改めて指摘されると関係者も「へ?」と思うようなことがあります。
例えば、大学の「応援歌」で、その歌詞に他校の名前を入れているケース。
実例としては慶應の「我ぞ覇者」と早稲田の「光る青雲」ですが、考えたら結構スゴイことではありませんか。
早慶以外にもあるのかしら?
慶應「我ぞ覇者(作詞:藤浦洸:作曲:古関裕而)」(1946)
<4番>
好くぞ来たれり 好敵早稲田
天日の下にぞ 戦わん
精鋭我にあり 力ぞあふれたり
おお 打てよ 砕け 早稲田を倒せ
慶應 慶應 慶應義塾
叫べよ高く 覇者の名を
早稲田「光る青雲(作詞:岩崎巌、作曲:古関裕而)」(1947)
<4番>
希望の杜かげ みどりの夢よ
競ふ青春 誇りの歌よ
慶應倒し 意気あげて
この喜びを 歌はうよ
早稲田 早稲田 早稲田 早稲田
1903年に早稲田野球部が先輩格の慶應野球部に挑戦状を叩き付け、結局慶應が11-9で勝って以来の早慶の間柄ですから、運動競技は勿論のこと、例えば「早稲田文学」と「三田文学」など、何に付けても早慶で鎬を削って来ました。応援歌も例外ではなく、「作歌合戦」も熾烈でございました。
応援歌にしても校歌にしても、慶應が作れば早稲田が追いつき追い越し、それがまた慶應を刺激する、と言うことで、その為の作曲家の選定も一時は奪い合いで大変でございました。
30代以上の方なら御存知、「家族対抗!歌合戦」の審査委員長であらせられた古関裕而氏などは、まさに引っ張り凧だったようで。
年表のようにまとめてみましょう。
まずは早慶の学校創立から。
1858 福澤諭吉、蘭学塾を創始
1868 蘭学塾を慶応義塾と改称
1882 大隈重信、東京専門学校創立
1902 東京専門学校を早稲田大学と改称
早慶ともに学問の場の創設ということでは一緒ですが、ごく簡単に言えば慶應は有志エリートから日本を支える者を養成する、早稲田は広く民衆からリーダーを養成する、ということで、創設の目的がやや異なります。中学校の歴史のテストで出るかも知れませんよ。
次いで、運動競技と歌の相関を見てみましょうか。
1901 慶應義塾ワグネル・ソサィエティー創立(当時は器楽声楽の区別なし)
1903 野球の早慶戦開始(慶應が11-9で勝ち)
1904 慶應 :旧塾歌制定(作詞:角田勤一郎、作曲:金須嘉之進)
1905 早慶レガッタ開始(何と挑戦者の早稲田の勝ち)
1906 早慶戦野球の応援過熱への憂慮から、全競技での早慶対抗試合を中止
1907 早稲田:校歌制定(作詞:相馬 御風/作曲:東儀 鐵笛)
1907 早稲田大学グリークラブ創立(当時の名称は音楽会声楽部)
慶應・早稲田とも、音楽団体の創立以前から一部学生による音楽活動のあったことが確認されており、「創立年」は言わば後付けです。
以前SPの項でも記しましたが、慶應の旧塾歌は、歌詩に高邁な言葉を散りばめつつも、基本は塾祖礼賛とその後継者たる学生の自負という、あえて言えば「私的」な内容を伝統的な七五調で表現し、旋律は6/8拍子(正確には4/4拍子で付点八分音符+十六分音符の連続)の「もしもしカメよ」的な唱歌風で、まさに学生が口ずさむことを前提とした歌でした。
一方早稲田の校歌は八七調で硬く、歌詞も後述するように「公的」な意味合いを前面に出し、旋律も高音の連続や上行音形の最後を長音符にするなど、溌剌さと威厳を持たせようということで、学生愛謡歌というよりも式典歌、歌う者を厳粛な気持ちにさせ、精神を引き締めるような方向で作られました。
この方向がうらやましかったのか(笑)、そのうち慶應は「学生OBの集う場で、人心を鼓舞するような力ある塾歌が欲しい」と言う要望が出て、最終的に1940年、現在の塾歌が新作制定されました。
さあ、所謂「応援」なるものの形式がだんだん整ってきます。
1922 ラグビーによる早慶対抗戦開始(早慶対抗試合の復活)
1925 東京六大学野球リーグ開始(早慶戦野球の復活)
1927 東京六大学野球リーグ戦のラジオ実況放送開始
1927 早稲田:旧第一応援歌「競技の使命(作詩:五十嵐力、作曲:山田耕筰)」
1927 慶應 :応援歌「若き血(作詞作曲:堀内敬三)」
1928 慶應 :学生歌「丘の上(作詞:青柳瑞穂、作曲:菅原明朗)」
1929 初の天覧早慶戦(慶應が12-0で勝ち)
1930 早慶レガッタの復活
1931 早稲田:応援歌「紺碧の空(作詞:住治男、作曲:古関裕而)」
1940 慶應 :新塾歌制定(作詞:富田正文、作曲:信時潔)
1943 学徒出陣、「最後の早慶戦」
東京六大学野球が始まると、単に早慶での勝った負けたではなくて、リーグ優勝が掛かります。
で、当時黄金期でもあった慶應野球部が、1927/昭和2年作の「若き血」を引っさげて1930/昭和5年までの4年間で数度の優勝を含む好成績を挙げ、一方早稲田はというと5位あたりを低迷している。
これではいかん、と当時若干21歳の古関裕而氏を抜擢して作られたのが早稲田第六応援歌「紺碧の空」。
この完成披露となった1931/昭和6年から、今度は早稲田が優勝を含む好成績を挙げるようになったというので、「紺碧の空」を第一応援歌に昇格させちゃった。
やはり、歌は人心を鼓舞するのですな。
ついでに、応援歌というよりは学生歌の慶應「丘の上」などは、これを歌った1928/昭和3年の秋季リーグで十戦十勝したものだから、その後は試合で勝った時だけ歌うことにしたりする(=でも歌う機会はたくさんあるんだよ、という自信がたまりません)。
大正から昭和30年代まで、早慶戦の人気はまさに絶大なものでした。特に野球は学生スポーツの枠を超え、まさに大衆娯楽となっていました。往時の写真を見ると観客の数と層に驚きます。
早慶戦野球において応援や試合後の喧騒が球場の外にまで及び、慶應が勝てば早稲田総長宅前まで押しかけて「慶應万歳!」と叫び、早稲田が勝てば慶應塾長宅前で「早稲田万歳!」と叫ぶ、あるいは試合後に銀座へ繰り出して粗相に及ぶ、等々といったこともあり、早慶首脳の決断によって全競技での早慶対抗試合が中止となった期間もあります(1906-1921。野球は1925年の東京六大学野球リーグに含まれる形で復活)。
1933年には「リンゴ事件」というのがあって、詳細はこれもWeb検索でお調べ頂ければ沢山出てきますが、要は、いろいろ伏線はありますが9回表、慶應の水原三塁手(後にプロ野球入り、巨人軍監督)に早稲田の応援席から食べかけのリンゴが投げつけられ、それを水原選手が応援席に投げ返したら早大生の顔に当たった、しかも9回裏に慶應が逆転勝ちをしたことから、試合後に早稲田応援団(応援部が主導する応援集団の意か)の一部が興奮してグラウンドや慶應応援席になだれ込み、慶應応援部の指揮棒を奪い取るなどした、というものです。
結果、この事件の責任を取って、早稲田応援部は一時解散、慶應の水原選手は自主退学、ということに。
早慶戦の汚点として語り継がれていますが、それほどに熱狂する対象でもあった、という証左であります。
また、この事件後、早稲田は1塁側、慶應は3塁側に応援席を設け、棲み分けるようになったとのこと。
更に1960年秋、リーグ優勝のかかった早慶6連戦(リーグ戦3試合+優勝決定戦3試合、結局早稲田が優勝)では、6試合の総観客数が約35万人! 早慶交歓演奏会を6日続けても、その百分の一くらいしか動員出来ないような気が(笑)
そんな早慶戦ですから、早々とラジオ中継が始まったのもうなずけます(日本のラジオ放送は1925年の開始、スポーツ中継としては1927年7月の高校野球・甲子園に次いで2件目)。
昭和初期に販売されていた校歌や応援歌のSPも、ラジオ放送で流れたことも手伝って、恐らく相当な枚数が販売されたと推測されます。
今でもちょっとしたSP専門店に行けばたいてい何枚か置いてあります。
1943/昭和18年、敵性競技たる野球やテニスといったスポーツの自粛を強要され、学徒出陣も始まった中で、慶應より申し入れがあり、「最後の早慶戦」が開催されます。
試合後、慶應側は早稲田大学校歌を、早稲田側は「若き血」を、そして全員で「海ゆかば」を唱和したとのことです。
そして、戦後。
戦後いち早く復活した大衆娯楽、東京六大学野球。1946 慶應 :応援歌「我ぞ覇者(作詞:藤浦洸:作曲:古関裕而)」
1947 早稲田:応援歌「光る青雲(作詞:岩崎巌、作曲:古関裕而)」
1952 早稲田:学生歌「早稲田の栄光(作詩:岩崎巌/西条八十補作、作曲:芥川也寸志)」
この蔭には、太平洋戦争中も大量のボールやバットを保管して「夢と一緒に」戦火から守り抜き、終戦すぐに六大学の全球団に分配した早稲田野球部の逸話もありますが、それはともかく慶應がいきなりライバル校の名前を入れた応援歌「我ぞ覇者」で攻めてきたから驚きです。
反則です。
そして文字通り「画期的」です。
それも古関裕而氏が戦前に作曲した早稲田応援歌「紺碧の空」の出来が良かったからと、同じ古関氏に作曲してもらったりしている。
しかも慶應がリーグ優勝しちゃった。
さあ、早稲田もハムラビ法典の教えに従って「目には目を/歌には歌を」です。
翌年には応援歌「光る青雲」で対抗します。
その作曲家はウチが本家とばかりに古関裕而氏。
この一連の流れがマニアにはたまりません(笑)
これで戦前のように応援が過熱したらタダじゃ済みませんが、そこは早慶もオトナになったということでしょう、この歌合戦が元で暴動が起きたという話はありません。
なお、両校とも、応援歌「我ぞ覇者」「光る青雲」の歌詞にある「早稲田」なり「慶應」なりは、試合に際してその時々の対戦先の学校名を入れる、という指示に一応なっています。
だから「光る青雲」は早明戦ラグビーならば「明治を倒し意気上げて/この喜びを歌おうよ」となるし(本当)、女子なぎなた大会で聖心女子大と対戦する時は「聖心倒し意気上げて/この喜びを歌おうよ」となります(本当?)。
戦後7年経って、慶應「丘の上」の如き学生歌がやっと早稲田にも出来ます。
「早稲田の栄光」。
これまた試合に勝った時だけ歌うという扱い。
この歌は4/4拍子で普通に1拍目から歌い出すような楽譜なのですが、早稲田グリーでは伝統的に1拍前倒しにして4拍目で入り、弱起ベースのスローバラードで歌います。
その結果サビの前で3/4拍子をはさみ、サビは譜面通りという変則になりますが、一向に気にしません(笑)。
ですが、改めて応援歌集のレコードなどを聴くと、楽譜通りに1拍目から入ってやや行進曲風に歌うのもなかなかカッコ良いものです。
他校は存じませんが、早稲田の場合はもう1曲、勝った時だけ歌うというのがあります。
早稲田大学ラグビー部「荒ぶる(作詩:小野田康一、作曲:早大音楽部)」です。
この「勝った時だけ」は強烈で、単に相手に勝った時ではなくて全国制覇した時だけ、というからスゴイ。
さすがに毎年聴ける歌ではありません。
以上、運動競技も歌も、慶應が先行して早稲田がそれを超えようとする、というのが基本的な構図です。
早稲田の方からエポックメイキングの応援歌が出るのは、1965/昭和40年の「コンバット・マーチ」(歌か?)を待つことになります。
以下、山古堂主人の所蔵する早稲田ソングの音源です。
■校歌
早稲田大学校歌
相馬御風作詩/坪内逍遥校閲/東儀鐵笛作曲、明治40年制定
■応援歌
敵塁如何に
作詞不詳、日清戦争の頃の軍歌「敵は幾万ありとても」の替え歌、明治38年
競技の使命
戦前の第一応援歌、五十嵐 力/作曲:山田 耕筰、昭和2年作
天に二つの日あるなし
戦前の第三応援歌、作詩:西條 八十/作曲:中山 晋平、昭和2年作
大地をふみて
戦前の第五応援歌、小出正吾作詩/草川信作曲 昭和3年作
紺碧の空
戦前の第六/新第一応援歌、住治男作詩/古関裕而作曲 昭和6年作
仰げよ荘厳
長田幹彦作詩/杉山長谷夫作曲 昭和9年作
光る青雲
岩崎巌作詩/古関裕而作曲 昭和22年作、現在では第二応援歌と紹介されています
精悍若き
岩崎巌作詩/野村茂作曲 昭和25年作曲
輝く早稲田
早稲田大学グリークラブ作詩/阿部幸明作曲 昭和25年作
あの眉、若人
岩崎巌作詩/服部嘉香補作/古関裕而作曲 昭和27年作
永遠なるみどり
田中千恵子作詩/西条八十補作/古関裕而作曲、昭和33年作
燃ゆる太陽
佐伯孝夫作詩/吉田正作曲、昭和37年作
コンバットマーチ
三木佑二郎作曲、昭和40年作
吼えろ早稲田の獅子
永六輔作詞/中村八大作曲、昭和42年作
ビバ・ワセダ
牛島芳作詩/チャーリー石黒作曲、昭和51年作
早稲田健児~情けは無用~
青島幸男作詩/渡辺晋作曲、昭和53年作
早稲田自由の風が吹く
北川幸比古作詞/前田六郎作曲、昭和53年作
ザ・チャンス
タモリ作詩/岸田哲作曲、昭和55年作
■学生歌
早稲田野人の歌
与謝野鉄幹作詞/作曲不詳、明治41年?
逍遥歌
酒枝義旗作詞/平山嘉三作曲、大正9年? 高等学院愛唱歌
早稲田の栄光
岩崎巌作詩/西条八十補作/芥川也寸志作曲、昭和27年作曲
えんじの唄
多門冴子作詩/藤田雄次郎作曲、昭和55年作
早稲田の四季
星豊作詞/村上菊一郎・新庄嘉章補作/中村二大作曲、昭和47年作
■部歌
雄弁会:雄弁会音頭
作詞・作曲不詳/中村二大編曲、明治時代より歌い継がれる
ラグビー部:北風
川浪良吉作詞/スコットランドスクールソング、大正11年作
ラグビー部:荒ぶる
小野田康一作詞/早大音楽部作曲、大正12年作
グリークラブ:遥かな友に
磯部俶作詞作曲、昭和26年作
グリークラブ:輝く太陽
磯部俶作詞作曲、昭和28年作
■戦中歌
若き学徒の歌
早稲田大学選定/伊藤寛之作詞/池安延作曲、昭和15年作
■その他(居酒屋ソング含む)
早稲田でかんしょ節
作詞・作曲不詳、明治時代より歌い継がれる
早稲田おけさ
作詞・作曲不詳、大正8年より歌い継がれる
早稲田こゝに涙あり
秋月ともみ作詞/寺岡眞三作曲、昭和49年作
五万人節
作詞・作曲不詳
とことん節
作詞・作曲不詳
早稲田小唄
作詞・作曲不詳
早稲田すててこしゃんしゃん
作詞・作曲不詳
早稲田だんちょね節
作詞・作曲不詳
早稲田つんつん節
作詞・作曲不詳
上記だけで39曲ありますが、この他に戦前の第二応援歌「ああ若き日の血は躍る」(第四は縁起をかついで欠番です)A、通番なしの応援歌「見よや早稲田の健児」「ああ愉快なり」「玲瓏の天」「勝てよ早稲田」「怒涛の歓呼」「勝てり吾等」、戦後には「王者ぞわれ等」「ダイナマイト・マーチ」――何だかどれもこれも凄い曲名ですな――、昭和40年代の早慶共に低迷していた時期に作られた、早慶戦の試合前に両校合同で歌う「早慶讃歌―花の早慶戦―」、そして極めつけは大隈候生誕125周年記念祭歌、
「でかいぞ大隈」
(爆笑過ぎて腰痛になりそうです、聴いてみたい)もあります。
「人生劇場」も早稲田ソングでしょう。
居酒屋系の替え歌・春歌・詩吟(笑) ・エール交換(爆)に至ってはアマゾンの昆虫みたいなものでどれだけ変種がいるのか、良く分かりませんです。
ちなみにデジタル化作業チェックのために上記音源を一気に聴いた時は、どれもこれも「わせだッ、わせだッ」と何度も連呼するので終いには頭が痛くなってきました。
そうそう、慶應ワグネルの方々が仰るには「我が塾歌は、正しくは、酒の席で歌ってはいけない、塾旗を掲げて歌わねばならない」だそうです。
関西学院グリーも「Old Kwansei」「Song For Kwansei」「U Boj」を歌うときは直立不動・かかとを付けて歌わねばなりません。
その点「早稲田大学校歌」は披露宴で歌っても高田馬場で呑み過ぎて吐きながら歌っても良いのであります。
<参考文献>
●早稲田大学WEBサイト
●慶應義塾WEBサイト
●早慶レガッタWEBサイト
●レコードジャケット
コロムビア AL-121(1958年制作)鈴木紘輝先輩(1966卒)所蔵
ポリドール MI-1247(1974年制作)加藤晴生先輩(1962卒)所蔵
ミノルフォン/徳間音楽工業 KC-7102~3(1981年制作)加藤晴生先輩(1962卒)所蔵
なお、「ビバ・ワセダ」の作詩者でもあります故・牛島芳氏の著した「応援歌物語」(1979年、敬文堂刊、絶版)には、全ての応援歌について時代背景も併せて詳細に記されているようです。