・・・と冒頭のセリフを(日本の)元日に書いたまでは良かったのですが、その直後からふと思い立って東京六連のデジタル化に精を出してしまったりして筆が進まず、いわゆる旧正月(春節)もさんざん過ぎてからの校了となってしまいました。でもね、そのおかげで東京六連デジタル化作業を完了しましたよ。万歳!! 第36回までのアナログ分で42枚、第37~50回分で34枚、計76枚のCDでございます。第50回分までの東西四連CD78枚と合わせれば堂々の154枚組、約8Kg!! さ、次は早稲田グリー定演のデジタル化だぜよ。残るは1980年代の7回分、目標は今年中!
念のために記すと、中国政府発表の2006年大型連休は以下の通りです。
元旦:2005年12/30(金)午後~2006年1/3(火)
春節:1/29(日)~2/4(土)、代替出勤1/28(土)午前中、2/5(日)
労働節:5/1(月)~5/7(日)、代替出勤4/29(土)午前中、4/30(日)
国慶節:10/1(日)~10/7(土)、代替出勤9/30(土)午前中、10/8(日)
中国駐在の日本人の方々は、一般的に上記4つの連休の1つ以上を利用して一時帰国される方が多いのですが、やはり交通混雑や運賃高騰などが生じるのはいずこも同じだし、山古堂主人としては上海に来て1年目、こちらの祝日の風情を見聞してやろう、という気持ちもあって、元旦と春節は上海で過ごしました。で、5月の労働節は日本のゴールデンウィークと重なるから大変だし、そうするとさしあたっての一時帰国予定は2006年10月。あとは日本出張があるかも知れませんが、近隣アジアの上海やソウルあたりだと、駐在員が日本に行くより、日本からこちらに出張に来られる方が多いので、なかなか(笑)
で、旧正月を上海で過ごした訳ですが、駐在の先輩方から伺っていた「夜も眠れないほど花火と爆竹が鳴りまくる数日間」というのが、やや期待はずれでした。確かに大晦日(1/28)の24時近くとかはそれなりに華々しかったのですが、駐在の先輩方も「昨年までに比べたら全く大人しい」と。まあでも、日本では深夜の花火・爆竹なんて無いのだし、あの爆撃機の空襲の如き花火、ゲリラ戦の機関銃の如き爆竹、そして低く垂れ込める硝煙で良しとしましょう。
ついでに、これまた少し中国ネタなど。
◆実話:猛烈爆竹/中国のある情報誌からのパクリですが・・・
ある村で少年達が春節の爆竹に興じていて、一人が路上で爆竹に火をつけたら、大音響と共に火柱が上がり、道路のマンホールも吹っ飛んで、あまりの威力に少年達は腰を抜かしてしまった。近所の人が役所に通報して調べたら、マンホールの下でガスの配管がちょっと漏れていたそうな。
◆「手作り」
こちらの餃子は茹でるか蒸すかが基本で、日本のようなぱりぱりした焼き餃子はあまり見かけません。そしてそういう水餃子や蒸し餃子が冷凍食品として50個入り500円とかで売られており、地元の人からすればやや高いのかも知れませんが、とりあえず手軽なので良く食べます。こちらでは黒酢で頂きますが、冷凍食品とはいえ侮れない、黒酢と相まってなかなか美味しい。
さて、その冷凍食品の水餃子で、ある中国主流メーカーの包装パックに「真実の手作り」というように書いてある。まあ中国だし人も沢山いるし本当だろうな、と特に疑いもしなかったが、ある日山古堂主人は見つけてしまった! 水餃子に指紋の跡がくっきり残っているのを! ・・・手袋もしない「真実の手作り」だったのね。食う前に熱を通すから問題ないでしょうけど、普通なら信頼の売り文句の「真実の手作り」が、意に反してとっても不安になってしまった山古堂主人なのでした(爆)
◆表意文字で表音する根性
日本が世界の文化や技術を取り込むのに、翻訳=辞書の整備と、そして意味に関係なくとりあえず外来語を導入出来てしまうカタカナが大きな役割を果たしたと思いますが、中国ではカタカナのように発音をそのまま中国語に移植する文字記号が無いので、アルファベットか、もしくは漢字を当てます。で、アルファベットだと国策にそぐわないようで、やはり漢字表記になるのですが、これが方や良くもまあ上手く当てたものだ、と感心する「可口可楽(Coca-Cola)」みたいなもあれば、方や意味として大きく外れてないけど・・・とか、良く当てたな、いうのもある。後者について、最近見かけたちょっと目を引いたものをほんの少し。
まずはとっても分かりやすいもの/映画系など;
「大怪獣龍亀加美拉」 「機動戦士高達」 「星球大戦」 「男人之苦」 「奥特曼」 「蝙蝠侠」
→「大怪獣ガメラ」 「機動戦士ガンダム」 「STAR-WARS」 「男はつらいよ」 「ウルトラマン」 「バットマン」
中国で暮らしていると、別に何て事は無いもの/食品など;
「雪碧」 「巧克力」 「三明治」 「牛排」 「楽天小熊餅」 「格力高百力滋上海蟹風味」
→「Sprite」 「チョコレート」 「サンドウィッチ」 「ステーキ」 「ロッテ・コアラのマーチ」 「グリコ・プリッツのシャンハイクラブテイスト」
・・・「三明治」は音から来ているのだけど、東京六連で歌っていた者としては何とも(笑)
うーん、と3秒ほど、名づけた人の頭の中を考えるもの;
「大熊猫」 「小熊猫」 「龍猫」
→「パンダ」 「レッサーパンダ」 「となりのトトロ」
・・・パンダは中国産だから良いけど、トトロは何故? ガメラもそうだけど怪獣とか
化け物系には「龍」つけるのかしら? なら同志社グリー1984卒の西山勲氏は
「龍西山」(Long-xi-shan)、 ん? 何か似合うぞ、カッコいいぞ(爆)
西欧の音楽家など/名付け親、いや当て付け親の根性を感じます。
「斯特拉文斯基」 「普羅科菲耶夫」 「舒曼」
「魯賓斯坦演奏:肖邦的鋼琴奏鳴曲」 「維也納国家歌劇院:瓦格納的湯豪塞」
→「ストラヴィンスキー」 「プロコフィエフ」 「シューマン」
「ルビンシュタイン演奏:ショパンのピアノソナタ」 「ウィーン・シュターツオパー:ワーグナーのタンホイザー」
・・・「維也納」はピンインで「wei-ye-na」なので、英語読みの「ヴィエナ」に当てたようで。
音楽家の名前が中国語でどう表記されるか、網羅的に知りたいというフリークな方は、このサイトを訪ねてみて下さい。
なお、発音が同じなら細かいことには拘らないケースもあり、例えばショパンは「肖邦」「蕭邦」、ファッションは「時装」「時尚」のように、文字通りの当て字も多いのでした。だから、逆にごく身近な言葉のはずなのに辞書に載ってなくて慌てることもあります。
それと、山古堂主人の合唱活動に関するトピックス。
2/10(土)にマレーシア・クアラルンプールで開催された「第2回アジア日本人男声合唱祭」に参加して来ました。このフェスティヴァル、2回目と言うのも驚きですが、何と公式サイトがあります。各団の演目はこちらをどうぞ。「第2回アジア日本人男声合唱祭」
<<第2回アジア日本人男声合唱祭>>
期日:2006年2月11日(土)
会場:ルター・ハウス・チャペル(マレーシア・クアラルンプール)
マレーシア/KLグリークラブ 28名
タイ/男声合唱団マーマーヨ 18名
フィリピン/マニラ・グリークラブ 15名
インドネシア/ジャカルタ・メールクワイヤー 10名
香港/香港日本人倶楽部合唱団 9名
中国/上海グリークラブ 6名
上海グリーは、上海駐在の入江さん(同志社グリーOB、1997卒?)と松下さん(神戸大混声OB、1988卒?)がカラオケ屋で意気投合して2004年末に設立した、と聞いていますが、山古堂主人も昨年9月からこっそりと、その末席を温めております。現在月1回の練習で、メンバーの中には浙江省(杭州)や江蘇省(張家港)から2時間かけて来る方もおられ、皆さん御多忙でなかなか全員が揃いません。
かかる上海グリー、<第2回アジア日本人男声合唱祭>には初参加だったのですが、残念ながら仕事の都合で1人が欠席し、6名で参加。文字通りの少数精鋭。
上海の日本人は、領事館の登録人数で4万4千人強だそうで、これに周辺地域も含め、かつ様々な滞在者を加えると10万人はいると言われており、最近の上海では2つ目の混声合唱団が立ち上がったというのに、男声合唱団は前述の通りの人数です。恐らく、潜在的な男声合唱人口はもっと多いのでしょうが、ここ上海はビジネススピードも速いからその対応に追われることも多いし、ビジネス上の不合理・不条理にも振り回されるし、国内出張でも移動距離が大きいので出張の拘束時間も長いし、そんなことで週末の自由度が他国の駐在員より低いのかも知れません。
実は山古堂主人も、仕事の都合が付くかどうか怪しかったのですが、バリトン担当が山古堂主人ひとりだけだったり、編曲もメンバーの一人である成田正人氏(慶應ワグネル1976卒、学指揮)による、上海グリーのメンバー個々人の声を念頭に置いたものだったから、山古堂主人に拘わらずこれ以上欠席者が出ると単独ステージキャンセル、合同演奏への参加のみ、ということになっちゃうので、副業の出張でソウル・北京・四川省と各1泊で移動の後、金曜に上海ワンタッチで深夜にクアラルンプール入り、と言う強行軍でした。帰りも夜行便で、マレーシア滞在時間はわずか26時間。しかもマイナス8度のソウル・北京からコート抱えていきなり南国に飛ぶなんて、好きでやってることとは言え、疲れます。
クアラルンプールは、在住日本人は6千人とかと聞きましたが、最近は退職後のセカンドライフをかの地で過ごす方が増えており、KLグリーのメンバーにもそういった方々が多いそうす。そのKLグリーの指導者は第10回東西四連で関学グリーを指揮した学生指揮者、亀井清一郎氏(1963卒)で、山古堂主人にしてみれば、あのオープンリールで聴いた「Messe Solennelle」の指揮者ですからまさに天上人、合同演奏で黒人霊歌や「U Boj」を指揮して頂いちゃったりして、とっても感激でした。
どの団も基本的に駐在員が主体なので、メンバーの入れ替わりが激しかったりして、団の維持だけでも大変、演奏レベルを追及出来るような体制ではなかなかないのですが、そんなネガティヴな条件を跳ね返し、皆がそれぞれに置かれた環境下で精一杯男声合唱を楽しみ、こういった演奏機会をプロデュースして発表し聴き合うと言う、単なるお祭りではないちょっと涙モノの演奏会でした。終演後はヒルトンホテルで懇親会。各団の関係者やご家族なども加わり、奥様方も練習を重ねた出し物を披露したり全体合唱したりしましたが、そういう楽しいひと時の中で、日本を離れて暮らす駐在員や家族の結束力、そして苦労をひしひしと感じました。
さて、東京六連デジタル化を完遂し、クアラルンプールにも行ったしで、達成感と満足感にひたりつつ、第33回東西四連について。
<第33回東西四大学合唱演奏会>
1984/06/16 大阪フェスティバルホール

HANSHIN LIVE RECORDING HLR-8417~19
前々回にも記した通り、この阪神ライヴレコーディングという制作業者の手によるレコードは今ひとつで、音に躍動感がないから、それを聴いて本番当日の音を推測しながら論評することになるが、レコード製作技術だけではない、何かがこの演奏会全体に窺える。それは恐らく、前回の第32回東西四連があまりに好評であったが故に、純粋な演奏意欲だけではない、何かモヤモヤした、そして何か厭らしいバイアスがかかっているからではなかろうか。
以下、いつも通りの形式で記していくが、内容はかなり過激であると自認しているし、一部の合唱団の状況を敷衍して語っているから、的外れかも知れないので、御意見をお待ちします。
1.エール交換(早稲田・同志社・慶應・関西学院) |
各団とも単独ステージの演目に大いに影響を受けた演奏をしているのが面白い。
早稲田、演奏スタイルは前年に倣っており、全節マルカートで歌い、結尾の「わせだ、わせだ」もはっきり区切っている。普段聴き慣れた校歌演奏との違和感と言うか、ハモっていない感じがするのは、バリトンの音色によるものと思われる。例年より芯(アクート共鳴による高域共鳴成分、ブリランテ)がなくフワフワした感じで、音量は出ているはずなのにバリトンだけが奥に引っ込んで聴こえ、聴感として山田耕筰氏の手による複雑な編曲が充分に機能しない。また、冒頭「都の」の「や」のような上行跳躍音形でいきなり吼えて大外ししている人や、div.後の不安定さなどもあり、同年の第33回東京六連のエールや単独ステージ「月光とピエロ」が、腰の据わったかなり良い歌であるのと比べると、同じ合唱団ではないようにすら感じる。気合の空回りもあるのかとは思うものの、どうもそれだけではないようだ。単独ステージの項で詳述。
同志社、合唱団として基礎をきちんと訓練していることがよく分かる。エール交換特有の火花は散っていないが、少しゆっくりしたテンポで、落ち着いて端整な演奏をし、前年と遜色ない演奏が出来そうな予感。
慶應義塾、セカンドテナーのバリトン化が進んでいることもあって、更に重心の低い重厚な演奏。まるで「Nänie (哀悼歌) Op.82」のような(笑) いや、素晴らしいです。
関西学院グリークラブ、とっても上手なんだけど、これまた「鐘の音を聴け」みたいな、ミステリアスでアンニュイな感じ。「ゴスロリ」ならぬゴスグリ。KGの103人がディズニーランド「ホーンテッドマンション」のコスチュームで歌ってたら効果万点(満点どころか、笑)だったかも。
・・・ゴスロリが分からない方は、どうぞWeb検索でご確認下さいませ(笑)
2.早稲田大学グリークラブ |
男声四部合唱組曲「青いメッセージ」
~草野心平詩集「蛙」より~ (委嘱・関西初演)
1)月蝕と花火 序詩
2)青イ花
3)"ブルース" 婆さん蛙ミミミの挨拶
4)サリム自伝
5)ごびらっふの独白
作詩:草野 心平
作曲:高嶋 みどり
指揮:山田 一雄
Pf:アンリエット・ピュイグ・ロジェ
演奏冒頭のアナウンスや演奏会プログラムの記載で「関西初演」となっているから、そのまま転用するが、こういう呼び方は、例えば東西四連が関西で開催される場合は、そのほぼ1ヶ月前に関東で「早慶交歓演奏会」を開催し、そこで東西四連の演目を披露しているため。演奏の顔ぶれは東西四連と同一であり、かつ時を置かずして再演をするから、実質的に初演と同一視しても良い、と考えるので、山古堂謹製「東西四連ライヴ記録全集」では、早慶交歓・同関交歓で先行演奏をしている演目でも「初演」と表記している。
「青いメッセージ」は、委嘱しても作品の出来上がりが遅い上、大小の修正を何度も入れる(笑)高嶋みどり氏への委嘱作品。この作品も、初演後に「ごびらっふの独白」の歌詩の扱い等で小規模の修正が入り、また「サリム自伝」の前に「秋の夜の会話」というあまり評判のよろしくない曲が加えられて出版された。
1980年代、新実徳英・木下牧子・高嶋みどり・西村朗といった、言わば新感覚の邦人作曲家への委嘱作品が目白押しとなる。そして行き着くところは鈴木輝昭、回帰で松下耕、信長貴富。敬称略。
この「青いメッセージ」、山田一雄氏の打点が良く分からない指揮と、自由奔放に弾かれる天才ロジェ女史のピアノのお陰か(笑)、いろいろ乱れはあるものの、緊張感が持続した演奏となっており、名演と賞する方も多い。早稲田グリーはその後、第46回東西四連(1997/06/22)において改訂版/出版譜を演奏しており、こちらは声としての迫力はやや薄れるが、リズム・音程とも整った見晴らしの良い模範的演奏となっている。どちらの演奏が良いかは好みの問題だが、あえて言うならば、前者は作詩者、後者は作曲者が喜びそうな演奏である。
さて、この名演とされる演奏に対する山古堂主人の率直な意見。
後日録音で冷静に聴くには堪えられない部分がいくつか存在する演奏。合唱機能としては雑然とした演奏、個人レベルでの「乗り」優先の演奏。合唱の基本に忠実に丁寧に歌っては生かされず、「乗り」で聴かせる事で生かされる作品だったから、確かに凄い演奏。聴衆を蛙の原始的世界に引きずり込むことに成功しているから、確かに名演。他方、同年5月の33回東京六連「月光とピエロ」に比べて、合唱団として演奏技術が作品に追いついていないのも明らかである。その為、追いついている一部メンバーの歌唱が突出して聴こえるなど、個人レベルでのバラつきが非常に大きく、それもまた雑然とした印象の大きい要素となっている。
自他共に名演と評する方が沢山おられ、しかもこのステージに乗っていた多くの方々と親しく交流させて頂いている中で、それでもあえて記す。それは、この演奏に代表される早稲田グリーの仕上がりというか、この年の練習の姿勢や方針、運営といった数々の事柄が、その後数年間の早稲田グリーに重大な影響を及ぼしていると確信しているからである。
ザッツの乱れは指揮の山田一雄氏に由来する部分もあろうが、例えば1・2曲目あたりのスローテンポであっても、フレーズ入りでのいかにも「待ちきれません!」みたいな、演奏上で無意味な突っ込みをする人が散見され、また必要以上に強い破裂子音が個人レベルで発せられ、そこらじゅうに散らばっている。33回東京六連「月光とピエロ」でもその傾向は少々あるのだが、それは指揮をした福永陽一郎氏が、第15回東西四連における同志社グリー「月光とピエロ」に際しても指示したであろう「単にキレイにまとめた演奏じゃ作品の本質を表せない」と同じ意図を持たせたのだと推測されるのに対し、こちらの「青いメッセージ」では、何のためにそういう突っ込みや破裂子音をしているのか、それが曲を活かすことになるのか、なんていう楽曲解釈の結果でもなさそうだし、表現の手段でもなさそうだし、どこでどういう技術をアプライするか、という技術の選択肢もコンセンサスも無く、ただの「乗り」でやっているとしか思われない。要は、突っ込みや破裂子音そのものを目的として、それを早稲田グリーの「売り」と自認しているように感じられるのである。そういう思考、そして演奏スタイルを他の作品にも遠慮なく持ち込む時代が、この後もしばらく続く。それはそれで四連や六連といった、一発勝負的な選曲が出来る場であれば、演目との相乗効果で成功の確率も高まるが、定演のように4ステージもあると、演目のバリエーション、というか制約があるから当然破綻する演目もあって、面白い・凄いステージとダメダメなステージと、非常にムラのある演奏会になる。それがまた良い、という麻薬患者のような観客とお互いに甘え合っているのも、かなりスゴイことですけど。
脱線気味に分析すると、優秀な団内ソリストの存在は、諸刃の剣でもあるのだが、特に1970年代後半あたりから、そういうソリストの個人芸が合唱からはみ出しても、上手けりゃ構わない、という「乗り」が生まれ、更に嵩じて上手かろうが上手くなかろうが個人プレーの抑制が全く効かなくなったのが、早稲田グリーに限らない1980年代中盤の特徴でもある。この時期に、故・福永陽一郎氏がある論評で「関西学院グリーの完璧さ」、いわく「個人の声を押さえ込み、刈り込んだ見事な生垣の人工的な美しさ」に対して異論を唱えたことに、膝を打って同意した方が沢山おられるのではないか。この辺、一番最後にもう少し記します。
また、早稲田グリーで言えばボイストレーナーが実質的に不在となって3年目、充分に共鳴させて遠くに飛ばすのではなく、ノドから出た声をそのまま客席に叩き付ける人が急増している。だから二部音符や全音符のような、音を伸ばしている間に悠長に発声ポジションを整えていける長音では張りまくるものの、四分音符より短い音では、ボイストレーナーに頼らずとも美声を出せる、高校での合唱経験者などの一握りの声が飛んで来るだけであって、ホール鳴りを味方につけられず、音色も雑然とし、人数の割には合唱としての声量が稼げていないし、「サリム自伝」で短音符の連続した早口の部分などでは共鳴の無い地声になってしまう。
複数の人間が集って一つの作品を演奏する合唱形式において、構成員の演奏センスとか基礎技術といったものが作品の要求する水準以上に統一されていなければ、演奏はただの雑然とした音の塊でしかなく、それで聴く者に何らかの思いを惹起せしむるとすれば、それはもはや不気味な音への嫌悪感か、動物的な興奮だけである。たまたま「縄文」や、「青いメッセージ」や同年第32回定演の「祈りの虹(新実徳英)」などが、端整で正確な歌い方では演奏効果を発揮出来ない、動物的な興奮で魂を吹き込み色を加えるべき作品だから、そういう作品で「名演」の呼び声高い演奏をし、味を占めてしまった早稲田グリーは、技術的な基盤整備を疎かにし乗りを優先させ、声のデカさや子音の鋭さや演奏の激しさと言う、限られた表現形式にますます偏った合唱団になっていく。そしてこの技術的凋落と建て直しのサイクルにたっぷり5年かかるのである。前述の通り、その間に名演が無いと言う積りは無く、選曲の妙や、あるいは上手く制御してくれるコバケンのような指揮者を得て、むしろ積極的に名演であったと言うべき演奏もあるが、その反面、聴くに堪えない駄演もある。ついでに記せば、常任の指導者を置かないことによって、様々な指揮者との出会いがある反面、その年々の学指揮やパートリーダーの能力によって演奏の出来不出来が大きく左右されるという、これもまた諸刃の剣である。
伝統的に演奏ムラの大きい早稲田大学グリークラブですが、この時期は1960年代後半と同じく、ちょっと極端に行き過ぎたかな、と。山古堂主人自身もその流れに身を任せておりましたから、主犯の一人ですけど。
で、ズレた結論。新入生で経験者2割、初心者8割なら、当然初心者の基礎技術習得を誘導したボトムアップが効果的。難曲ほど効果的。
閑話休題、恐竜時代にマッチしたこの作品、特に終曲「ごびらっふの独白」は合唱コンクールの自由曲として一時期猛威を振るった。全日本合唱コンクール名演集の中にも1994年・大学の部における京都産業大学グリークラブの演奏などが収録されている(ここでの曲目紹介がまた「初演は早稲田グリー、豪華キャストによる演奏」)。
またもや話は逸れるが、全日本合唱コンクール・大学の部で常勝であった1980-1990年代前半の京都産業大学グリークラブは、まるで1950~1960年代の合唱コンクールでもてはやされたような清楚でナチュラルなトーンと、恐らくは徹底した反復練習による精密なハーモニーが特徴で、指揮者・吉村信良氏が合唱団を完全に掌握し統制し、声に任せない=絶対に荒れない演奏をするから、例えばシューベルトとかメンデルスゾーンとかに演目を特化していれば、もしかしたらかのポリテク・クワイヤに近いところまで行けたかも知れない。一方、高声系を張らずに綺麗に抜いて揃え、バリトンを少し抑えることで全体バランスを取る京産大グリーにおいては、スリリングとか怒涛と言った言葉は無縁で、例えばウィーン少年合唱団にワーグナーやヘーガーの作品が似合わないように、コンクール自由曲で「ごびらっふの独白」とか「ヒロシマにかける虹(「祈りの虹」終曲)」などを取り上げると、確かに減点法では高得点だが、詩や曲の意図するところとは少々外れた演奏に聴こえる。それで金賞を何年にもわたってさらっちゃうものだから、しかも京産大グリーのメンバーが無邪気に「僕らは日本一だ!」みたいなことを、確かTシャツだかウィンドブレーカーだかにもプリントしちゃうから、既にコンクールなんか出なくなっているその他大勢の大学男声合唱団に面白くない思いを芽生えさせたりして、アンチ京産大グリー派も少なくなかった。(それが嵩じて、1992年だったか?に東西四連メンバー若手OBを中心とした「ドンクサック合唱団」が立ち上がったのかしら? 最初からコンクール出場を掲げてたし。同時期に立ち上がった「なにわコラリアーズ」はどうなんだろ。)
コンクールで金賞を獲るには、合唱団を演奏技術的にも精神的にもコンクールコンディションまで引き上げねばならず、その努力と犠牲は大変なものである。コンクール功罪論的カオス(山古堂PAT.PEND)に立ち入るつもりは無いが、コンクール運営サイドの内輪受け的な流行作りの意図や合唱スタイル押し付けや、各種政治的活動に伴う加点を差し引いても、京都産業大学グリークラブがかなりのレベルの演奏をしている事は確かであるし、結果としての金賞連続受賞は貶められるものではない。実際、1987年の全国大会課題曲「Die Nacht」の演奏などは、翌年の第37回東西四連における某ドイツ物エキスパート男声合唱団による演奏よりもシューベルトの意図を捉えているし、音程もフレージングも仕上がりも良い。
更に脱線するが、コンクール金賞団体による定期演奏会などで、コンクールに乗せた演目だけが出色の演奏で、その他の演目が練習不足や気力不足やナメてかかっていてとんでもない、という誠に音楽にとって失礼なケースも多々あって、山古堂主人はそういう合唱団を明確に軽蔑している。例えば、定演のアンコールなどで、コンクールで取り上げた三善晃や鈴木輝昭のちょっとこまっしゃくれた作品を素晴らしく演奏するのに、片や、男声合唱曲に例えればですよ、メインステージの「月光とピエロ」の冒頭ト長調10度和音とか「柳川風俗詩」冒頭のオクターヴユニゾンみたいなのが決まらない、そんな演奏会に遭ってしまい、終演を待たずに席を蹴って帰ったことがある。あ、これは京産大グリーさんのことぢゃないです、10年ほど前までコンクールを席巻しまくった某指揮者氏の傘下団体のことですから。
・・・長々と失礼しました。
3.同志社グリークラブ |
「FOUR AFRO-AMERICAN SONGS」
1)Chain-Gang Song(編曲:Mary Howe)
2)Railroad Chant(編曲:Tom Scott)
3)Lef' Away(編曲:David W. Guion)
4)De Glory Road(作曲:Jacques Wolfe)
指揮:福永 陽一郎
Pf:久邇 之宜
Afro-Americanとはアフリカ系アメリカ人及びその文化全般を指し、黒人を指すNiger/Negroという言葉が差別用語とされた事から使われ出した言葉であり、かつアフリカ系アメリカ人自身も自己の存在をアピールするため(Identity確立ですな)に使った言葉である。また、トラディショナルな合唱の世界では黒人音楽といえば「Spirituals」すなわち霊歌を意味するが、この演目では「Spirituals」とは言っていない。つまりこの「FOUR AFRO-AMERICAN SONGS」とは文字通り「4つのアフリカ系アメリカ人の歌」ということであり、単に米国の著名な合唱編曲者の黒人霊歌を並べたような、一般的なステージを意図してはいない。
このような表記とした背景は2つあるように思われる。
まず演奏会プログラムにある福永陽一郎氏の解説によると、「成立したいきさつから言って、"ジャズ"にしても"黒人霊歌"にしても、黒人の場合は、黒人が民族として元から持っていた旋律や歌詞ではないわけで、その意味でも、アメリカの黒人、アフリカ系のアメリカ人の音楽は、アメリカ固有のものであって、他の種の民謡風歌曲のように、源流を"故地"に求めるわけにはいかない。」として、その音楽性出自を明らかにした上で、キリスト教と関連した精神的慰撫、いわゆる「Spirituals」とは別物の、実生活すなわち仕事歌・子守歌・(葬式での)泣き歌などの類型の存在を示そうという試みである。
もう一つは、実は演奏会プログラムにも記されていないのだが、これらの演目は、既に1967年の同志社グリー第63回定演で取り上げられていて、その当時の福永陽一郎氏の解説を要約すれば、本来の黒人霊歌を知る者として黒人霊歌をそれっぽく指揮する事は出来るが、そもそも現在愛唱されている黒人霊歌の合唱編曲は、著名で影響力もある編曲家達による、アメリカで受け入れられやすい華美で派手な編曲に仕上がった曲達なのであって、そんな編曲は学生指揮者が取り上げてやりたいように任せておけば良いという考えであった、しかし、いつのまにかそちらが主流になってきていて、「わたくしは、ムード的に外形だけなぞった黒人霊歌にあきあきした。今度は、体当たりであるが、それだけに、より真実に近いものに迫り得るかも知れないと、信じ、かつ努力を重ねている。」という趣旨である。
第63回定演当時は、これらの演目を「黒人霊歌集」と表示し、ステージも「Set Down Servant」で締めくくっているのだが、いずれにせよ、「本来のアメリカ黒人音楽」を御自身の手で具現化したかったのであろう。ちなみに福永氏は、やはり御自身がが指揮をした1986年・第35回東京六連の早稲田グリー「Traditional Negro Spirituals」において、解説で略々「昨今の学生はマーラーの交響曲の解釈で何時間も議論するくせに黒人霊歌を知らないという、驚くべき事態」とも記して、黒人霊歌の日本合唱界における文化的・歴史的位置付けについて持論を展開しておられる。
編曲が四者四様で、それぞれに興味深い。無論西欧の伝統的な手法に則った編曲ではあるが、間違いなくガーシュウィン以降のアメリカ音楽であり、ブルーな感じがちゃんと出ていて、もしかしたら現代でも新鮮に聴こえるかも知れない。そして、聴くには楽しく、しかし歌う側にすれば、実際にブルーな感じを出すにはそれこそ楽譜の行間を読む必要があり、相当難しいのではないか、とも思われる。一時期「黒人霊歌なら同志社」と言われていた時期もあるようだが、この演奏での同志社グリーは、声や歌い方が少々綺麗過ぎると言うか、オプシディアンの如き硬質な音色ではあるものの、ソリストにも恵まれ、福永氏の意図を良く顕しているように思う。福永先生もこういう曲はとても得意でしたし、歌ったメンバーは存分に楽しめたことでしょう。演目・演奏の噛み合った好演。
余談ながら、演目の2曲目が「線路は続くよどこまでも」と同じ原曲に拠っているようである。日本国産の童謡・唱歌と思われている「線路は続くよどこまでも」も、50年ほど前の楽譜ではちゃんと黒人霊歌として紹介され、その冒頭の歌詩が「線路の仕事はいつまでも」となっている。線路敷設のつらい労働と、その線路の行き着く先には神の栄光の国がある、という労働歌が本来の姿なのでした。
4.慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団 |
「Nänie (哀悼歌) Op.82」
作詩:F. Schiller
作曲:J. Brahms
編曲:北村 協一
指揮:畑中 良輔
Pf:三浦 洋一
山古堂では、慶應ワグネルの近代史上において屈指の超名演と位置付けている。前述の上海グリーのメンバー・成田正人氏のご推薦である第22回東京六連(1973)の慶應ワグネル「運命の歌Op.54」(指揮:畑中良輔/Pf:久邇之宜!)と併せて、山古堂主人の究極的お気に入りブラームス男声版演奏である。
この曲のオリジナル編成は、わずか15分足らずの演奏のために混声四部合唱とオーケストラ、そしてオプションながらハープ2台を要するという贅沢なもので、大変に美しく印象的な曲であり、演奏効果も相当に大きい。反面、合唱は高度の技量を要求され、体力もノドも消耗するし、また聴衆に残る楽曲の印象も強いので、例えば「ドイツ・レクイエム」等の前座に置くには座りが悪いし、かといってわずか15分足らず・単一楽章のこの曲をメインステージに据え、これを演奏するためだけにオーケストラを手配するというのも無理がある。 ということで、少なくとも合唱団主催の演奏会においてオリジナル編成で取り上げられる事は、ほぼ皆無である(山古堂主人が創立の一翼を担った「RK放送合唱団」の創立3周年記念演奏会では、本当に「Nänie」1曲のためだけにオケとハープ付けちゃいましたけど、大変でした)。
もちろんピアノ伴奏譜もあるが、これはこれで演奏会の構成上「帯に短し襷に長し」で、やはりあまり演奏されない。同様の構成・規模である「運命の歌 Op.54」と共に、演奏をライヴで聴く機会が極めて稀な作品。だが、小品とは言え、ブラームスが天才を顕わした珠玉の名品である。
この作品を男声合唱に編曲するには、大変な困難が待ち構えている。すなわち混声ではベースパートが約2オクターヴの音域を駆使して書かれており、特に高音での突出した動きが演奏効果に極めて大きな役割を果たしているのだが、そういった音符を単純に男声合唱に移植すると、男声の密集和音の中でベースだけが不自然にはみ出して聞こえてしまうし、かといって高音部をオクターヴ下げると、今度は音楽全体の躍動感が抑制され、或いは高音からのフレーズの連関を守ろうとして中音域のフレーズまでオクターヴ下げなきゃいけないから、ベースがほとんど限界に近い低音のフレーズを這い回ることになって、それを相当に鳴らさないと四声のバランスが取れない。では皆川版「Missa Mater Patris」のように各パートの「ターボ領域」にはまるように旋律を組替えていくと、一本のフレーズの中での音色の一貫性が無くなって、この「Nänie」の美点が霧散してしまう。こういう困難は、もはや編曲者の技量云々で対処出来るものではなく、ブラームスの天才によって混声四部という広い音域がフルに活かされた結果なのであって、男声合唱への編曲は所詮無理な作業だと割り切るしかない。
北村協一氏の編曲は、混声では聴かせ処のベースの高音旋律を全てオクターヴ下げ、やはりベースに歌わせるという、極めて穏当な対応で処しており、また慶應ワグネルはその最大限の機能を発揮してこの困難な男声合唱編曲を具現化している。長大なフレーズを緊張感を失わずに構築していく、この畑中氏&慶應ワグネルの演奏は、ドイツ語の捌き、発声、フレージングといったエレメントがしっかりと組み込まれた上で、全体の構成感、ブラームスらしいうねりや厚みやほの暗い熱さ、全てが14分に凝縮された一つの完成形であると言っても過言ではない。困難な編曲に合唱機能を歩み寄らせて名演をした、ということでは、前年の同志社グリー「Misa Mater Patris」と双璧とも思われる。聴く度に心動かされる、超名演の一つである。
またも余談だが、慶應ワグネルは以前にも「第9回 10回代の東西四連のレコード-2(第16回と第19回)」の10回代東西四連総括の項で記したように、自尊心を糧に自尊心を産む合唱団なので、追い詰められたくないから練習するし、追い詰められても何とか形をつけて、ステージでは何食わぬ、いや自尊心を食いまくった涼しい顔で歌うのだが、稀に舞台本番に乗せても追い詰められたままの状態だったりするケースがある。実は、そういう時の慶應ワグネルこそ、稀有なまでに充実した指導陣に基礎をみっちり叩き込まれている上に全メンバーが全神経を歌唱に集中させるから、文字通りの「真価」を発揮するように思われてならない。その最も代表的なものが1985年の第110回定演レパートリー「ファウストの劫罰」だと山古堂主人は捉えており、慶應ワグネルの一つの金字塔である。この「Nänie (哀悼歌) Op.82」もそのケースに当てはまるかどうかは一概に言えないが、困難な編曲ゆえに少なくとも数箇所では結構な爆弾を抱え込まざるを得なかっただろうと推測され、慶應ワグネルの「本気」が垣間見える演奏とお見受けするのだが、果たして真実や如何に?
更に余談だが、早稲田グリーのあまりに未整備な新入生教育プログラムや、訳分からんチカラ技のヤ発声指導や訳分からんチカラ技のマ発声指導や訳分からんチカラ技のケ発声指導や訳分からんチカラ技のン発声指導や、下級生イジメその他(※1)のため、嫌気が差して山古堂主人は1年目の夏から休部していた。そんな山古堂主人が早稲グリに復帰したのは、上記の「ファウストの劫罰」を聴いてしまったからである。更に言えば、そのワグネル渾身のステージに、某白雲なびく駿河台の予備校で席を並べていたM氏が乗っていて、彼が懸命に歌う姿を見て悔しかったからである。
(※1)
山古堂主人の早稲グリ同期は、確か入団当初では名簿上で40名くらいいたと思うが、これが1年目で半減し、卒業時点では16名であった。ベース同期なんか3人で、諸事情あり実働は2人。以前作成した「東西四連オンステ人数推移表」を御覧頂ければ分かるが、第36~37回東西四連で見ると、早稲グリだけが人数陥没なのである。人数減少に悩む昨今の現役の気持ちが分かるつもりだったり、慶同関や関大・甲南などの各団OBとも新入生獲得策に関する情報交換をしたり参考にと音源を寄贈したりしてるのは、こんなところから来てます。・・・アイヤ~、また昔の話で愚痴ってしまった。
5.関西学院グリークラブ |
「鐘の音を聴け」-男声合唱のための幻想曲- (委嘱初演)
1)Ⅰ - Hear the sledges with the bells - Silver bells!
2)Ⅱ - Hear the mellow wedding bells - Golden Bells!
3)Ⅲ - Hear the loud alarum bells - Brazen bells!
4)Ⅳ - Hear the tolling of the bells - Iron bells!
詩:Edgar Allan. Poe
作曲:新実 徳英
指揮:北村 協一
本来この「鐘の音(ね)を聴け」に楽章の区分は無く、連続して演奏されるが、詩が大きく4つに分かれていることから、便宜上それらの詩を楽章とみなし、デジタル化においてもインデックスを割り振って、詩の冒頭を上記のように記載した。
銀・金・真鍮・鉄という4種類の金属からなる鐘の、それぞれに持つ固有の音の印象を髣髴とさせる詩で構成されている。113行/601語からなるこの有名な詩の、4つの章をそれぞれ1行に超意訳すると、下記のような感じか。
橇(そり)に鳴る銀の鐘、楽しく透明に、輝かしく鳴る
婚礼に鳴る金の鐘、幸福と歓びに、豊かに鳴る
夜に鳴る真鍮の警鐘、恐怖と混乱、絶望に、打ち震えて鳴る
弔いに鳴る鉄の鐘、おののきと嘆きを乗せ、彼岸へと鳴る
この詩が人生の少・青・壮・老の4つの時期を象徴する、と解する人もいる。ちなみにロシアの作曲家、セルゲイ・ラフマニノフの合唱交響曲「鐘」も、このポーの詩(ロシア語訳)に曲をつけている。
この合唱作品、新実徳英氏の「実験音楽の時代」にあって、究極の作品の一つではなかろうか。それを関西学院グリークラブは究極の演奏で聴かせる。
本番1ヶ月前にやっと全曲が仕上がったということであり、しかも単純な協和音が少なくて生理的にやや同調しにくい音楽でもあり、かの反復練習の鬼ヶ島(山古堂PAT.PEND)からやって来た関西学院グリーが本番当日のステージリハーサルの途中で止まってしまい、北村協一氏もこの時ばかりは失敗を覚悟したらしい/常に伝統と先輩の重圧に喘ぐ関学グリーにあって、終演後に四回生が「これで俺達の使命は全うした」と、リサイタルを待たずに燃え尽きて真っ白な灰になったそうだ/演奏のあまりの完全さに酩酊した新実徳英氏が、この楽譜を関学グリーに奉納し封印したそうな/最前列に座っていた観客の証言によれば、ベースの声が顔に当たって痛かったらしい、等々、東西四連の長い歴史の中でも屈指の謎めいた、いや違う、伝説めいた演奏である。
とにかく一聴して頂くしかない、微妙な和音もきちんと鳴らし、フレージングも縦横の揃いも乱れない、こんな演奏はもう二度とあるものか、という超絶の演奏で、評価の範疇を超えた、「憑(つきもの)」の世界である。もしこの曲を取り上げるという合唱団があったとしても、この演奏を参考音源にするのはやめた方が良い。何かが憑くから。だいたい最初のピッチパイプの鳴らし方からして低く小さく厳かで、幽玄の世界に引きずり込もうとしてくるのだからたまらない、いやたまりまへん、ハァハァ(爆) 演奏後の聴衆の拍手も、いつもの関学グリーの演奏後に送られるものとは違って戸惑ったような、それでいて熱狂していて、欧米人が上質の能の舞台を見終わった後のような。要は良く分からんが凄いと(爆)。
あえて突っ込むとすれば、どの楽章も全く同じトーンで歌われているから、雪遊びも結婚式も関係なく全体的にホラー系に聴こえちゃうことと、英語の発音が関学グリー式で徹底されていること、くらいでしょうか。この演奏の後にエール交換があったら、さぞ晴れ晴れした「A Song for Kwansei」だったことでしょう(笑)
曲そのものは、実は現代作曲技法としてはそれほど先鋭的なものでもなく、ある水準に達した合唱団であれば、楽譜を音にするのは決して困難ではない(実際に東海メールクワイヤーや甍が演奏した事がある)。従い、関学グリーとは異なるアプローチをしても、面白い効果が出るかも知れない。
6.合同演奏 |
「シベリウス男声合唱曲集」
1)Sortunut ääni(失われた声/カンテレタルより)
2)Terve Kuu(月よ ごきげんよう/カレワラより)
3)Venematka(舟の旅/カレワラより)
4)Työnsä kumpasellaki(島の火/カンテレタルより)
5)Metsämiehen laulu(森の男の歌/A.Kivi)
6)Sydämeni laulu(我が心の歌/A.Kivi)
作曲:J. Sibelius
指揮:渡辺 暁雄
アンコール Finlandia-hymni(作曲:J. Sibelius)
かなりゆったりとしたテンポで鷹揚に演奏されており、現代にあってはやや批判を浴びそうな草食系大型恐竜スタイル。
でもまあ、そもそもそういう人数(演奏会プログラムでは330名)で演奏する曲集じゃないし(笑)。アンコールのフィンランディアはこの人数でも耐えられるけど。でも、それだけ集まって「Terve Kuu」の超低音Lo-Bはやっぱり聴こえない(爆)
ステージストーム |
1)早稲田 :最上川舟歌
2)同志社 :Slavnostní sbor
3)慶應義塾:Laast Lautenspiel und Becherklang
4)関西学院:U Boj
うーん、どの団もちょっと雑かな、と思う。それがストームというものでしょうけれど、でも以前と比べても何か違う、若々しく華々しいエンディングストームと言うより、重圧から開放されて緊張感が切れたような、まさに祭りの後のような、疲労感漂う演奏に思うのは、あまりに主観的でしょうか。
私見/この時期の大学男声合唱界の概論として;
早稲田グリー単独演奏の項でも触れたが、1970年代中盤~1980年前後の、演奏会に臨むにあたって粗い部分を丁寧につぶして仕上げてきた、そしてそういうことを可能としてきた時期から、人数的にもレパートリー的にも急激な隆起変動が来て、後輩の指導やら発声の統一やら、合唱機能の保守に手が回らなくなり、それまで積み上げてきた技術の伝承という遺産を食い潰し始めた、その始点がこの1984年、という気がする。3年間それなりに訓練されてきた4年生が「乗りだゼェ」という路線を選択すると、まだ訓練もされてない初心者7割の1年生がその背中を見てどう育つか、想像がつくと思うし、その影響は長く後を引く。更に言えば、この少し前あたりから各団に優秀なソリストが散在し、指導者達までが彼ら個人を臆面も無く賞賛し前面に押し立てて、彼らが合唱から突出した歌い方をしても歯止めをかけず、その結果、実際は玉石混淆な団員構成なのに、我も我もと雪崩をうって個人合唱主義(※2)に走っていく。
(※2)
合唱演奏の出来・不出来は優秀な個人で左右出来る、或いは左右してやる、もしくは影響力ある声を持つ個人がその団の演奏を牛耳ることを積極的に認める超実力主義。合唱は一人で出来ると豪語した阿呆もいる。合唱形式にあって個々人の個性も重視しようという合唱個人主義とは異なる。(山古堂PAT.PEND)
更に更に、この1980年代初頭の数年、自分達の演奏に自信を持っていることの裏返しとしての尊大さが悪い方に向かったようにも見受けられる。例えば、宴会や合宿等に際して後輩に対し芸や飲みを強要するということは、「肝を練る・根性をつける」と称して、少なからぬ大学男声合唱団において昔から行われていたろうが、それが遥かに陰湿になりかつパワーアップし、立派な式次第となってこの時期に確立され、1980年代中盤にはその節度を失った実践の最盛期となったようだ。そしてそれは、新人の早期退団による人数減少や団内の世代間の断層、そして演奏レベル低下の病巣になっていく。これは複数の大学男声合唱団OBと会話していて、この時期の話として東西を問わず妙に符合する。こういう面白い後輩のいじめ方があった/こうやって先輩にいじめられた、人格攻撃は当たり前/オチも救いない本当にただのイジメ、新入生の半分が辞めた/根性が無いからだ、等々。(早稲田グリーでは、やはり人数の激減した1990年代半ばに略々この病巣の切除を企画し成功して、他団も羨む大人数を確保したりしている。) もし1980年代前半に在籍した世代に、万一、気質として、他人の気持ちなんか分かろうとしない傲慢さがあったのだとすれば、それが却って押し出しの強い、1980年代前半の演奏の下地になったのかも知れませんけどね。
別に上手い人は上手く歌って頂いて良いし、声がデカイ人は(張るべきところで)張って頂いて良いのだけど、休符なのに伸ばして美声を誇示するとか、常に周囲よりデカイとかパートバランスなんか俺様に合わせろ、みたいな、合唱音楽としての全体的な構成からはみ出すことを、具体的にはそういうのをレコードに残す「無形文化へのいたずら書き」をむしろ勲章と思う文化が1980年代に生じちゃった。更に嵩じて、この時期に現役を過ごした方々がOBとなって演奏会場に訪れ、今度は客席から、腹式呼吸を使った無頼野蛮な「ブラボー!!」、演奏の完成度に拘わらない余計なお世話の「ブラボー!!」、後輩のライヴ記録に自分の声を残すための「ブラボー!!」、演奏後に出足を競って余韻をブッ殺す「ブラボー!!」、のテンコ盛りをレコードやCDに残すことになっていく。特に1980年代後半から1990年代中盤までは最悪と言って良く、エール交換で「ブラボー!!」、畑中先生や北村先生が登場しただけで「ブラボー!!」。
「ブラボー」、それはアマゾン奥地の、インディオより更に原始的生活をしている攻撃的な先住民族の総称も指すし、英語では「刺客」の意もあります。
話を戻す。
1~2月にかけての2週間ほどで一気に第33回(1984)~第36回(1987)東京六連のデジタル化を行った。同時期の東西四連の状況は別項に譲るとして、このわずか4年間での全般的な発声・表現技術の低下には驚くべきものがある。指導者の慢心か意趣替えか、あるいは東西四連と同じく第30回(1981)~第32回(1983)の東京六連で数多くの好演を生み出した各団の学生側の慢心か。そしてこの時期のこの傾向、驚くべきことに関西六大学合唱連盟でも同様なのである。無論、「ブラボー!!」のテンコ盛りも。1980年頃に発布された義務教育の新指導要領の悪弊と、それに伴う学生気質の変化という人もいましたし、ちょうどファミコンが流行り始めたことやバブル期突入との関連を言う人もいましたけど、それなら大学混声合唱だって同様の影響があってしかるべきなのですが・・・。
そんな中、やはり全体合唱主義の関西学院グリークラブ、発声至上主義の慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団、そしてちゃんとちゃんとの立教グリークラブは軸足が振れにくくて、演奏レベルの相対的低下率が小さい。
そんな訳で、次回以降、1980年代中盤から後半について記すのは、実はとっても気が重いんだな、これが。前述のような「凋落」の萌芽と経過と結果を身を以って体験し、かつ当時から上述のように問題整理して見ていたから、筆致が鋭くなる恐れもあるし、自分が当事者なのにそれを棚に上げて何だ、という批判もありそうだし、OB介入事件もあったし。日本に帰れなくなってしまいそう。山古堂主人は歌が上手くない人だったから、のほほんと個人合唱主義の恩恵にあずかっていた人達とは見識が180度違うしね。取り敢えず賞賛のインフレと評価基準の切下げでもしときましょうか(笑)
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テーマ:アカペラ・合唱・ゴスペル - ジャンル:音楽