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合唱音源デジタル化プロジェクト 山古堂

早稲田大学グリークラブOBメンバーズ<特別編集> 真性合唱ストーカーによる合唱音源デジタル化プロジェクト。


第19回 30回代の東西四連(第30回)

「山古堂」TP(Tenant's Page、OBMのサイトを間借りしているので)(※編集者注 「山古堂」が当ブログに移行する2006年2月まで早稲田大学グリークラブOBメンバーズ公式サイト内にあったことを指す)の更新が四半期毎になってきていて、自分でもヤバイなあ、とあせりつつ、様々なことが滞っているのでペースが上がりません。いと高きところにホザンナな読者の皆様、どうぞこの哀れな子羊に「細く愛して・永~く愛して」の博愛精神でお付き合い下さいませ。

さて前回の更新以来、レコードのデジタル化もまた遅々として進まないのですが、その間、とりあえず早稲田グリー第21回~23回定演(1973~1975)のデジタル化を終えました。これで、1950年代に多少の抜けはあるものの、第4回(1956)から第28回(1980)までのCD化が完了したことになり、あと第29回(1981)~第37回(1989)をデジタル化すれば、早稲田グリー定演全集が完成します。何とか今年中にと思っていますが・・・。

また、第23回定演の年にベース・パートリーダーであらせられた渡辺正美先輩(1976卒)からお借りした、珍品な市販レコード「男声合唱の魅力~日本のメロディ~」もデジタル化完了しました。これは早慶100名の男声アカペラで、唱歌などを書き下ろしの編曲で歌っているもので、童謡なのにゴーゴー唸ってます(笑)。東芝から市販されたものですが、題名とコンテンツにやや開きがあるような気も。とは言え、伝説の慶應ワグネル第99回定演(1974)で「真珠採り」でもソロをされた鵜山仁氏・鈴木慶彦氏など、当時一世を風靡した学生ソロの演奏などがあって、実はそういう意味でも珍盤であります。

他にも、山古堂と濃密な関係を結んでいます前川屋本店とのコラボレーションで、「コール・クリンゲル第1回演奏会」をCD化しましたが、、、
あまりにローカルな話題ですいません。

それから、「東西四大学合唱演奏会ライブ記録全集 ついに完成!!」と宣言しながら1年、ほとんど公開も各団現役への寄贈も出来ておらず、「ホントにCD化したの?」とお思いの方もおられるかと思います。その疑問に応えるため、だけではありませんが、熟慮の末に、慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団様の、過去の音源をストリーミングで聴くことが出来るという大変に有り難いサイトに、微力ながら協力させて頂くことと致しました。この結果、現存する全ての東西四連の音源(最近数年分と、早稲田の演奏しか見つからなかった12回、同志社の演奏しか見つからなかった15回を除く)を聴くことが出来るようになっています。近いうちに東京六連についても、幾つかの演奏会を聴くことが出来るようになることと思います。ワグネルOBの小嵐様(1968卒)、ありがとうございます。
慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団WEBサイト

合唱界の悲しいニュースとして、指揮者・関屋晋氏の訃報がありました。4月9日(土) 22時27分、享年76歳。
今年4月、京都エコー・松原混声のジョイント・コンサートが開催されましたが、この京都公演前日のステージ・リハーサル中に突然不調を訴え、病院に緊急搬送するも、そのまま帰らぬ人となってしまわれた、と聞きました。
関屋氏と早稲田グリーの関係は以前「第6回 東西四連って何? その2 」に記した通りですが、それから35年が過ぎ、早稲田グリーは下記の演奏会において、再び関屋氏を指揮台に迎えています。

 第33回定演「月下の一群・第2集」(1985)
 第36回東京六連・単独ステージ「Die Tageszeiten」(1987)
 第39回東西四連・単独ステージ「季節へのまなざし」(1990)

関屋氏の湘南市民コール・松原混声・甍会・晋友会といった多くの団体を通じての活動は、皆様も御承知のことと思うし、ここで山古堂主人が語る資格もありません。
聴衆を、また歌う者を、惹き付け、かつ引き出す、稀有の力を持つ人でした。心より哀悼の意を表します。

ついでに、山古堂決算取締役会・株主総会を去る6月15日に、慶應ワグネル様の城下町・田町で開催致しました。取り締まりも決算も何もあったもんぢゃありませんが、福岡から上京した古賀取締役営業本部長・兼西日本方面作戦司令長官・兼「中州の白い龍」と、山崎取締役技術本部長という、山古堂本舗の全役員・全社員で久々のしゃんしゃん呑みでした。ちなみに早稲田グリー1997卒の金井君こと睡眠部長・兼「歩く白子」も応援に駆けつけてくれました、Thanks。

さて本題の方は、ついに嵐を呼ぶ30回代に入ります。
山古堂主人にとっては、産湯とまでは言わないが大学男声合唱の原体験に近い演奏が、隊伍を組んで押し寄せて参ります。(「押し寄せて来て、参ります」と書けば、これはこれで受けを取れるのでしょうか)

全国的に多くの高校・大学男声合唱団で人数が増加し、やや造り込んだ発声による重厚な合唱、ありったけの声量を隠しもせずに叩きつけ、かと思えば手の込んだ表現も多用し、それに見合う委嘱作品や書き下ろし作品も溢れ、男声合唱爛熟の趣をなした80年代。作品も演奏も、西欧やアメリカからの影響を日本風に消化した、過去100年の集大成の様相を呈し、これまでも重ね重ね記してきた通り、この時代の演奏スタイルでしかなしえない演奏、そして作品があります。また、録音技術の見地からも、アナログ時代の末期として、いくつかの優秀な録音と、制作業者が手馴れてしまったりコストダウンを図ったが故の変な録音があります。

<第30回東西四大学合唱演奏会>
1981/06/21 東京文化会館大ホール

アジアレコード AR-1125~7

この第30回東西四連のライヴレコードを制作したアジアレコードは、1970年代あたりからアマチュアのライヴ録音を手がけていて、例えば早稲田グリー第23回定演(1975)や、第30回東京六連などもそうである。このレコード会社、特に1980年前後にはひと癖ある録音をしていて、

低音がやや電気的にブーストされたような感じがある。恐らくマイクセッティングかイコライジングで何かやっている。残響が深く、東京文化会館で言えば5階で、しかもマイクを客席側に向けて録ったのではないか、というような残響。 オープンリールマスターのヒスノイズが大きく、結構耳ざわり。 レコードの盤質が柔らかく、かつ溝が深く狭いので、一度ホコリを噛み込んだらなかなか取れない。よってポップノイズはほとん ど無いくせに、ザラザラしたノイズは頻発する。

この第30回東西四連については3組のレコードを入手したが、最も状態の良いものでもザラザラというノイズが出る。いずれにせよ、録音としてはあまりシャープではなく、少々人工的でミステリアスな響きになっていて、早稲田「カプレの三声ミサ」などには打ってつけかも知れない。。

1.エール交換

この年はどの団もトップテナーが充実していて、きちんとした頭声の人が多くマスクの響きも充実しているし、音程も音色も歌い回しも演奏に大きく貢献している。一方、縦横の揃えやフレーズ終端やディクションなど、これまたどの団体も精密感がやや薄れているような印象もある。そういう合唱機能は、ちまちました反復練習を真面目にやったり、個々人が謙虚に練習していれば身に付くようなこと、と付言しておきましょう。

同志社、いつものようにカミソリのような切れ味の声質。その中で、やはりセカンドテナーのキャラクター付けは難しくて、音域的にはトップテナーほど高いポジションに持って行けず、かといってバリトンみたいな声だとトップの副旋律として絡めないから、妙に浅いというか、開いた声にすることで対応することが多い(特に関西)のだが、それで張りに行くと上ずったり不安定になってしまう。そんなセカンドの悲哀がそこここに現れたりしている。全体的に発声練習の延長のようにも聴こえ、ちょっとこれでチャイコは厳しいかも、なんて予感。

早稲田、四連の記録で上ずっていないほぼ唯一の演奏。低声系でちょっと肩に力が入っていて僅かに上ずりかけているのを、芯のしっかりしたトップが見事に抑え込んでいる。この時期の早稲田のトップテナーは1960年代前半にも匹敵する揃えと音質で、個人芸ではない往年の「関東テナー」の凄みを感じさせる。セカンド以下の3声が随分と分厚いが、これは録音技術によるものだけでなく、他団の「重さ」を模倣したか、あるいはカプレで張れない欲求不満をここで解消したか(笑)。

関西学院、前年同様、ルバートやダイナミクスを縦横に駆使し、「熟れ過ぎの柿」の趣すら顕れている。前年までに比べ僅かにハーモニーが緩いが、これが「大量に入った2回生が足を引っ張った」と自他共に言われる所以か。例えば低声系、特にバリトンで、喉を縦に深く開けろという教育が徹底されたのだろう、その弊害で響きのポジションがかなり下がっていて、これを腹で支えきれず、僅かではあるが常にフラット気味。これがちょっと気持ち悪い。・・・しかし、これで足を引っ張ったというなら、逆に充分驚異だと思いますけどね。大体、足を引っ張るのに人数なんか関係ないものね、一人でぶち壊した人をいっぱい知ってますし。例えば(涙を呑んで自主検閲)。

慶應ワグネル、バリトンが少しだけ控えめなこともあり、いつもよりスポーツ感の薄い、ワーグナー的威厳に満ちた演奏。但しこの編曲そのものが、本来の塾歌のフレーズを分断したような聴こえ方をもたらすので、リズミカルに行くのか重厚に行くのか、どちらとも取れない、とイヂワルな批評をすることも出来る。最初は荒れ気味・不安定だが、「立てんかな」以降はビシッと極めて来る。基本的には聴衆の背筋をピンと緊張させることが出来た演奏でしょう。やはりエール交換では一番しっかり歌えているように思う。

2.同志社グリークラブ

 「チャイコフスキー歌曲集」
  1)WARUM?
  2)NICHT WORTE, GELIEBTER
  3)INMITTEN DES BALLES
  4)WIEDER-WIE FRUHER
  5)NUR WER DIE SEHNSUCHT KENNT
  6)STANDCHEN DES DON JUAN
  作曲:P. Tchaikovskii
  編曲・指揮:福永 陽一郎
  Pf:山本 優子

福永&同志社によるドイツ語版の演奏。故・福永氏はロシア語を解しないことから、ロシア語のディクションに基づく指導が出来ない、として、自身ではロシア語版の指揮をしなかった。

全体的にゆったりしたテンポとすることによって、独唱曲とは異なる趣を創出している。・・・と言うのはヨソ向きの言い方で、この編曲はもはや独唱曲とは全く違う作品であり、そのことを強く意図した演奏となっている、というのが正しい理解。
例えば1曲目「何故?」、付点四分音符=40みたいな随分と遅いテンポで始まり、途中から追い込むように速めていく。これは導入部ピアノ伴奏の音の連続性を犠牲にするテンポであり、また本来の独唱ならば歌手の技巧すなわち音色やフレージングや子音の扱いで盛り上げるところを、合唱の歌い方はあまり変えずに、全部テンポ設定に転嫁している形。例えば2曲目「語るな、わが友よ」、テナー独唱としており、独唱そのものは良い声であり、フレージングも男声合唱慣れした者には違和感ないのだが、原曲の持つリズム感は完全に崩れ、言わばレチタティーヴォ&合唱になっている。例えば3曲目「騒がしい舞踏会で」、テンポ設定はもはやフルトヴェングラー的重厚長大設定。このテンポなら、1拍目を強起とせず、むしろsostenutoでモノクロ的に味付けした方が良い。山古堂的には、貴族社会でアンニュイを気取っている詩人にこのテンポのモノローグは無いだろうな、と。ついでに、この曲はトップテナーが上手く歌えている演奏って少ないのですが、このテンポだと更に難しかったことでしょう。最後に、例えば6曲目「ドン・ファンのセレナーデ」、バリトンの主旋律はもっと独善的で自己主張が必要な、強い歌詩であり強い旋律なのだが、これもテンポを少し緩めにしていることや、音域によって発声ポジションがバタバタと変動しやすいから、本来の独唱ならば表現され得る「俺のオンナをそんじょそこらの女と一緒だとぬかした野郎、喧嘩なら買ったるぜ!」とか「いいオンナのために、たくさんの血とたくさんの歌が流れるゼ!」(本当にそういう歌詩なのよ)みたいな、漢(ヲトコ)の一本気な攻撃性が見えない。だから、最後のトップのAisなんか、せっかく張ってるのに音楽として生きてこない。

では、そういう福永氏のテンポ設定・フレーズ設定でどういう演奏効果を意図したのか。山古堂主人としては図りかねているのである。当時オンステされた同志社OBにお伺いしたいところでもあります(というか、ここまで書いてるとそれこそ喧嘩売ってるように受け取られるかも知れなくて恐い)。

また、伴奏譜のオブリガードや対旋律・副旋律を合唱に移植している部分が多いのも福永氏の編曲のひとつの特色だが、いくつかの部分では、誠に僭越ながら、完全に蛇足となってしまっている部分もある。加えて、同志社グリーの切れ味の良いテナーを特徴とする、言わば「ねばり感」の無い合唱スタイルと、ドイツ語の子音やシラブルとが、独唱オリジナルの世界観と合唱編曲による音場との隔たりを明確に描いて見せるので、チャイコフスキー作品の持つ独特な「低温やけど感」が出てこない。ワインで言えばあと十数年寝かせておきたいような感じ。

合唱編曲にオーケストレーションという言い方をするのも変だが、大人数による演奏として、オーケストレーションを良く踏まえた演奏であるということでは、ご自身で編曲された福永先生の意図を正しく反映していると言えよう。そういう観点で聴けば、違和感は少し薄れる。とは言え、マーラー「さすらう若人の歌」など、オケ付き独唱がオリジナルである作品の編曲ならば、ピアノ&合唱に移植しても、音色を間引く方向なのでまだ違和感なく編曲出来ようが、このチャイコでもヴォルフでも何でも、ピアノ&独唱という最小単位のものを多声部に拡張していくのは、実際にはかなり創造的な要素が必要で、編曲ではなく「改作」というべき作業になると考える。繰り返しだが、この男声合唱版は、独唱とは全く異なる作品なので、その点を良く理解し、様々な切り口から良く考察した上で演奏した方が、パフォーマンスとしての失敗の確率が減る。

ということで、この作品にふさわしい名は「チャイコフスキー歌曲集(略してチャイカ、ロシア語でカモメの意もある)を素材とする男声合唱的プロジェクション」、であります。

・・・やっぱりチャイカは音色的にもテンポ運びも、慶應ワグネルによるロシア語演奏が一番雰囲気を出しているかな。それでもちょっとこの編曲では難しいところかも知れない。で、この年の同志社を「お荷物」だの「低迷期」だの言う当時の関係者は多いが、このチャイカの演奏に関して言うならば、単に選曲の問題であるところも少なくないと思います。合唱団の機能としては、バリトンがやや開き気味でアンサンブルに溶けない(発声上は良い方向だとしても)とか、パート毎の音色もちょっと溶け合っていないとか、コンクールコンディション的見地から言えば確かにツッコミどころはあるものの、果たして何の「お荷物」かしら。どうせそういう事を言ってたのは自虐ネタの好きな同志社グリー自身と、同志社をえらく目の敵にしていた某関西方面の大学男声合唱団くらいでしょう。あ、四連のお荷物? でもどの団がそんなこと言うかしら? 早稲田なんて同志社より自虐(自爆か?)大好きだし、関学はほっといても日本一だから他団なんて関係ないし、慶應は「芸術は比較するものではない、よって独立自尊」なんだもんね。

3.早稲田大学グリークラブ

 「MISSA A TROIS VOIX(三声のミサ)」
  1)Kyrie
  2)Gloria
  3)Sanctus
  4)Agnus Dei
  5)O Salutaris
  作曲:A. Caplet
  指揮:田中 一嘉

「三声のミサ」が同志社によって、第22回東西四連で演奏された時は、少人数を選曲でカバーした、とのことであった。この早稲田の演奏は62名によるが、東西四連の歴史から見ればまあまあ標準的な人数であるし、ハーモニーを精密に造り込むには上限ギリギリの人数でもある。早稲田グリーはこの時期、トップテナーに史上屈指の歌い手がゾロゾロいて、例えばこの年の第30回東京六大学合唱連盟記念定期演奏会(1981/05/17)における、「光る砂漠」男声版の演奏もまた名演であるし、東芝より市販された「月下の一群(第1集)」もこの時期の演奏である。トップ以外のパートはと言うと、トップに耳を奪われるのでどうでも良い(嘘)。練習の時点からいろいろなことを良く考えて練り上げて来ている、という観があり、低声系にはあまり面白くない作品ながら、「Gloria」で低声系がつい声を張り上げたり暴走してもおかしくないところを、きちんと抑制を効かせて合唱音楽としている。フランスの女声合唱団の演奏を聴くと、あまり躍動感を出さず、最初から最後まで同じような演奏スタイル、同じような印象であり、同志社の演奏もこれに近いように思うが、この早稲田の演奏は、動的なところは動的に、静的なところは静的に、メリハリのついた演奏であり、男声合唱によるアプローチとして一つの模範と思う。

冒頭に記したアジアレコードの深々とした、半ば人工的な水深の音場であることもさる事ながら、この激情に走らず抑制の効いた耳当たりの良さは、指揮者の田中氏によるものか? それとも当年度の学生指揮者・山本正洋氏(1982卒)のジキルとハルクのような指導によるものか、あるいは精密殺人機械と言われたトップパートリーダー・平田耕造氏(1982卒、このブログの管理人様で、いつも山古堂主人に優しくて、メリーウィドウの楽譜に某日本最高のソプラノ歌手のキスマークをもらって下さったし、とっても素敵なプログレマニアの大先輩です、はい)によるものか?
・・・とにかくこの頃現役だった方々に全く頭の上がらない山古堂主人でございます。

ともかく(笑)、早稲田グリーがナイーヴな演奏することは、実は慶應ワグネルがビート利かして歌う黒人霊歌より、遥かに珍しくないのであって、「カプレ」はその証明として最も適切な例であろう。いつも「ファイトォ、イッパーツっ!」な訳ではないのよ。

4.関西学院グリークラブ

 男声合唱組曲「月光とピエロ」
  1)月夜
  2)秋のピエロ
  3)ピエロ
  4)ピエロの嘆き
  5)月光とピエロとピエレットの唐草模様
  作詩:堀口 大學
  作曲:清水 脩
  指揮:北村 協一

関西学院はこの演奏の直後、同年7月6日にこの「月光とピエロ」のレコーディングを行い、東芝から市販されているので、そちらを聴いたことのある方も少なくないと思う。その市販演奏とこのライブ録音の間にはほとんど差がないので、思わずため息が口をついて出てしまう。上ヶ原の八角堂と言えば反復練習の鬼ケ島(山古堂PAT.PEND)だから、何回でも同等レベルの演奏が出来ちゃうのよね。いずれにしても、人数も急増した頃であり、北村氏&関学による、1980年代を代表する演奏スタイルと言えよう。この関西学院のような楽譜に忠実で端正な、言わば客観的奏法(関西学院はこれが「メカニカル・ハーモニー」と揶揄された)と、福永&同志社のような、一見荒々しいがそれでいて内面を抉り出そうとする言わば主観的奏法と、大きく分けて二つの演奏スタイルがあり、前者は勿論この第30回東西四連における関西学院の演奏、後者は以前記したように第15回東西四連の同志社や第33回東京六連の福永&早稲田の演奏がある。無論、どちらが正しいスタイルだというものでもなく、好みの問題であるが、合唱技術という観点では、百名が一糸乱れず、という関西学院に軍配が上がるかも知れない。特に1曲目・4曲目をあれほどゆっくりしたテンポで、音場も途切れなく安定して聴かせる団体は、関西学院グリーをおいて他に無い。倍音を確実に鳴らし、合唱でしか出来ないダイナミクスと長いフレージングを披露したこの演奏、客観的な評価基準としても、関西学院の演奏後の拍手が、やはり一番大きい。次いで慶應、同志社と続き、最も少ないのが、聴衆がびっくりしちゃってどう反応して良いか分からなかったらしい早稲田。

東西四連は基本的に2回生以上のオンステとなるが、この年の関西学院は2回生が50人以上もおり、エール交換で記したように、「この大量の2回生が足を引っ張った」という話も聞く。確かにこの演奏を舐めるように聴けば、いつもの純正調に比べて甘さがあるし、ただ発声を忠実に実践しようと言う、演奏そのものに対するのとは異なる集中力も感じられぬでもないが、それでも、足を引っ張られてこの演奏なら充分立派だし、その2回生が翌年・翌々年の「ギルガメシュ叙事詩」で炸裂するのだから羨ましい。

・・・蛇足ながら、例えばこの「月ピ」1曲目冒頭のト長調10度の和音。山古堂主人がこれまで関係してきた団体で言うならば、この和音なぞは別に構えもせずに聴き、あるいは歌ってきた。つまりこの和音にスッと入れることについて何の疑いも抱かなかったのである。が、世の中一般を見渡すと、この和音からして危うい匂いがしたり、ハマらなかったりするのが、実は普通だったりするのである。
面白いことに、いちいちアンサンブルを止める指揮者、フレーズをメッタ斬りコマ切れにして「この和音を合わせなさい」「このピアニシモをもっと小さく」なんて練習して、つまらなさが血しぶきを上げている合唱界のジェイソン(山古堂PAT.PEND)のいる団に限って、「月ピ」1曲目冒頭が上手く決まらないような気がするのだが。緊張とプレッシャーでバント失敗する甲子園球児、みたいな。
良くあるでしょ、「何でも知ってる経験もしてる自慢したい語りたいもっと誉めて」系の指揮者が、練習時間の半分以上しゃべっちゃったりして、しかも棒はヘタでジェイソン指揮者な人。
合唱の世界って、ささいなことで威張れちゃうし語れちゃうし、淋しいのよね、そんな人ばっかりですよ。Web掲示板見ても山古堂TP見ても(爆)。

5.慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団

 「シューベルト男声合唱集」より
  1)Widerspruch(反抗)
  2)Standchen(小夜曲)
  3)Im Gegenwartigen Vergangenes(昔を今に)
  4)Nachtgesang im Walde(森の夜の歌)
  作曲:F. Schubert
  指揮:木下 保
  Pf:塚田 佳男
  Horn:桐朋学園音楽部
  独唱:杉本 淳美、笠原 幹夫

1978年、持病である心臓病に肺炎を併発した木下保氏は、その年のワグネル第103回定期演奏会の指揮を急遽北村協一氏に譲られた。その後も体調が完全に復調することの無かった木下氏は、この第30回東西四連において椅子に座って指揮をされた。木下氏による過去のシューベルト演奏は、今では死語となった「大家」の造りと、その厳格な部分がやや前面に出ることが多かったのだが、この演奏では音楽の流れがとても素直であるように感じられ、木下氏の心情の変化を窺わせるようにも思う。そして、歴史家風に言えば、木下氏の東西四連への出演はあと1回しか残されていないのであった。

1曲目、高音部でセカンドが少し乱暴なのが残念。トップがいつもほど構えずに高音を張っているので、それに素直に準じていたらとても良かった。2曲目、あ~あ、やっちゃったよ、また独唱の傭兵かい。音域がちぃとも合うてへんお人連れてきて何散らかしよんねん。で、1曲目で生まれた良い空気がへこんだ。これを救ったのが3曲目のテナー、良いです。シューベルト・ドライヴがかかっているし、合唱とも相性が良い。4曲目は身軽というか、いつものワグネルならばこの曲こそ「やぁやぁ遠からん者はァ~」的風情なのだが、とてもリラックスした、手馴れた感じで聴かせる。山古堂主人、シューベルトと話したことは無いが、きっと繊細で情熱的で美少年マニアだったと思うので、あんまり重くて恐い演奏はしない方が、きっとシューちゃんも喜ぶと思いますよ。だから個人的には、この演奏、特に4曲目は結構お気に入りである。ワインならブルゴーニュ、ドメーヌ・ルロワのジュヴレ・シャンベルタン。

ベースかな、必要以上に子音を飛ばす「子音奉行」、いやワグネルだから「子音マイスター」が一人いて、せっかくの柔らかいフレーズや音楽にトゲを植えている。ドイツ語に限らず、アマチュア合唱では大抵言葉が曖昧になりがちであり、その最も簡単な対症療法が、「子音強くして」と指揮者が言い、対応出来る数人が頑張っちゃう、というもの。一般的に(笑)慶應ワグネルのディクション処理は、関西学院とはまた異なっていて、聴感を似せるのではなく、子音そのものの発音メカニズムを理解した上で鳴らしている(ようにしか思えない、特にドイツ語などでは他団の追随を許さない統一された発音を聞かせる)ので、こういう個人の子音が突出することはあまりないのだが。

6.合同演奏

 革命詩人による "十の詩曲" より「六つの男声合唱曲」
  1)雄々しく進もう
  2)果てなき荒野
  3)死刑の戦士
  4)怒りの日
  5)鎮魂歌
  6)歌
  作曲:D. Shostakovitch
  訳詩:安田 二郎
  編曲・指揮:福永 陽一郎

福永陽一郎氏、恐らく満を持して持ってきた演目でしょう。
この「十の詩曲」については、もはや多くを語るつもりも無いが、まずは合同とはいえこの曲を歌い切ったことは立派。テナーは合同でしかありえないほど最後まで声が持続し、低声系も良く鳴らしている。そして福永氏にのみ許されたフレージングとテンポ運び。合同ゆえ、白熱の演奏という感じではなくて、特に音色として支配している関西学院の歌い方がやや客観的なこともあり、もう少し合唱側の前進力が欲しかった。ある意味では模範演奏です。

7.ステージストーム

  1)同志社 :詩篇98
  2)早稲田 :Freie Kunst
  3)関西学院:U Boj
  4)慶應義塾:Schwabische Erbschaft(シュヴァーベンの遺産/曲:R.Strauss)

同志社が詩篇98を歌うと、何だか敬虔な気持ちと暖かみが入り混じってきます。他団が決して出来ない演奏。
早稲田、もうすこし腑に落ちてから持って来れば良かったかしら、シャトー・カロン・セギュール2003年物を今抜栓して10秒以内に飲んじゃった、みたいな。「ファイトォ、イッパーツっ!」で面白いから良いですけど。
関西学院、こういう曲こそ、2回生が多いことの弱点が出るのかも知れない。この曲を関西学院グリークラブが歌うことの意味は、上級生にならないと分からないのかも。特に低声系の意識が、音楽造りでないところに向いている。
慶應、17音階技法? 珍しくカオス状態。忘れて寝ませう。
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