過去の前例から見て、恐らく4~5年ほどはこちらにいるのではないかと思いますが、これに併せ、高価で精密なオーディオ機材や貴重なレコードを上海に持ち込むのは、通関での雑な扱いや税関官吏の私的判断による没収とか、電源品質の問題とかで恐ろしいから、山古堂の旧制音源デジタル化プロジェクトはここで4~5年間休止のやむなきに至ります。関西学院グリークラブ・慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団・同志社グリークラブ・関西大学グリークラブの各団OBと連携してのヒストリカル・ライブラリ構築や、多くの大学男声合唱団や男声合唱ファンへの音源提供ではかなりの貢献をすることが出来た(と思っている)山古堂主人が、2年後に控えた早稲田グリー創立100周年記念事業には何の貢献も出来なくなってしまいました。
さて、モダン過ぎる高層ビルが立ち並び、やたらに人とクルマが多く、ビジネススピードも恐らく世界一速い、ここ上海。
とりあえず1ヶ月はホテル住まいだから、まあまあ快適なのかも知れないが、そうは言っても日中は副業に精を出さねばならないから当然外歩きがあって、とても暑いのがまず参ったこと。ほぼ東京に近い気候と聞いていたが、気温のバンドが日本より上下に3度ずつ違うようだ。例えば夏で3度高いというのは結構しんどいことで、東京で34度となら上海37度、体温より高い温度の空気を吸っているのである。冬も少しばかり上海のほうが寒いそうだが、これが氷点をはさんで下回ると結構つらいことになる。ちなみに着任第1週、最初の4日間の昼間は平均37度くらい? ただ、金曜夜から土曜にかけては超大型台風「麦莎(マーシャ)」が上海をかすっていったから暴風雨となり、そのおかげ? で25度くらいだったかな。
次いで、車での移動が主なのだが、それが毎日片道2時間とか3時間とか当たり前だから、腰痛と首痛、そして排気ガスで喉痛と、あまり健康的でないのがこれまた辛いところ。そもそも身体を動かす機会があまりないようで、とりあえずホテルでひとり腕立て伏せなんかやってみたり。
更に、読者にも中国駐在(あるいは出張)経験者がおられればご同慶の至りだが、少し地方に出れば取引先との昼食夕食が酒だらけ、しかも相手によっては白酒(バイチュウ)と言う50度前後の蒸留酒による乾杯合戦が待っている。前任者との引継ぎの初週でかなり肝臓がすり減った気がする山古堂主人でありましたが、数年間で本当にすり減るでしょう。まあ副業の方では上司から「お前なんか死んでくれたほうが会社のためになる/予防接種なんぞ受けずに中国で疫病にかかって死ね」と言われている程度の存在感でございますから、肝臓がすり減るくらい当然だということですな。。。そうそう、聞いた話では、これから10月・上海蟹の季節になると、酒と蟹の接待で痛風の日本人患者が量産され、毎年地元の病院の収入に貢献するそうです。何か今から足先がチリチリするような気が(笑)
・・・実はこの原稿、かの有名な紹興で書いております。もちろん胃袋の80%は紹興酒に占拠されております。
それにしても、TVを見ていると8月15日を控えて、第二次大戦中の「抗日」闘争にまつわるドキュメンタリーやドラマが少なくなくて、やはり「戦勝記念日」は外出を控えようかな、なんて少し思ったりしています。それでもドラマの挿入歌で、抗日戦歌とはいえ合唱シーンが流れるとTVに釘付けになる自分がちょっとかわいい(馬鹿)
そんな中で、引き続き山古堂サイトの更新を行っていく所存でございます。
さて、ここでまた長い前振りのお許しを。ピアニストについて語らせたら京都・北白川の天下一品こってりラーメンを三日三晩すすりながら語れる山古堂主人、少しピアニストの話など。
数年前から親しくさせて頂いているピアニストがいる。教育者として学生を指導し、いくつかの合唱団の伴奏やバンド活動にも携わっておられるが、本質は一人の演奏家であり、謙虚であり大変な努力家であり、井上靖の表現を借りるならば、ピアニストという言葉の最も正しい意味において、山古堂主人が最も信頼し尊敬するピアニストである。
これまでにも何度か述べて来た通り、合唱団が長い時間をかけて修練し、練りに練ってきた成果である本番演奏を、1ステージ数十万円も獲る招聘ピアニストが独り相撲でぶち壊しにする修羅場を何度も見たし、また過去の録音でも少なからず聴いてきた。そのぶち壊しの要因は、ただの練習不足による要所での単純なミスタッチ、テンポアップ暴走、「アマチュアの伴奏なんて」という態度が本番でも抜けない狭量なプロ根性(36回四連/合同演奏でのピアニストなんか典型中の典型だった)、伴奏とナメてかかるからせっかくの美味しい旋律でも陳腐で平板な表現、指揮なんか見ない、等々といったとても低級なものから、合唱とブレスを合わせない、合唱の先天的な音の立ち上がりの遅さを計算しない、もしくは器楽奏者の習いで小節線を躊躇無く越えるので、小節線を越える瞬間に生じがちな合唱のわずかなルバートとずれる、といった器楽の専門教育を受けて来た者ならではのやや高度なギャップまでいろいろである。更に付け加えるならば、大抵の合唱曲のピアノ伴奏(特に1970年代までの邦人作品の多く)はとてもつまらない譜になっている、ということも要因としては認められる(だからといって手を抜いて良いと言うことではない)。
だが、山古堂主人が親しくさせて頂いているピアニスト ~~仮にAさんとしましょう~~ は、大変に聡明で、かつ卓越した技量と度量を持っているから、合唱に特有のフレージングと御本人のピアニズムに上手く折り合いを付け、合唱を上手く音楽に乗せてしまいながら、まるで協奏曲のようにピアノも自己主張を失わない。こういうピアニストは、山古堂主人が直接知る中では、他に久邇之宜先生しか知らない。
音楽の専門教育、というより器楽的な教育を受けた者が少ないアマチュア合唱団において、音楽的な運営を設計するディレクターとして、万全の信頼を寄せられる伴奏ピアニストというのは、率直に言えばほとんどいないように思うし、それは元々無理な注文でもある。誤解して頂きたくないが、合唱に携わっているピアノ・プレイヤーとして素晴らしい人はたくさんいる。これも山古堂主人が直接知る中で言えば、作曲家であり先天的な凄腕のO先生、本番が近づくに連れ毎回天井知らずの成長を遂げる、一種の天才であるZちゃん、ベーゼンドルファー275・インペリアルのエクストラベースをこれでもかと鳴らして下さったKさん、フランス物で独特の音色を駆使するNさん、等々。そういった優秀なピアニストの方々を論評するのはおこがましいとは思うが、とにかく「弾けるピアニスト」であればあるほど、アマチュア合唱団と折り合いを付けるには相当の忍耐と時間が必要であって、そんな教育者的配慮に喜びを見出して頂ければ良いが、そうでない場合においては、あるいは自己のピアニズムを抑制し、耐え、あるいはボランティア的に合唱団の指導まで頼まれる必要が、独奏ピアニストにあるかというと、そんな必要はないのである。そこを何とかお願いします、と合唱団ぐるみ抱き込んでしまっているのが実態だとしても、本来的には独奏ピアニストとしての教育を受けてきた方々にとって合唱伴奏は、ある意味で交わってはいけない世界なのかも知れない。
その上、ことピアノ伴奏付き合唱曲に関しては、山古堂主人はピアノを弾けないコンプレックス故に、「もし自分が弾けたらこう弾き、合唱とこう折り合いをつける」という明快なイメージを常に創っているし、そもそもピアノ・マニアなんてのはパソコンでどんな資料でも作れちゃうと錯覚していた一時代前の会社上級管理職みたいなもので、自分のことは棚に上げ、巷に溢れている大量のレコードやCDをお手軽に聴き、時には演奏会に行ったりなんかして、ホロヴィッツがどうだポゴレリチがどうだ、今日の演奏はどうだこうだ、と、さも自分も一流ピアニストか一流評論家であるかのごとき錯覚に惜しげも無く身を委ね、好き勝手にコケのむすまで批評する耳年増な種族だから、眼前にいる伴奏ピアニストの技量や精神なんか関係無しに、ただひたすら理想の音楽に邁進し押し付けてしまって、ピアニストや合唱団員に嫌われるのがオチである。そうして日本の合唱界から逃げるように大陸に渡り往く山古堂主人なのであった、ピアノ・マニア落人の里(嘘)、合唱ストーカーの流刑地(爆)、旧制音源デジタル化技術者の真空地帯(涙)、ああ上海が今夜も俺を呼んでいる(嬉?)
・・・・
Aさんのピアノで歌うようになって、これまで自分には無かった発想や思考に圧倒されるという事が何度も生じた。これは新鮮な衝撃であった。そういったピアニズムとの精神的対話が勃発する度に、練習・本番に拘わらず歌い出すのを忘れてしまったり、歌うのをやめて思索に耽ってしまったりした。Aさんのピアノは、前述のような山古堂主人の理想に対し、多くの場合その理想を具現化し、もしくは異なる理想系を示し、或いは遥かに深く、そして示唆に富んだ音楽を奏でてくれる。最近改めて気付かされたのだが、Aさんのピアノは山古堂主人に演奏すること以外の余計な事を思わせない、演奏中に音楽的な対話に没頭さえ出来る、一種の超越した歌を歌わせて下さるのである。パートリーダー根性の抜けない山古堂主人、悲しいことにこれまた練習中/本番に拘わらず常に合唱団サイドの細かい技術的な問題に気を取られてしまい、自分の事を棚に上げてあーでもないこーでもないと内心なり口に出すなり愚痴をタレまくるキャラクターなのだが、Aさんと対峙(Aさんが山古堂主人を構ってくれているかどうかは分からない)しながら歌う時は、そういう雑念を払拭し、音楽に身を委ねて充実した時間を過ごす、誠に人畜無害で素直な一合唱団員になっている(ような気がする)。
そういうAさんがプロとして弾く独奏を聴く機会が、残念なことにこれまで全く無かったのだが、最近になって録音ながらも聴く機会を得た。ヘッドフォンながら聴いたAさんは、数十年の厳しい修練に根ざした、ピアノを弾くための肉体と精神をバックボーンに持つ、真のプロフェッショナル・ピアニストであった。その集中力と前進力と厳しさと、包容力と技術。合唱伴奏の時に手を抜いているということではなく、一人で舞台を創る者としてのスタンスの違いであるが、いずれにせよ数週間にわたって山古堂主人の思考領域を席巻するに充分な様々なテーマが提議され、これもまた新鮮な衝撃であった。Aさんのそういう新たな一面を知ることが出来たのは、この夏最高の喜びである。
Aさんの手指に宿るミューズ神が、Aさんの更なる飛翔を、そして芸術家としての未来を加護して下さることを、心より願ってやみません。
それと、珍盤ゲットのご報告。
慶応ワグネル1989卒、今春に宮崎から岩手に転勤したという近藤大介様から「会津高校がコンポ3でコンクール全国大会金賞を獲った年、1981年の東北大会・高校の部のライヴレコードがある」との情報が! 話は逸れるが近藤氏、現役時代はカッコ良くてねえ、ブレザーなんか着ちゃった日には遠からん者は音にも聞ける慶應ボーイで、人なつこい笑顔と相まって合唱界の「叶姉妹の妹のほう」でしたよ、まさに。 貧乏だったし当時女子大生ブームを鼻にかけた女子大生連中が嫌いで女子大生に近づかず全く女子大合唱団に知られてなかった山古堂主人とは、これもまさに対極でしたねえ。え? ホメ殺し? いや、近藤様のおかげで山古堂主人の浅学なワインの知識が格段に向上しました、本当にありがとうございます。こちらにも国産ワイン「長城」とかありますのでぜひお越しをお待ちしとります。
で、レコードを送付して頂いたら直ぐに転勤の内示があって、結局赴任4日前の深夜にデジタル化を完了した。収録は下記の通りで、A面に男声、B面に女声が収録されている。これ以外の出場高校を収録したレコードがあるのかどうか定かではないが、同年の女声シードには安積女子と山形西がいた。
<第34回全日本合唱コンクール東北大会(1981/10/24,25 山形県民会館ホール)>
東京レコーディング(株) TRC-1041
シード 福島県立会津高等学校(男声74名) 指揮:安部 哲夫
「合唱のためのコンポジションIII」(作曲:間宮 芳生)より
1)艫 2)引き念仏
金賞 福島県立磐城高等学校(男声49名) 指揮:桐原 岱純 伴奏:山崎 雅子
「Messa da Requiem」(作曲:L.Perosi)より
Dies Irae
銀賞 福島県立福島高等学校(男声70名) 指揮:高麗 正宣
「エレミア哀歌」(作曲:R. Whyte)より
Lamed Men
銅賞 福島県立安積高等学校(男声45名) 指揮:佐々木 文子 伴奏:向山 良作
「戦旅」(作詩:伊藤 桂一/作曲:高田 三郎)より
1)晴夜 2)自分の眼
金賞 秋田県立秋田北高等学校(女声50名) 指揮:小林 清人 伴奏:工藤 真由子
「MISSA BREVIS IN D」(作曲:B. Britten)より
1)Kyrie 2)Gloria 3)Agnus Dei
銀賞 秋田和洋女子高等学校(女声29名) 指揮:工藤 宣子 伴奏:浅野 志生
「葡萄の歌」(作詩:関根 栄一/作曲:湯山 昭)より
1)林にて 2)葡萄の歌
銀賞 秋田県立横手城南高等学校(女声50名) 指揮:高橋 弘 伴奏:向井 周子
「三つの抒情」(作曲:三善 晃)より
1)北の海(詩:中原 中也)
2)ふるさとの夜に寄す(詩:立原 道造)
銅賞 岩手県立盛岡第二高等学校(女声54名) 指揮:亀田 芳夫 伴奏:伊藤 明美
「蝶」(作詩:伊藤 海彦/作曲:中田 喜直)より
1)灰色の雨 2)よみがえる光
レコードの盤質は非常に良く、ほとんどノイズがなかった。割合オンマイクだが恐らく指揮台のすぐ両脇にハイ・マウントポジションのマイクを立てたものと思われ、特に男声はベースが遠めに聞こえる。
録音だから審査員が聴いた音楽とは異なるだろうが、会津は全国大会の演奏より迫力が薄く、またピッチもやや難。その他の個別演奏の感想は省くが、演目・発声・演奏スタイルのどれをとっても当時の流行で、特に女声では深い発声の山形西系とかシャープ・ハイスピード・クイックレスポンスの安積女子系とか、指導者の路線が直ぐに判る。また、東北地方のどの団体が全国大会で金賞を取ってもおかしくない、ということでは決してなく、銀賞・銅賞の団体は、やはりそれなりに課題を残した演奏をしているな、と感じた。少し可哀想なのは女声の下位団体で、確かに技術的な劣位もあるにはあるが、それより指導者のフレージング設定に問題を感じることが少なくなかった。何でこんな所で、フレージングをぶった切ってまで全員揃ってブレスするの? とか、そのディクションはあり得ないだろ、とか。そういうところを修正するだけで音楽の流れが全く変わり、もう1ランク上の演奏が出来ただろうに。他方、安積「戦旅」の語り口はなかなか良いです。それでも銅賞だったのは、恐らくパート毎の声のまとまりが問題視されたのかな。
さてさて、やっと本題。
多くの方々から「早よ書け」という有り難い激励のお言葉を頂いている四連漫談(?)、特に30~33回については、ご出演あそばされました皆様におかれましても大変に思い入れと自信がおありの御様子が、マッハ級ジェット戦闘機の轟音の如くビリビリと肌に伝わって参ります。そのような方々に日本海をはさんで長距離弾道弾「長征2号」を打ち込むのが良いか、本音はともかくパンダでも贈って友好関係を維持するのが良いか、まるで中国政府のような気分(爆)
<第31回東西四大学合唱演奏会>
1982/06/20 大阪フェスティバルホール

(HANSHIN LIVE RECORDING HLR-8217~9)
山古堂主人としては、この録音業者「阪神ライブレコーディング」は今ひとつの業者である。盤質として材質が柔らかめ、溝がやや狭くて浅く埃の影響がモロ、ダイナミックレンジが狭い、ベース(低音)の収録が人間の聴覚曲線を考えていなくて弱め、等々。
まあそうは言っても、合唱の録音特性をきちんと勉強し適切に収録出来ているレコード・CDなんてあんまりないし、今日はこれくらいで勘弁しといたるわ。
1.エール交換(慶應・関西学院・早稲田・同志社) |
慶應、この1982年より塾歌の編曲を北村協一氏編曲のものに変更する(というか二十数年前のバージョンに戻る)。
最初はレガートで荘重に始まって「嵐の中にはためきて」からテンポアップ・マルカートで躍動し、「文化」を戦前のSPでもやってない「ぶんくゎ」と読む。まだ少々ぎこちない感じもするが、その後の塾歌の演奏コンセプトがここに定まっている。やはりワグネルの歌う塾歌は一種別格の高級感がある。ただ、この編曲は最近の慶應ワグネルにはしんどいよね、特に後半のトップにあるAsはここ数年鳴り響いていないし。この「強く雄々しく」のあたりの鳴りっぷりがワグネル発声のバロメーターなんですけどね。
関学、もはや「ニッポンの叙情」と言っても良い弱音の多用とアゴーギグに満ちた表現は、いま改めて聴くと歌詩の内容と少しずれているような気がしないでもないが、一方でこれが山古堂主人の知る「A Song for Kwansei」でもある。頭声になった瞬間に25セント(全音の百分の25、すなわち半音の半分)ほど音程が高くなっちゃうテナーはいつも通りだが、前年と異なり低声系の音程の合わせ方が格段に向上しているから、演奏に安定感がある。
多分エール交換は各団50名とかに制限されていただろうから、単独ステージの半分の人数による演奏だったということでしょうか。
早稲田、必要以上の気合は入れていないような感じ。いつもより雄々しさは薄いがまとまりがある・・・と思ったら4声展開後に突然テナーが張り始める。ちょっと違和感というか、鬱憤でも溜まってたのかしら?
同志社、年毎にブレスやフレージングを変えてくるのだが、この年はそのことで音楽が途切れたり澱んだりしていないから、成功でしょう。トップが抑え気味なので、バリトンもいつものように野放図に歌うことが出来なくてちょうど良いバランスになった?
ということで、この年のエール交換は、あまり火花が散っていないように感じられる。
2.慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団 |
「合唱のためのコンポジションIII」
1)艫
2)羯皷
3)引き念仏
作曲:間宮 芳生
指揮:木下 保
第二次世界大戦前から慶應ワグネルの助っ人(特に器楽)として携わり、1956年の第82回定演以来慶應ワグネルを指揮してきた木下保氏は、1970年代末頃から持病の心臓病が思わしくなく、この第31回東西四連の5ヶ月後、1982年11月11日、ついに不帰の人となってしまわれた。慶應ワグネルは、1960年代に確立した木下・畑中ラインによって、木下保氏の創出する厳格な音楽構成と、畑中良輔氏の得意とするロマンティックな旋律感を両輪として、数々の名演を繰り広げてきたが、その大きな片輪を失ったのである。
以前にも記した通り、「コンポIII」は、木下氏が慶應ワグネルと共に第88回定演(1964/01/18)にて委嘱初演した作品で、その「コンポIII」を、指揮台に置かれた椅子に座って指揮した、この第31回東西四連の演奏こそが、慶應ワグネルとの最後の公式ステージとなった。
当時オンステしたメンバーに拠れば、そのリハーサルから病身をおして「言うことを聞かんと承知せんぞ!」と一喝する等、鬼気迫るものがあった、という。そのせいか、演奏ではいつもの慶應ワグネルらしい強気とか押し出しの強さ、学生の自主性といったものが薄く、良く言えば指導者に極めて忠実で統制の効いた、悪く言えばビビっているような印象を受ける。
演奏のスタイルは、過去の木下氏&慶應ワグネルの演奏と大きく変わるものではないが、声が厚くなった分だけ重心が下がり、やや慎重に音を運んでいるので、より客観的な演奏との感が強い。結果、これまで指摘してきたような、音符をユニバーサル・ランゲッジとしての音楽に戻す際に必要であるはずの配慮が、これまで以上になく、「慶應ワグネルの型」で淡々と音楽を運んでいるような印象。数箇所で内声の音程が垂れ下がってくるのが惜しい。
・・・正直申し上げて、これまでの慶應ワグネルの演奏について、他団よりどうしても記述が少ないのは、慶應ワグネルがまさに「木下氏の音楽」を具現化するために存在しているかのような演奏が多く、そこでは発声技術やその他のいくつかの合唱技術を除けば、記述すればするほど「木下氏の選曲/木下氏の音楽」を語ることになってしまうからである。これはアマチュアリズムとは文字通り根本的に異なる「戦前の職業音楽家」によるアマチュア啓蒙(「啓蒙」は最近一部企業では差別用語として留意される)について語ることでもあり、このTPの本意とするところではない。
余談ながら、先日ピアノ演奏法の専門書を立ち読みした。そこには演奏法の歴史も記されていて、今では全く不合理として誰もやらない打鍵法の記述があった。これはピアニスト教育者として有名な安川加寿子氏の登場以前、今から50年以上前の話で、腕の重みを利用しない、指の第一関節を曲げたまま固定して、第二関節を曲げる瞬間的な力で鍵盤を叩く、というような感じ(はっきりいって良く解らなかった)の奏法で、まるで中国拳法か何かである。しかも「この難しい打鍵法が完全に身につくまで徹底的に練習しなさい、身につく頃にはあなたは立派なピアニストです」、みたいな話で、極めればリンゴを握り潰しクルミを指先で砕くほどのモノ凄い破壊力(笑、「少林ピアノ」か?)を得られたかも知れないが、恐らくこれで才能ある人が何人も道を塞がれたのではないか、と思う。
上記、木下氏の指導が間違っているという仮説を提示するものでも、その比喩でもない。言いたいのは、学生は指導者から示された道に従うしかないという厳然たる事実である。特に慶應ワグネルは戦前から木下氏/東京音楽学校(東京芸大)路線を外さずに来た訳で、慶應ワグネル自体がこれ以外の路線を取ることは、少なくとも木下氏存命中(引き続き畑中氏存命中ということにもなる)においては考えられないはずだ。そのような環境下で木下氏は慶應ワグネルにどのような道を示されたのか。
断片的な情報からの推測なので、誤りを含むだろうが、「アマチュアとプロとの音楽への接し方は、その厳しさが歴然と異なる」あるいは「生涯教育の端緒としての学生合唱をどう身に付けるか」みたいな哲学を、木下氏は口にしておられた、と聞く。
アマチュア合唱団で歌う学生は、プロ志向の者がいたとしてもほとんどは結果としての話だし、そもそも4年間で卒団するものであり、その間にずっと上記のようなこと、あるいは音楽を聴衆に披瀝するに至る前の勉強段階が何十年も必要だ、という前提の下で4年間育てられたら、果たしてそれで音楽芸術の普遍化という、近代以来の大きな波と折り合いを付けられるのでしょうか。20世紀以降、音楽は特権階級がサロンで閉鎖的に愉しむものではなくなったはずだと思うのですけど。
ちょっと話が跳ぶが、木下先生の指導コンセプトは直接存じ上げないけれども、某H先生とお会いした際に面と向かって言われたのは、「早稲田グリーは大声を張り上げるばかりで音楽ではない」である。恐らく音楽=芸術の意味であり、芸術を人前で顕すには心身共に相応の修練をせねばならない、と言うことなのかとも思うが、山古堂主人としては早稲田グリーとて適当なお遊びをしているとは、さすがに肯定しない。基礎技術で他の3団より明らかに劣る部分はあるし、他団より基礎練習の密度が低いのも事実であるが、いずれにせよ「音楽ではない」は如何なものか、と思う。百歩譲って早稲田グリーの音楽が「音楽ではなく大衆娯楽である」としても良いが、客席に貴族時代の紳士淑女が揃っていた大時代でもなく、慶應ワグネルだって音楽の多様性を追求し、ミュージカル「メリー・ウィドウ」の「女!女!女!」と書いたプラカードや全然ビート感のない黒人霊歌で大外しすることもあるのに、それは無いでしょ?
3.関西学院グリークラブ |
「ギルガメシュ叙事詩《前篇》」
~ア・カペラ男声合唱とナレーターのための(1982)~ (委嘱初演)
1)はじまりの歌
2)エンキドウの創造
3)エンキドウ、人間のくらしを知ること
4)ギルガメシュ、エンキドウと力くらべをすること
5)対話
6)フンババを退治すること
7)イシュタルの求婚
8)エンキドウの夢
9)たびだちの歌
訳詩:矢島 文夫
作曲:青島 広志
指揮:北村 協一
関西学院の委嘱作品「ギルガメシュ叙事詩《前篇》」は、作曲者の言に拠れば、翌年の第32回東西四連にて委嘱初演される「ギルガメシュ叙事詩《後篇》」と対をなす、壮大なオラトリオである。当初届いた楽譜の表紙を見た関西学院グリーの部員は「え、全篇じゃなくて前篇?」、その後完成次第送られてくる楽譜を見るたびに顔が青ざめた、という、関学グリー史上屈指の難曲である。これを初演で空前絶後の名演とした80年代前半の関西学院グリーは、日本の大学男声合唱史上に残る黄金期であり、その演奏スタイル(特にベースの音色や北村氏の演奏手法)が全国の大学男声合唱団に及ぼした影響も極めて大きかった。
聴く分には、いかにも青島氏の作品らしい、様々な手法を盛り込みつつも明快な作品だが、これをアカペラで、全ての旋律や和声や仕掛けを実現していくのは生易しいことではない。勇気ある出版社から楽譜も出版されているが、自分ならどう指揮をさばくか、なんて考えながらページを繰っていくと、あれこれ悩み始め、大体それ以前にどうやって練習をキャリーすんのさ? と途方に暮れて、あっという間に数時間が過ぎてしまう。そんな訳で山古堂主人、自分で指揮するのは諦めて、関西学院グリークラブ創立110周年記念演奏会とかでの「ギルガメシュ叙事詩《全篇》」の上演を期待しております。
「はじまりの歌」冒頭フレーズで、オクターヴユニゾンからいきなり分厚い展開和音が鳴り、それだけで聴衆をつかんでしまう。そしてナレーターが親切丁寧に道案内しながら、マドリガル風の「エンキドウ、人間のくらしを知ること」で聴衆を安心させたかと思うと、今度は現代的手法を多用して、ギルガメシュとエンキドウの力比べからフンババの退治、そしてエンキドウに対する神々の決裁までのイベントを強烈に印象付け、そろそろ日本人には(ここが重要)おなか一杯な頃、いかにもcatchyながら、ここまで通して聴いて来るとちょっと心動かされる「エンキドウの夢」、そして日本人には欠かせない「最後にお茶を一杯」として「たびだちの歌」を用意している。
聴けば聴くほど構成感のある作品であり演奏であって、しかもこれほどに完成度の高い演奏で聴けるのだからたまりません、山古堂、やめられまへんでぇ、でへでへ(上海で芸風変えた訳ぢゃありません、念のため)。
蛇足ながら、ナレーターがたった一箇所だけ(「イシュタルの求婚」のあと)セリフを噛んでしまっているのだが、この瞬間、ナレーターのHK氏でしたか?の脳裏に走ったのは「しまった、ミスった!」ではなく「反省会!」だったそうな。関西学院グリー、反復練習の鬼ヶ島のみならず、反省会のネタになること自体を事前にも事後にも後悔する反省会と相まって、ディテールを造り込んだ演奏が可能となっているのでした。
4.早稲田大学グリークラブ |
「ジプシーの歌」
1)わが歌ひびけ
2)きけよトライアングル
3)森はしずかに
4)わが母の教えたまいし歌
5)弦を整えて
6)軽い着物
7)鷹は自由に
作詩:Adolf Heyduk
作曲:Antonin Dvo?ak
編曲:福永 陽一郎
指揮:小泉 ひろし
Pf:久邇 之宜
この時期、早稲田グリーはトップテノールが盤石であって、4年生には「会津三羽鴉」と異名を取った会津高校出身の大越智氏・目黒弘嗣氏・渡辺宏夫氏を擁し、また3年生にも美声の今中徹氏がおり、硬軟自在のリリックな歌唱を聴かせた。
演奏そのものはあまり破綻も波乱もないように感じるが、やはり今一つこなれていないように感じるのは、指揮者の淡々としすぎる音楽運びのせいか、少々浅いドイツ語の発音のせいか、あるいはトップテノールの音色が突出しているが故に、他3パートが音楽の構成要素として、もはや不要に感じるからか? (そもそも、これも以前に記した通り、最小単位としての独唱&ピアノ伴奏を合唱に編曲すること自体に無理がある)。
ちなみにこの「ジプシーの歌」、ドヴォルザークはそれなりに商魂があって、当時楽譜出版と言えばドイツだったものだから、ドイツ語の詩に拠ってこの曲を書いたのだが、ドイツでの評判とは裏腹に、自国チェコにおいては「外国にばかり良い顔をして祖国を顧みない」みたいな悪評が立ってしまった。ちょうど以前から何度か説明した「フラホル運動」の末期でもあったので、民族意識の高揚も爛熟期の頃かと思う。そこであわてて、今度はチェコ語に翻訳した楽譜をチェコで出版した、という経緯がある。そのチェコ語版の独唱のCDを入手したが、やっぱりダメね、ディクションと音楽がマッチしてない。大体チェコ語はドイツ語みたいに切れ味が鋭い言語ではないから、「わが歌ひびけ」とか「鷹は自由に」なんて、そこはかとない哀愁を帯びたネバネバ感が出ちゃう。
5.同志社グリークラブ |
「Vespergesang Op.121」
1)Allegro moderato
2)Adagio
3)Con moto
4)Adagio
5)Andante
作曲:F. Mendelssohn
指揮:福永 陽一郎
Vc:小松 茂
Cb:徳原 正法
「Vespergesang」は、徹晩祷のような、ある特定の礼拝時のみに演奏されるような作品で、大変珍しい作品だが、本邦初演ではない、と故・福永陽一郎氏のレコード解説にある。一聴してバッハの強い影響が分かる作品でもある。同志社は3回生の化物・西山勲氏を擁し、これも伝統の強靭なトップテノールで、ハイトーン連発のメンデルスゾーンのテノールパートが破綻しない。一方で各パートの独立性と均質性が特に要求されるこの作品、トップがしっかり歌えているからこそ、内声の成否に全てがかかってくる。
さて、演奏はというと、まずチェロとコントラバスという、やや音程が不安定でしかも聴きにくい楽器を伴奏に持つことで、演奏の困難さが増す。これは確かにやむを得ないとは思うが、厳しい言い方をすれば、そういうことは練習を通じて事前に察知しておくべきことで、その上で更に本番に際しては「聴く」ことへの細心の注意を払うべきだったのではないだろうか。特に内声パートの耳の使い方と、耳からの情報を音程にフィードバックするにはあまりに一本槍な発声が原因と思うが、第1楽章からアンサンブルの危うさを感じさせ、第3楽章などでは内声の微妙な音程の調整不足がどんどん溜まっていって、合唱団の音程が楽器と完全に乖離してしまう。これを修正するポイントが何度も内声、特にバリトンにあったのだが、声が重いから「慣性の法則」にしたがって突き進んでしまった。こういう曲こそ個人芸を抑え個人のプライドを抑え、極端なまでに器楽的な歌い方が必要なのだが、1980年前後の同志社グリーが、ある意味で最も苦手とする歌い方かも知れない。そんな訳で何となく雑然とした印象を受ける部分が少なくないのだが、一方で最終楽章のアンサンブルなどは、まさに福永&同志社の真骨頂で、文字通り天上の音楽が鳴る。このアンサンブルだけでも、この演奏を聴く価値が充分にあります。
6.合同演奏 |
男声合唱のための「アイヌのウポポ」
1)くじら祭り
2)イヨマンテ(熊祭り)
3)ピリカ ピリカ
4)日食月食に祈る歌
5)恋歌
6)リムセ(輪舞)
採譜:近藤 鏡二郎
作曲:清水 脩
指揮:山田 一雄
山田一雄氏による「アイヌのウポポ」は、快演/怪演、いずれにも該当する。
合唱の声質や和音感覚は関学・慶應だが、演奏スタイルやお祭り感覚は早慶であり、スピード感は早同、バスの瞬発力は関学、といったように、各団の面白味が出ており、それに輪をかけた山田一雄氏の仕掛けには、観客も度肝を抜かれたことと思われる。実際、2曲目の冒頭では楽譜に無い手拍子・足拍子が突然入り、客席が驚いてざわついたりしているのも面白い。この曲を十八番にしている関学グリーなんかは、きっと悪魔に魂を売ったような気分だったでしょう、大体山田一雄氏自体が小悪魔みたいな風貌でしたからね。
7.ステージストーム |
1)慶應義塾:Finlandia-Hymni
2)関西学院:U Boj!
3)早稲田 :斎太郎節
4)同志社 :Soon Ah Wiill Be Done
まあ特筆することもないのですが、一つだけ、早稲田。第35回四連以来、早稲田グリーのストームと言えば「斎太郎」なのだが、音源が残っている限りの四連においては、早稲田初の「斎太郎」である。それにしても凄いトップ(思わず笑)。
なお、山古堂でデジタル化したこの第31回東西四連のCDでは、下記の演奏を収録している。
木下保氏追悼/特別収録 管弦樂附獨唱 慶應義塾應援歌「若き血」
作歌作曲:堀内 敬三 /昭和二年(1927)作
獨唱 :木下 保
管弦樂 :慶應ワグネルソサエテイ部員
指揮 :大塚 淳
ビクター50308A/B、昭和三年(1928)発売
昭和初期、東京六大学野球の人気上昇に伴い、ビクターやポリドールから大学校歌・応援歌の78回転SPがシリーズで発売された。ビクターのシリーズには昭和3年(1928)に発売された慶應義塾の旧塾歌、及び応援歌「若き血」の2枚が含まれ、それぞれA面には「慶應ワグネルソサエテイ部員」による管弦楽と斉唱、B面には木下保氏による管弦楽伴奏の独唱が収録されている。木下氏の独唱は、東京音楽学校(のちの東京芸術大学)を卒業して間もない24歳頃の録音だが、その若々しく凛然とした歌唱は、現在においても全く色褪せてはいない。拠って、本来であれば筋違いなのだが、東西四大学合唱演奏会の歴史に大きな足跡を残した木下保氏への敬意を表し、SPから再生した「若き血」の独唱を、この第31回東西四連のCDの巻末に添えさせて頂いた。付言するならば、このSPで伴奏の慶應ワグネル管弦楽団を指揮している大塚(正しくは「」だが文字化けしちゃうかな?)淳氏も、戦前に東京音楽学校から慶應ワグネル管弦楽団の指導に招聘されていた人物で、「ワグネルの父」と言われている。昭和21年、出征した中国大陸から日本に帰ることなく死去。
なお、管弦楽と男声斉唱を合わせて「慶應ワグネルソサエテイ部員」と表記されているが、これは当時のワグネルは楽器奏者と歌手が兼務というケースが多く、明確にその区別を設けていなかったからと思われる。ついでに言えば、「慶應ワグネル100年史」に記載されている、「若き血」の作品完成を記念してレコード吹き込みを行った、というのが、このSPとみて間違いない。
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