelodien Op.55」(A. Dvorak)
関西大学グリークラブ 男声合唱組曲「草野心平の詩から第三」-委嘱初演-
立命舘大学メンネルコール 男声合唱組曲「海鳥の詩」
関西学院グリークラブ 男声合唱組曲「雪明りの路」
合同演奏 「HELGOLAND」朝比奈隆&大阪フィル -本邦初演-
◆第15回(1988)
エール交歓
関西学院グリークラブ 男声合唱とピアノによる「祈り」
立命館大学メンネルコール
「From the Greek Anthology Five unaccompanied Part-songs for TTBB Opus.45」
「Drinking Song」
同志社グリークラブ 「Die Tageszeiten Op.76」
大阪大学男声合唱団 男声合唱組曲「わが歳月」
甲南大学グリークラブ 「メンデルスゾーン男声合唱曲集」より
関西大学グリークラブ 無伴奏男声合唱のための「今でも・・・・ローセキは魔法の杖」
合同演奏 「5つのスロヴァキア民謡」/「3つのスロヴァキア民謡 -本邦初演-」 洲脇光一
アンコール 「Cry Out and Shout!」
第16回(1989)
エール交歓
関西大学グリークラブ 男声合唱組曲「富士山」
甲南大学グリークラブ 「イタリア歌曲集」より
関西学院グリークラブ 「Sea Chanties」
立命館大学メンネルコール 男声合唱組曲「王様」
同志社グリークラブ 「Lieder eines fahrenden Gesellen」
大阪大学男声合唱団 「ロシア民謡」より
合同演奏 「ラ・マンチャの男」(邦訳版)冨岡健
アンコール オペレッタ「Merry Widow」より March~女心を射止めるには~
・・・思えば、第10回のアンコール曲について、カセットに記載が無かったために関西大学グリーHPの掲示板に問い合わせをしたのが、新居屋明石本店ご主人と出会うきっかけでありました。
関西六連は、基本的に関学・同志社の強い影響を感じるが、他方で委嘱作品やちょっと珍しい作品も少なくないし、朝比奈隆&大阪フィルとの共演などというとてつもなく贅沢な音源もあるので、これもまた貴重かつ重要な音源集である。
なお、第1回~第7回のうち、ここで欠損している音源については、加盟各団の所蔵品や当時の関係者のお手元に音源があると思うので、いずれどなたかがデジタル化して下さることを期待している。ついでに言えば、第8回~第16回のデジタル化音源は、関西学院グリー、関西大学グリー、甲南大学グリーの各現役に寄贈してあります。
6.合同演奏 |
男声合唱組曲「月光とピエロ」
1)月夜
2)秋のピエロ
3)ピエロ
4)ピエロの嘆き
5)月光とピエロとピエレットの唐草模様
作詩:堀口 大學
作曲:清水 脩
指揮:山田 一雄
アンコール Soon Ah Will Be Done(編:William L. Dawson)
指揮の山田一雄氏は、小柄で白髪で眼光鋭く、まさに子悪魔的な印象の人で、早稲田グリーも出演したベートーベン「第九」で指揮の最中に舞台から客席に落ち、指揮を振りながら舞台に上がってきた、とか、いろいろな面白い話がある。この「月光とピエロ」においても、練習の段階から面白い事があった。
一つは、「指揮の技法」という本を書くほどの人でもあって、プロオケを振る時は打点のしっかりした図形アプローチの指揮なのに、学生とかアマオケを相手にすると、まるで引き付けを起こしたように、メチャクチャに棒を振り回し、合唱などはとてもついていけないのである。本人の意図としては、キレイな指揮の下、キレイなテンポやフレージングでキレイに歌う「月光とピエロ」では、ピエロの本質に迫れない、ということであったのだが、歌う側はたまったものではない。1曲目冒頭、指揮棒を構えて3秒ほど身じろぎもせず、いきなり「何で入らないんだ!」と一喝される。3曲目冒頭、伊藤みどり(フィギュアスケート、古いねェ)のトリプルアクセルのように何かブルブルッとした風にしか見えないのだが、それで入りが合わないと怒り出す。
もう一つは、「斯界の重鎮」過ぎる事であろうか。この合同演奏を聴いた方なら「おや?」と思われただろうが、3曲目冒頭「ピエロの白さ 身のつらさ」の後の休符を異様に長く取ったり、終曲の余計なところでリピートをしたりしている。この指示を出した時の言い草が凄くて、「清水君(もちろん作曲者の清水脩氏)はこういうところが地味でいかん、もっと派手にしないと」とかブツブツ言いながら、「ここは繰り返して2回歌って頂戴」などと指示するのであった。その指示を聞き「お前そんなに偉いんかい」と思わず呟いた者もいる。
いずれにしても、第31回東西四連合同「アイヌのウポポ」と合わせ、常識というものに冷や水を浴びせるに充分な快演・怪演と位置付けられよう。
・・・と、数年前に上記の如くゴチャゴチャとcatchyな書き方をしたのを転載したが、実はこの演奏は非常に多くの示唆に富んでいる。この演奏の録音を聴く際には、全ての強弱・フレージング・言葉さばきを注意深くお聴き頂きたい。楽譜と異なる表現が多々あるが、思いのほか違和感は無い。
この演奏会のプログラムに寄せた山田一雄氏の一文によれば、大意として、「月光とピエロ」において「男声の3和音」のもたらす響きと倍音の美しさが、ともすれば演奏者を音遊びの陥穽に落とし、本来の音楽や歌詩の本質を見えにくくしてしまう、四連の諸君よ、そういう苦しみから私を救ってくれ給え、というようなことが記されている。当時オンステしたメンバーの中で、楽譜の指示とかなり異なることを沢山やった山田氏の意図を本質的に理解して歌った者がどれだけいたのか、山古堂主人の自省も含めて大いに疑問であるが、いずれにせよ四大学・297名によるこの演奏は、今改めて聴くと管弦楽指揮者による非常に深い理解と解釈に根ざしており、山古堂主人としては、確かに山田一雄氏個人の「月光とピエロ」であるけれども、この作品における屈指の演奏解釈であり演奏である、と位置付けている。
ステージストーム |
1)慶應義塾:Slavnostní sbor
2)関西学院:U Boj
3)早稲田 :斎太郎節
4)同志社 :詩篇98
慶應、言ってしまえばこの年はずっとそうなのだが、やはりマインドの統一感とか合唱のまとまり感が薄いようで、ストームとして何かが溢れ出すような面白みに欠けているように思う。
関学、単独ステージでの演奏責任(いや、関学の場合は演奏成功義務か?)からの開放というか、よほど高揚していたのかしら、いつもよりはじけ気味の演奏。関学OBの方々は顔をしかめたかも知れませんけど、ストームってやっぱりこういう方向で良いのではないかしら。
早稲田、全員揃ってコバケン仕込みの子音とツバをしぶかせ、低声系は怒涛の掛け声を客席に叩きつけ、テナーソロは腕まくりをしながら一歩前に出るなどといった、一線を超えたライヴ・パフォーマンスで笑いと感動(言い過ぎか)を撒き散らしたのであった。その結果、かどうか分からないが、この年以降は「斎太郎節」が早稲田グリーのあらゆる演奏会におけるストームの定番となる。
同志社、文字通りの持ち歌を超絶の演奏で聴かせる。昼夜公演の最後のストームに至っても端整に、そして華やかに歌い切り、全体的な仕上がりはもちろん、一番最後に書かれているHi-Bもギャオスの超音波よろしく張りまくる。大阪フェス満場の大喝采である。同志社の歌う「詩篇98」って、ただでさえハートの入り込み方が違うのに、この年は諸事情がそれに輪をかけているのよね。名演です、ホントに。これを生で聴いて、特に最後のHi-Bでチビった人が絶対にいるはずです。
いやあ、終わり良ければ全て良し、という訳でもありませんが、この第35回四連もお客様にお喜び頂けた演奏会となりました。四連のレベルはこの年を境に転げ落ちていった、と一部の歴史家、いや30回代前半にオンステしていた一部の天狗さんたちがのたまっておりますが、恐らくある視点からすればその通りでしょうな。そしてそういう天狗さんたちこそ後顧の憂いを残したことも、30回代後半に在籍した山古堂主人として、ここに明記させて頂きましょう。
次回の第36回東西四連は、コンクリートや床壁材が乾ききってないサントリーホールで関西学院グリークラブが伝家の宝刀をぶっこ抜いた、ブッチギリ超名演が登場致します。その他の団については、まあ、なんだ、その、エヘヘ。あ、合同は良いです(爆)