当時の世相については、当時小学校低学年だった山古堂主人は語り部として適当ではないので、ごまかしにキーワードをWebから拾って記すのみですが、とりあえず時系列は無視して1972~1974のキーワード;
日中国交正常化、パンダ来日、沖縄返還、日本列島改造論、全共闘/新左翼、浅間山荘、札幌オリンピック、ミュンヘンオリンピック、ベトナム戦争終結、ニクソンショック、アポロ計画中止、ケンメリGTR、オイルショック、公害関連法案制定、横井庄一、ちあきなおみ「喝采」、フィンガーファイブ、日本沈没、荒井由美「ひこうき雲」、ディープパープル「紫の炎」、長島茂雄引退、森進一「襟裳岬」、「ベルサイユのバラ」ブーム
実際には1960年代後半からのキーワードから続けて見ると;
カラーテレビ、ミニスカート流行、三億円事件、ビートルズ「Revolver」、グループサウンズ、ヴェトナム/ソンミ大虐殺、反戦ロック、モントレー・ライヴ、ヒッピー、クリーム、ジミ・ヘンドリクス、ジャニス・ジョプリン、サイケデリック、ローリングストーンズ「Let it Breed」、クイーン結成、ウッドストック・ライヴ、反戦フォークブーム、学園紛争/安田講堂陥落、三島由紀夫割腹、よど号ハイジャック、ゴーゴー喫茶、アポロ月着陸、大阪万博、一億総中流、ボウリングブーム、アニメ量産、怪獣映画ブーム、スポ根・プロレス漫画
(・・・当ブログ管理人様にゴマすって、ロック系を厚くしてみました)
※ブログ管理人注:管理人平田は60~70年代ロックフリークである
そうすると、もう少し時代背景や学生気質が見えて来る?
う~ん、だからといって学生気質がどうという結論も出ませんが、とりあえずサラリーマン家庭の所得が急増し、娯楽ジャンルが急速に拡大し、流行音楽もより多様化し、個人主義優先・ノンポリ学生が増えた、従って一糸乱れぬクラシックっぽい合唱スタイルがカッコ悪くなってきた、なんてことは言えるのかしら、良く分かりません(笑)
<第22回東西四大学合唱演奏会>
1973/06/23,24 東京文化会館大ホール

東芝EMI LRS314~5/ステレオ
渡辺正美先輩(1976卒)からお借りした貴重なレコードからのデジタル化。録音はかなりまともで、ややオンマイクながらも音場感もあり、ミキシングに気を遣っているのがわかる。全体的にレベルが高い演奏会。
1.エール交換 |
エール交換が、東京なり大阪なりで四大学が「名刺代わり・名乗りを上げる場」から、「ライバルと横一列に並んで火花を散らす場」へと変貌したのが、この時期からであるようだ。ということは即ち、この時期以降のエール交換では明確に「魔物」が出現するのである。
同志社は、聴感上では30名程度か? 合唱としての音の厚みに頼れないところに、テノールがかなりノド声であり、また相当気負っている感じ。この年は関西の2校ともテノールがノド声というかナマ声というか、頭声に持っていっていない声が数名いて、所により耳に障ることがある。
早稲田は、60~70名いるようだ。同志社のエールに感化されたか(良くあるんです、そういうの)、1番のユニゾンは鼻息荒い感じだが、3番の四声展開の頃には落ち着いていて、やはりコバケンが指揮をする年の早稲田は化ける、というのが校歌からも見える。
関西学院は、40名程度か。低声系は完全に「あの声」だが、テノールが同志社と同様、やや耳に障る。冒頭「That we may both receive and give,」の「both」のG音でテノール2名ほどが上ずってしまっていて、これも気負いか、発声上のいわゆる支え不足か、ともかく魔物がウィンクしている。
慶應は60~70名か、これまた気負いが見えるが、硬派なワグネルトーンで他校より一歩先を行っている感じ。
2.同志社グリークラブ |
「三声のためのミサ」
1)Kyrie eleison
2)Gloria in excelsis Deo
3)Sanctus
4)Agnus Dei
5)O, Salutaris
作曲:A. Caplet
指揮:福永 陽一郎
同志社はこの時期の少人数を選曲でカバーしたと、福永陽一郎氏のジャケット解説がある。
この「カプレのミサ」は、東西四連の場では3回取り上げられている。最初にこの曲を取り上げたのは関西学院グリーで、第15回東西四連(1966)において「O Salutaris」を除く4曲が北村協一氏の指揮で演奏された。残念ながら録音が入手出来ていないが、関西学院グリーOB/新月会で進行中の音源デジタル化作業の中で発掘されるかも知れない。
また、第30回東西四連(1981)において、早稲田大学グリー/田中一嘉氏指揮にて全曲が演奏されている。
通常は女声で演奏される「カプレのミサ」であるが、楽譜を見る上では特に女声で無くとも演奏が可能である。が、これが実際に男声で演奏されるケースは少なくて、そもそも低声部があまり面白くない(笑)こともあり、演奏が可能である事と、選曲される事には大きな隔たりがある。
演奏は、フレーズの入りから終端まで澱みも躊躇もなく一筆書きでこなしていく、誠に同志社らしい演奏スタイル。
但し、声は低声系と高声系で音色が大きく異なるもので、低声系がいわゆる「大久保発声」の特徴である、やや喉を広げた声であるのに対し、テノールが頭声に至っていなくて少し詰まり気味のノド声である。これでピッチも崩れず最後まで持ってしまうのが、いかにも職人横丁・同志社らしいところではあるが、それでも「Gloria in excelsis Deo」の終盤ではさすがにガス欠か、音程・発声とも不安定な部分があって、こういう部分はやはり少人数ゆえの限界か。
割合に輪郭のはっきりした演奏であり、変に輪郭をぼかして「フランス物の演奏」を気取らない辺りは、やはり福永氏の嗜好か。そういった意味では、この演奏にも福永&同志社の気脈を感じることが出来る。
3.早稲田大学グリークラブ |
合唱組曲「日曜日-ひとりぼっちの祈り-」
1)朝
2)街で
3)かえり道
4)てがみ
5)おやすみ
作詩:蓬莱 泰三
作曲:南 安雄
指揮:小林 研一郎
Pf:渋谷 るり子
この時期の早稲田グリーは音楽スタッフに小林研一郎氏を迎え、特にこの「日曜日」ではこれまでとは全く様相の異なる精密な、かつ音色も効果的に変化させた演奏を聴かせていて、東西四連における早稲田グリーの演奏記録の中でも屈指の演奏だ、と山古堂は位置付けている。
まさにコバケン・マジックであって、母音の不揃いも影をひそめ、身勝手に歌う者も無く、フレージングも丁寧という、雑味の取れた(爆)演奏であり、どうしちゃったんだろう、という突然変異的な完成度の高さ。特にセカンドテナーが例年より良くて、音程・音色がきちんと揃い、トップテナーと上手く折り合いを付けている。
コバケン&早稲田グリーの演奏は、特に東西四連という場での演奏は、早稲田グリーの演奏の中でも異質なものである。
それは、東西四連という一種独特な場の雰囲気に加え、小林氏の側では集中力・牽引力の相乗効果と創造的な耳、そしてその聴覚に基づいた要求をきちんと合唱団に伝えられる指揮棒と言葉に基づき、合唱団側では「コバケンに怒られるッ」という恐怖感と、その恐怖に裏打ちされた細かい指示の自主的な徹底とに基づく。その結果、演奏開始から終了まで、演奏者も聴衆も一切気を抜くことの出来ない「炎のコバケン/炎の演奏」となる。
何でコバケンの時だけ? という問いは、時代劇で言えば「それは言わない約束よ」である。あえて私見を書けば、コバケンがいるから、そしてコバケンが恐いから。それだけである。
更に蛇足を書けば、コバケンが一番恐い状態というのが最も好ましいから、もうこれ以上恐い指揮者は呼ばないのである。そしてコバケンが一番恐い状態というのが最も好ましいから、コバケン以外の指揮者とは逆に仲良くなってしまうのである(無論、指揮棒を持たないコバケン先生とは仲良しである)。
そんな訳で、他の指導者がそんな指示や注意や練習進行をしたら反発したり言うことを聞かないだろう、ということでも、小林氏が指揮台にいると一糸乱れず従おうとするのである。カリスマ性というか、迷子が親を見つけたというか(笑)
だから、「あれはコバケンの音楽であって早稲田グリーの音楽ではない」という揶揄や、それに対して「あそこまでコバケンについていける合唱団なんて他にいるか」みたいな応酬が生じたりするが、そういう訳の分からん話ではない。正しく言えば「コバケン」&「コバケンを恐がりたい早稲グリ」の音楽なのである。木下保氏&慶應ワグネルに近いかも知れない。
ついでに(笑)演奏について触れると、「粒の立った銀シャリ」である。ディクションの処理、フレージング、語り口の音色変化、フレーズの入りと切りの丁寧さ。そういう表現要素一つ一つの粒立ちが凛としていることによる説得力の強さに加え、早稲田グリーがコバケンの指揮の時だけ見せる圧倒的な集中力と燃焼度、どれを取ってもこの演目に見事に嵌まっている。
この「日曜日」は、ごく簡単に記すと、昭和30年代から始まった自動車の普及に伴う交通戦争の加害者・被害者を親とする子供達の語りであり、被害者の子は死んだ親を想い、加害者の子は被害者の子を、そして「人殺しの子」と指差される境遇を想う、とても切実で切ない曲で、終曲「おやすみ」などはもし身近に交通事故関係者がいたら涙無しには聴けない。このコバケン&早稲田グリーの演奏でも「おやすみ」は白眉である。
また、こういう余韻の大切な曲だと、演奏直後に出足を競う無頼野蛮な「ブラボーーっ!!」を飛ばす風習が無いのも大変に助かる。
なお、小林研一郎氏は早稲田グリーの音楽監督を務めるのと同じ時期、第21回(1972)~第23回(1974)の東京六大学合唱連盟定期演奏会の場において立教グリーを指揮しており、この時期は大学男声合唱との結び付きが強かったようである。
4.関西学院グリークラブ |
男声合唱組曲「航海詩集」
1)キャプスタン
2)船おそき日に
3)わが窓に
4)コンパスづくし
作詩:丸山 薫
作曲:多田 武彦
指揮:金房 哲三
関西学院「航海詩集」は第29回リサイタル(1961/01/14)において委嘱初演したものの再演。
ここに収録された演奏の完成度は、まさにスタンダードであり、もともと演奏される機会が非常に少ないこの曲にあって、これを超える演奏は皆無であろう。
エール交換の項で記したように、テノールのノド声が時折楽曲からはみ出してしまい、それに起因する僅かな音程の振れがあって、もう少し頭声にしても良いと思うが、関西学院のメンバーの耳はアクティヴ・ソナーに仕立て上げられているから、少なくとも音程については上手く吸収してしまう。全般として「キャプスタン」「コンパスづくし」の爽快感や躍動感、そして「わが窓に」緩急自在な表現・フレージングや和音の作りこみには唸らされる。
関西学院、やはりこういう歌は上手いのである。この時期くらいまでに卒業した関西学院グリーOBは、ちょっと集まって歌い出す際に「ハモろうぜ!」と言うのだそうで、早稲田グリーOBの「一発かまそうぜ!」とエラい違いである。
何度も書いてきたことだが、関西学院グリー恐るべし、ともいえるのは、戦前から現代に至るまで、加えてそれぞれの時代の団員の多寡に拘わらず、常に一定の演奏スタイルとクオリティを保ち続けていることで、この伝統は敬服の他は無い。
東西四連の加盟団体は、確かにその他の団体に比べれば遥かに「一聴して判別することが出来る」のだが、それでも早稲田・慶應・同志社は、特に1980年代から少なからずその音色や奏法が変化しているし、その時々に所属している団員の技量によっても大きく左右される。しかし関西学院は、どんな時でも必ず倍音を味方につけ、少人数であってもそうとは聞こえない演奏を展開する。ここに収録した演奏の人数は、はっきりとは分からないが、恐らく50名には達していないのではないか。
5.慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団 |
「シベリウス男声合唱曲集」
1)Sortunut aani(失われた声/カンテレタルより)
2)Terve Kuu(月よ御機嫌よう/カレワラより)
3)Venematka(舟の旅/カレワラより)
4)Tyonso kumpasellaki(二人の仕事/カンテレタルより)
5)Metsamiehen laulu(森の男の歌/A.Kivi)
6)Sydameni laulu(我が心の歌/A.Kivi)
作曲:J. Sibelius
指揮:木下 保
慶應は、もしかして本邦初演か?
今でこそ北欧の男声合唱譜や音源も豊富にあるが、木下保氏のジャケット解説によると、フィンランド大使館に発音を問い合わせるなど、木下氏も学生も苦労された様子である。
それと2曲目「Terve Kuu」には超低音のLo-Bがあって、日本人では如何ともしがたいのだが、この演奏では長2度上げているのでLo-Cとなる。それでも聴こえるような聴こえないような。逆にトップテナーとバリトンが高音で苦しむ結果になるのだが、そのトップテナーとバリトンに立派な声の人が一人ずついて、要所要所で支えている。このお二人が部分的にはほとんどソロ状態なのだが、もしかして翌年の第99回定演の「真珠採り」でソロを歌った方々?
演奏は、これでもかというほど「ワグネル・トーン」を前面に押し出していて、どの曲も発声の一本槍なところがやや気にかかるが、それが慶應ワグネルというものなので、気にしたら負けである。
逆に言えば北欧の音楽をやるからといって北欧の合唱団のスタイルを模倣出来る訳も無いのだし、「1973年当時に慶應ワグネルの歌ったシベリウス」として、その完成度は率直に高いと思う。
5.合同演奏 |
男声合唱組曲「海の構図」(改訂版初演)
1)海と蝶
2)海女礼讃
3)かもめの歌
4)神話の巨人
作詩:小林 純一
作曲:中田 喜直
編曲・指揮:福永 陽一郎
Pf:三浦 洋一
合同曲は、第19回東西四連(1970)の合同に際し、福永陽一郎編曲・北村協一指揮で男声版初演がなされた「海の構図」。
この22回東西四連では福永氏が、初演を聴いて修正を要すると思しき部分を改訂し、自身で指揮をしている。
演奏のクオリティは高く、現代でも充分レファレンスとして通用するもので、合同ならではのスケールの大きさは勿論、「かもめの歌」などでは和を以って尊しとなす演奏をしていて、好演である。
<第23回東西四大学合唱演奏会>
1974/06/17 京都会館第一ホール

渡辺正美先輩(1976卒)からお借りした貴重なレコードからのデジタル化。
残念ながら、この前後数年の東西四連ライヴレコードと比べて、音質が格段に落ちる。レコード制作会社の技術がどういうわけか素人並で、全ての演奏にブーンというノイズが入っていたり、ダイナミクスレンジや左右チャンネルの距離感が極めて狭い等、とてもプロ業者の制作とは思えない。
また、もしかしてこの日は雨で、その上気温も高かった? 更にもしかして昼夜好演が重なって疲れていた? どの団もやや音程や声質やザッツの揃いが甘かったり、ノドの強い人が頑張って突出してしまっていたり、録音技術に起因しない実演奏での荒れが目立つ。
言い換えれば、聴き合い揃えていく、という感覚が薄いのである。
メンバーそれぞれも手を抜いたり練習不足だったりということではないと思うが、何となく歯車の噛み合わない「逢魔ヶ時」みたいな演奏会ってあるものです。
そういうことで、録音で聴く限りやや荒れ気味の東西四連である。
1.エール交換 |
慶應は、美声というか響きをしっかり掴まえた声が多くいて、ギンギンに響いてくるのだが、テナーが中高音でやや高めのピッチになり、高音では呼気に腹圧をかけて張ってくるので、いつものしっとり感(笑)が薄く、やや発声練習で声量を競っているような感じに聴こえる。
関西学院は、ノド声テナーが前年より少し改善され、綺麗な頭声も聴こえてくるが、他方でベースに大変立派な声の方がおられ、この方がマルカートを超えたオールアクセントの歌い方で突出していて、いつもの安定感・統制感がやや薄い。
早稲田は、他団よりずっと冷静に歌っていて、四声展開後にも安定感がある。曲頭を含むザッツの乱れが少なからずあるが、曲の流れを妨げるほどではなく、あまり気にならない。
同志社は少し人数が増えた感じ。40名前後? 声は一時期よりまとまって聴こえるが、テンポ設定がいつもと違う。2小節フレージングで、その全てのフレーズ後にはっきりと判る溜めがあり、その都度改めて歌い出しているという感覚。これにより歌詞を噛んで含めるような印象を受け、それが狙いなのだろうが、「そんなに名刺に凝らなくても」というのが正直なところです。
2.慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団 |
「エレミア哀歌」
1)"Incipit lamentatio Jeremiae prophetae"
2)Lectio II
3)Lectio III
作曲:G.P. da Palestrina
指揮:木下 保
「ワグネル・トーン」の最高の年が恐らくこの1974年で、慶應ワグネルは伝説の年度を迎えていた。
同年の第99回定演(1974/12/04)にて、この「エレミア哀歌」の他、学生指揮者・秦実氏の編曲・指揮によるG.Bizet「真珠採り」、「チャイコフスキー歌曲集」「さすらう若人の歌」「阿波」が演奏され、学生ソロにも美声を配したこの定演の大成功は、その後も永く語り継がれ、ワグネルの後輩達の一つの目標となった。
この第23回東西四連で収録されている「エレミア哀歌」は、パレストリーナとは思えないような熱のこもった演奏となっていて、まるで同志社のようにポジションを高く取ったトップテナー・セカンドテナーと、芯を捉えた低声系とを、木下氏の指揮が纏め上げていて、骨太な中にも輝きのある演奏である。それが本当にこの曲へのアプローチとして正しいかどうかは別として(笑)、客席で聴いていたらきっとこのステージで「お腹いっぱい」になったと思う。
ただ、内声の音程が少し甘く、特にセカンドテナーもしくはハイバリトンが中音域・B音付近のちょっと気を遣わねばならない発声処理が上手く行かず、部分的に和声の嵌まり方が少々甘いのが残念。また声に頼りすぎて発声練習のように聴こえなくも無いのが、この時期の特徴でもある(そしてそれはこの先現代に至るまで、慶應ワグネルの特徴であり、場合によっては嫌われるところでもある)。
畑中良輔氏の言う「エール交換でワグネルが一声出すと客席がざわめいた時代が、確かにあったの」というのが、恐らく1970年代前半であって、第21回東西四連の「Jagdlieder」こそ曲と声がマッチしなかったが、その他はどれも本来の「ワグネル・トーン」を知ることが出来る演奏である。
山古堂主人の理解としては、「ワグネル・トーン」の神髄は、咽頭-頭部の共鳴をしっかりつかむことにより高域成分である倍音を華やかに散らす発声を、合唱団として可能としている事と、母音・子音の処理を統一していることである。
これにより、声を客席に飛ばし、倍音を豊かに鳴らすと同時に、和声の立ち上がりの速い=指揮への応答の速い演奏を行うのである。これは特に北欧・東欧の合唱団ではごく自然に行われているが、日本では、特に現代日本語ではあまり声帯を緊張させずに話すし、話し始めも僅かに息を先行させたりする(要はハスキーヴォイス)から、相当の訓練無しには不可能である。
1980年台になってくると、発声のための様々なポジションをいちいち確かめ、準備しなおしてから歌いだすことや、或いは必要以上に子音の発音に時間をかけることから、全体的な音の立ち上がりの遅れが顕著になる。
加えて、そういう発声に楽曲を合わせて行く強引さと、低声系に顕著となる「堀った声」によって、「ワグネル・トーン」の両輪の一つである指揮への応答の速さが失われていく。
その結果、「ワグネル・トーン」という言葉が、発声や響きの特徴ではなく、慶應ワグネルの80年代からの奏法の特徴、すなわち良く言えば重厚/悪く言えば鈍重な歌い方であるような理解に変遷していく。
無論年度によって軽重はあるが、第29回東西四連(1980)の「モビルスーツによる狩の歌」、第30回東京六連の「情念で塗り固めた愛の歌(Liebeslieder)」、第34回東京六連の「高重力で弾まない黒人霊歌」、そして第37回東西四連(1988)で究極の「シューベルトのハチミツ漬け」などが特に重い(ワグネル関係者の皆さま、受け流して下さいね)。
この重さは1990年代前半まで続く。
3.関西学院グリークラブ |
男声合唱組曲「雪明りの路」
1)春を待つ
2)梅ちゃん
3)月夜を歩く -ティチアノー筆「白衣の女」の裏に-
4)白い障子
5)夜まはり
6)雪夜
作詩:伊藤 整
作曲:多田 武彦
指揮:北村 協一
関西学院は第28回リサイタル(1960/01/22)の初演以来、今日まで数回この「雪明りの路」を演奏しているが、この第23回東西四連の演奏は、特に名演の声が高いものである。
録音が悪いのが誠に残念であり、またベースに突出した歌い方・子音の飛ばし方をする方が1名おられるというのも率直に言って耳にひっかからぬでもないが、それでも「月夜を歩く」などはハーモニーも美しく、「白い障子」もサラリと歌っているが大変に正確で精密であり、良い演奏である。
この時期の関西学院は、多田武彦氏の作品を連続して取り上げており、前年の第22回東西四連において「航海詩集」を好演した他、当年度の第43回リサイタル(1975/01/19)では「尾崎喜八の詩から」を委嘱初演している。
蛇足ながら、その第43回リサイタルでは北村協一氏の指揮によるロック・ミュージカル「Hair」(その伴奏Bandアレンジは何と青島広志!)や、林雄一郎氏の指揮による「STROHBACH男声合唱曲集」なども演奏しており、えも言われぬマニアックな団体であることが良く分かる。
4.早稲田大学グリークラブ |
「ミサ ホ短調」(男声版初演)
1)Kyrie
2)Gloria
3)Credo
作曲:Anton Bruckner
編曲:遠藤 雅夫
指揮:小林 研一郎
Pf:山崎 ゆり子
1970年代、早稲田は音楽スタッフとして小林研一郎氏を迎えており、小林氏も東西四連や定演においてさまざまな選曲をもって壮大な「実験」をしていたように見受けられる。
(音楽スタッフを外れてからの小林氏は「レパートリーをむやみに増やすな」と称し、原則として「レクイエム(三木稔)」か「さすらう若人の歌」か「水のいのち」しか引き受けない。)
ちなみにこの年の学生指揮者が、卒団後に東京藝術大学指揮科に進み、現在プロとして活躍中の堀俊輔氏/昭和50(1975)卒。
このブルックナー「ミサ ホ短調」は、混声では有名な作品で、「Credo」は合唱コンクール自由曲でも時折取り上げられるように演奏効果も大きい。
遠藤雅夫氏の男声版編曲による早稲田グリーの演奏は、全般にブルックナー特有の中音域に持続した厚みを持つ書法を良く表した演奏となっていて、濱田徳昭氏の常任の頃とはまた異なる奏法による好演である。
好演ではあるが、その中で発声上の問題が2点ほど浮き彫りになってくる。これは早稲田グリーというより日本の男声合唱の抱える問題。
一つはトップテノールの声の扱いで、G音以上の高音が続く旋律を歌う際に、弱声ファルセットで歌う/強声フォルテで歌う場合は良いとして、その中間の音量で歌う場合は発声処理が非常に難しい。
特に愛称「バリトップ」の早稲グリでは尚更である。そしてそういう高音mezza voceがこの遠藤版の随所に出てくるのである。それもクレシェンド等といった強弱変化を伴って。
そうなると、合唱団として発声の問題が解決出来ていないため、例えばこの「ミサホ短調」で言えば「Kyrie」前半では半端にファルセットにしてしまって、ド素人のような支えの無いヘロヘロ声で音程が悪かったり、或いは半端に張っちゃってナマ声が目立つ。
こういうところは、揃えるだけならきっと関西学院や東大コール・アカデミーなどが上手く揃えられるのだろうが、ブルックナーの作品なので他パートに負けない厚めの音色も欲しいし、解決は難しい。
恐らくこういう半端な音量・音域の旋律を上手く歌えるのは第32回四連の同志社トップだけではないか?
もう一つはセカンドテノールの発声で、B音からF音あたりの最も難しい中高音でのフォルテに際し、響きのポイントをきちんと掴まえて鳴らすのではなく、呼気の強さ=腹圧をかけてノドだけでフォルテを張りに行くから、結論から言うと強声で上ずることになり、終止形の和声が決まらない。「Gloria」終端の「Amen」などは好例で、「A-」と「-men」が同じ音なのに、張りに行った「-men」で音程が1/4ほど上昇する。(まあ、一般的には耳を使って他パートに合わせに行くんですけど、そこは早稲田グリーの弱点かも知れません。)
これもまた難問で、セカンドテノールの声をきちんとキャラクター付けして発声練習を組み上げている団体なんてあまり無いだろうから、男声合唱の永遠のアキレス腱かも知れない。(北欧や東欧の合唱団だと、パート別のキャラクター付けということ自体が観念として存在しないかも知れませんが。)
これら2点は、特に「ミサ ホ短調」では率直に言って編曲上の問題も多々あるから、前年のような手頃な音域と音量でこなせる演目であったなら、もっと良い演奏が出来たかも知れない。
以上ゴチャゴチャ記しましたが、全体としては好演で、「Credo」などは良くブルックナーしてます(コバケン&早稲グリの壺にハマりやすい曲だから?)。
5.同志社グリークラブ |
男声合唱組曲「沙羅」
1)丹沢
2)あづまやの
3)北秋の
4)沙羅
5)鴉
6)行々子
7)占ふと
8)ゆめ
作詩:清水 重道
作曲:信時 潔
編曲・指揮:福永 陽一郎
Pf:笠原 進
男声合唱版は、今となっては平均年齢が還暦以上の合唱団で時折リバイバル演奏される程度だが、決して忘れ去られて良い作品ではない(と、この年にして思う)。この曲集はオリジナルが独唱で、次いで福永陽一郎氏による女声版編曲が出来、その後に男声版が出来たが、実は男声版は2バージョンある。
1)福永陽一郎編曲版(1967初演、慶應ワグネル第92回定演/木下保指揮)
2)木下保編曲版(1971初演、慶應ワグネル第96回定演/木下保指揮)
この第23回東西四連では、福永版を編曲者自身の指揮で演奏している。福永版編曲の初演に際して福永氏が記したのが,下記の一文である。
福永陽一郎氏より「編曲者としての註釈」
信時潔――ブラームスと呼び捨てにするのだから、信時と呼び捨てにしてもいいのかも知れぬが、内心おおいに、相すまぬというこだわりを感じる――の名作「沙羅」についての因縁は、出版されている女声合唱用の編作品のとびらに書いてあるので、くりかえすまい。
私たちに、「沙羅」の正しいイメージをあたえてくださった、リートとしてのこの曲の初演者、木下保先生が、この曲が女声合唱よりも、男声合唱によってうたわれるべきだというお考えをお持ちなのは、以前から存じあげていた。
私にしてみても、男声合唱が得意でないわけではなし、やってみたいのは山々であったが、どうしても、「ピアノ伴奏付きのホモフォニックな男声合唱曲」というイメージがつかめなくて、ずっとほうっておいた。
ワグネル・ソサィエティから「木下先生が『沙羅』をおやりになりたがっていらっしゃるが、どなたに編曲をおねがいしたらよかろうか」という相談を受けたとき、すぐに私がやりましょう、と云ったわけではない。
とても自信なぞ持てなかった。
ただ、自分以外の編曲で、男声合唱の「沙羅」をきいたら、さぞガマンナラヌだろうと思った。
そこで、ブラームスと並行して編曲を引き受けることになった。
木下先生に捧げさせていただいたが、原作の良さと、先生の最高の御理解が、私の編曲のまずさをうめて、この名作を男声合唱の新作としてひびかせて下さることを、切に期待している。(1967年11月)
(慶應ワグネル第92回定演プログラムより)
男声版「沙羅」と言えば、出版されている木下保編曲版が一般的であるが、それに先立って編曲されたこの福永版はアプローチのやや異なる編曲である。
レコードジャケットに拠れば、福永陽一郎氏はこの歌曲の初演(太平洋戦争中の1944/09、独唱:木下保、Pf:水谷達夫)以来、この伴奏の響きに魅せられ、戦時中にクラスメイト達が出征していく中、「現在」そして「最後」かも知れないものの記録としてこの曲を選び、録音 -エボナイト盤にダイレクトカッティングと言う手間のかかる- を行い、そのためにこの曲を一心に勉強した、とのことである。
福永版の編曲は、まるでピアノ協奏曲の如くで、ピアノと合唱が対等に聴こえる編曲である。
また、さらりと聴き流してしまえるが、実際には結構難しい合唱編曲である。それ故、この曲がより広く普及することを願って、木下氏がもう少し簡単な編曲をつくったのである。
同志社の合唱機能は、いまだ復旧半ばという感じか。
この曲の死命を制するのは日本語の語感と音楽の融合である、とは木下氏・福永氏ともに指摘しているところだが、そういう観点から聴くと、そこはフレージングの掴みが上手い同志社、決して悪くないが、人数が少ないこともあって個人の声が目立ち、その声がテナー系ではやや硬く、曲になじまない場合もある。
一方で音程はかなり正確で、またいつも通りフレーズの終わりまで丁寧に歌っているから、もし客席で聴いていれば好演と聴こえたはずである。
伴奏に魅せられた故・福永陽一郎氏の手による器楽・声楽の渾然一体となった福永版も、また「沙羅」の初演独唱者である故・木下保氏の手による旋律感を重視したシンプルな、しかし音の粒立ち凛然とした木下版も、今となってはあまり演奏されないが、共に珠玉の作品である。
ちなみに慶應ワグネルでは前述の第92回定演(1967)以来、4年に一度はこの曲を取り上げる、という慣例が第104回定演(1979)まで続き、この間のワグネリアンは全員が「沙羅」の演奏経験がある。
その演奏スタイルは「大和言葉(やまとことば)」という言わば歌舞伎や百人一首の歌詠みのような日本古来の発音に基づき、それによって日本語のディクションの美を追求しようとするものであったが、早稲田グリーではそのスタイルや、そもそも「沙羅」という選曲をバカにする者も多かった。山古堂主人もその一人でした(爆)。
でも、6曲目「行々子(よしきり)」などはまさに珠玉でございます。
6.合同演奏 |
「十の詩曲」による六つの男声合唱曲より
1)4.怒りの日
2)5.鎮魂歌
3)6.歌
作曲:D. Shostakovitch
訳詩:安田 二郎
編曲:福永 陽一郎
指揮:小林 研一郎
福永陽一郎氏の演奏設定とはやや異なる。全般的に「溜め」が少なく、ごく簡単に言えば器楽的な演奏である。
従って、この曲に強い思い入れを持っている方からすると、終曲「歌」などではもう少し濃い演奏を望まれるかも知れない。
後述する通り、この曲については言い出せばきりが無いから、先に結論のみ記すが、原詩、もしくは原詩に忠実な邦訳を読み込み、かつロシアの近現代音楽を少しでもかじっていれば、この演奏における小林氏の楽曲解釈が「ショスタコーヴィッチの"十の詩曲"」として、日本語の語感よりも器楽的な機能性に重心に置いた、極めて合理的なものである事は、明快に理解し得る、ということです。
そういうことで楽曲の構成感は優れたものなのだが、合唱はというと、もちろん一定の水準には達しているから、スリルやサスペンスは無いのだが、やはり大変そう(笑)。
良く頑張っている合唱と物凄く頑張っちゃってる一部の大砲群、というのが率直な感想。
何かを表現する余裕が無く、歌うために歌う、といった風にも聴こえる部分もあるが、それはこの年になって出来る意地悪な聴き方というものか。
・・・やはりこの曲は人心を惑わせるセイレーンである。
ということで以下、「十の詩曲」に関して長々と山古堂主人独白。
特に同志社関係の方の御意見を是非ともお伺いしたいところです。
そもそも福永陽一郎氏は生前、男声版「十の詩曲」の演奏をそう簡単に許可しなかった。
それはこの編曲が声楽的に過大な負担を強いるから、よほど声と勢いのある合唱団でなければ勧められない、という言い方での不許可であったが、根底には「安田二郎の訳詞」と自身の手による「男声版」という、極めて私的で強い思い入れがあったと推察する。
以前記したように、「安田二郎」とは福永陽一郎氏のペンネームで、太平洋戦争で失った二人の親友、安田保正・松永二郎というお二人の名から取られたものであり、また「男声版」は第14回東西四連において、ヴェトナム戦争で公開銃殺刑に処せられた一人のベトコン少年に捧げられ、自身の指揮によって同志社と共に忘れ得ぬ名演をしているのである。
その福永陽一郎氏が1990年2月に逝去されてからというもの、この曲を振りたがっていた/歌いたがっていた人々が堰を切ったように続々と演目に加えた。
といっても絶対的な「声」が無ければ演奏出来ないから、山古堂主人の知る限りでは、その演奏数は一桁の域を出ず、またその全てが早稲田グリーか同志社グリーの関係者によるものである。
それらの演奏がどうかというと、無論箸にも棒にもかからんという演奏はあまり無いが、率直に言って楽譜を音にするので手一杯な部分と、レクイエムか挽歌のようにメソメソした解釈との交錯、そしてそれに満足しているように聴こえるのである。
大変な楽譜だし情操的な訳詞だし、確かにそれはそれで立派ではあるのだが、そこにはその場に集う演奏者の固有の思想(政治思想とかいう狭い意味ではない、以下同じ)や主張はなく、あるのは安田二郎による訳詞と、福永陽一郎氏の背中、そしてOB団体にあっては演奏者のノスタルジーであって、最も大切なはずの詩の本来的な意味へのアプローチや「ショスタコーヴィッチの音楽」は、遠くにかすんでしまっている。
安田二郎の訳詞による男声版「十の詩曲」とはそういうものだ、それで良いのかも知れない。
しかし、と、あえて山古堂主人は言う。
この「十の詩曲」とプラウダ批判・ジダーノフ批判との関連について本当のところは知らないが、ソヴィエト当局からソヴィエト体制賛美のための圧力が常にかかっていた事実はあるだろう。
しかしそういう環境下で、ソヴィエト革命の当事者であった詩人達の詩を題材にすることで、さも「ソヴィエト革命賛美」のようにカムフラージュして当局からの圧力をかわしつつ、裏には、国の存立基盤であるはずなのに主客転倒し虐げられている民衆が、不条理を糺すために立ち上がり、よって何か貴いものを血を以って勝ち取る、そしてその勝ち取るものが「ソヴィエト体制」であることを意味するとは限らず、まさに国家存立の意義である民衆の幸福であるべきだ、という意識があったはずだ。
そういう観点で考えるならば、4曲目「怒りの日」(原題は「(近衛兵の銃に倒れた者達に対して敬意をと鎮魂のために)脱帽せよ」)の激しい感情や終曲「歌」の明るい終結は、ショスタコーヴィッチの信念であり、つくりものの明るい未来を吹聴する「森の歌」や交響曲9番終楽章とはイデオロギーが異なるのである。更に言えば、男声版になっていない曲には、民衆の持つ巨大なエネルギーを表す「通り(街)へ出よ!」や「五月一日」という、歌う者にも巨大なエネルギーを要求する歌が含まれている。
「革命詩人による十の詩 Op.88」が作曲された1951年、ロシアは社会主義国家としての第二次大戦を勝利で終え、その余勢を駆ったスターリンが朝鮮動乱に手を染めている頃でもある。
第二次大戦におけるドイツとの過酷な戦いにおいて、「ソヴィエト社会主義vsナチス帝国主義」というイデオロギー戦争から「母なるロシアを守れ」へとスローガンを転換することで、前線の兵士達が奮い立ち、奇跡的にドイツ軍を押し返した史実や、この戦争で特に都市部の男女比に大きな不均衡が生じたため「労働女性」が奨励され、例えばトロリーバスの運転手が一時期全員女性になったことなど、様々なショックが収まっていない時期に、また戦争なのである。
血を流すことで自由なり思想信条なりを勝ち取る、という主題について、福永氏にとって共通する強い思いがあったことは間違いない。
言わずもがな、だが、福永氏はこの曲を銃殺されたベトコンの少年のために、或いは世界で頻発する戦争や紛争で死傷する者のために、或いは太平洋戦争で亡くした親友のために演奏し、そしてそれらの思想の延長として平和幸福を願っておられた。
しかし、ショスタコーヴィッチは国家間の武力行使による民衆の死(あるいは不条理な)についてのみならない、更に普遍的なテーマとしてこの「血を流すことで自由なり思想信条なりを勝ち取る」という主題を作品に内包させたように思われてならず、従って福永氏亡き後こそ、福永氏の演奏スタイルに囚われない、もっと言えば「安田二郎」の訳詩に囚われ過ぎない解釈や奏法が、福永氏以外の演奏者によって存在しなければならない、と思うのである。
山古堂主人としてはそういうことを学生時代から考えていた中で、「十の詩曲」をやりたいという声や、その演奏解釈などについて随分いろいろな話を聞いたし、また現在も聞くのだが、いわく「同志社の名演を超えたい」、「初演版の楽譜にこだわりたい」「この曲を歌い切れるテナーが揃った」なのである。
あるいは近視眼的な詩の解釈やフレーズに分断された奏法設定の他には、音楽の位置付けという意味での奏者の思想や信条を明確に聞いたことは一度も無い。これほどのプロテスト・ソングであるにも拘わらず!
ということで、山古堂主人はいつの日か、しっかりと踏み込んだ、思想に満ちた演奏を聴きたい。
関西学院グリー百周年でデュオパのミサをやったように、同志社グリー百周年で「十の詩曲」をやらないかしら。
最後に、これは決して福永陽一郎氏をおとしめようとするものではないが、事実として記しておくべきことと判断して、記します。
この「十の詩曲」の原曲譜は、数年前に全音楽譜出版社から、ロシア語歌詞の全曲版(発音用のカタカナまで振ってある)が出版されていて、現在も入手可能である。そこには演奏用の邦訳詞はないが、伊東一郎氏/早稲田グリー1972卒、現在早稲田大学文学部教授(露文)によるによる、文学としての訳詩が掲載されている。
「安田二郎」の訳詞は、確かに良く出来ている。しかし、全音楽譜出版の楽譜にある伊東一郎氏の訳詩もお読み頂きたい。
「安田二郎」の訳詞で省略され、失われたニュアンスが良く分かるし、その無視出来ないギャップも良く分かる。それを知った上で「曲より訳詞を優先させるのだ」と仰るのであれば、山古堂主人は何を言う意味も無い。
さて本題。実はこの全音楽譜出版の楽譜より遥か以前に、「十の詩曲」の混声全曲版が、それも邦訳詞だけの版が出版されていた。
これはポケットスコアシリーズ(確か音楽之友社だったと思う)にあったもので、福永氏が男声版を編曲した1965年よりも前、確か1950年代に初版が出ていて、1990年代初頭には絶版になったと思われる。
山古堂主人も学生時代に購入したのだが、残念ながら早武という変態イカ踊り男@早稲グリ1989卒に不覚にも無担保で貸したところ、この変態イカ踊り男がものの見事に紛失した。
そのため、今となってはポケットスコア版の邦訳者が誰だか分からないのだが、少なくとも「安田二郎」ではなかった。
しかし、ポケットスコア版の邦訳はまさに「安田二郎」の訳詞とほとんど変わらないものである。僅かな違いは、例えば1曲目であれば、全音ポケットスコアでは「ロシアに春が来る」が、安田二郎訳では「祖国に春が来る」になっているだけで、他は全て同じであり、その他の曲の歌詞でも、固有名詞をより普遍的な名詞に置き換えた程度で、感覚的には98%が同じであった。
ということで、「安田二郎」の訳詞は、ポケットスコア版にある邦訳歌詞から「ロシア」などの固有名詞を消して普遍的な意図を付与した、という意義はあるかと思うが、基本的にオリジナル訳ではない。
従って、福永氏の思い入れは「安田二郎」の訳詞そのものには無いと判断され、むしろその訳詞を読み込んだ上で私的な想いと渾然一体となった奏法設定に依るところ、大なのである。
だから、その奏法設定こそが福永氏の思想そのものであって、福永氏亡き後の演奏者がそれを真似たって文字通り「詰まらない」のである。