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合唱音源デジタル化プロジェクト 山古堂

早稲田大学グリークラブOBメンバーズ<特別編集> 真性合唱ストーカーによる合唱音源デジタル化プロジェクト。


第14回 20回代の東西四連(第24回と第25回)

前回に記しました通り、副業が大変ヘヴィで、遅筆が生じておりますことをお許し下さい。
この稿は、8月に入ってからは日本よりも暑い中国・上海にて、紹興酒と度数55度の白酒(蒸留酒)による「乾杯!」合戦から何とか生き延びて発信しております。

20回台も中盤に来ますと、だんだんと「恐竜」が実体化してきます。

<第24回東西四大学合唱演奏会>

1975/06/21 東京厚生年金会館大ホール

東芝EMI LRS413~4/ステレオ

渡辺正美先輩(1976卒)からお借りした貴重なレコードからのデジタル化。
残念ながらエール交換がカットされた収録となっている。
録音は、吊りマイクによる適度な残響がミックスされているが、基本的にはオンマイクであり、また舞台両端の響きが録音から落ちているから、特にベースによるホール鳴りがあまり収録されていない。
ということで、客席で聴く音は録音よりもずっと豊かだったはず。ちなみに、評価の参考として各団の終演後の拍手の大きさを尺度にすると、関西学院が圧倒的な人気である。

1.同志社グリークラブ

 「古典イタリア歌曲集」

Amarilli, mia bella
Gia il sole dal Gange
Ombra mai fu
O del mio dolce ardor
Chi voul la zingarella
Piacer d'amor
編曲・指揮:福永 陽一郎

オンステは40名くらいか。
これまでの数年に比べれば増員のようで、少し精神的な余裕が出てきたように感じる演奏。
ただ、やはり聴かせ処で個々人が頑張ってしまっているような感じも、少し残っている(もっとも、それが同志社のカラーと言われればその通り)。

「古典イタリア歌曲集」は、元々第12回東西四連において同志社が初演した編曲集である。
声楽を学んだことのある方ならば、「古典イタリア歌曲集」による発声・発音・フレージングの訓練や、その効用については良く御存知のことと思う。
また、シンプルゆえに奥深い曲集である。

では男声合唱用編曲の意図はというと、レコードジャケットの解説に「アマチュア合唱団においても重要視されている「正しい発声」の声のフォームをつくるため課題曲として、又、レガート唱法や腹筋によるアタックの練習曲として利用されるために編曲されたものである。」とある。
確かに練習曲としては有効かも知れないが、それは個人の声を伸ばす方向での効用であって、合唱団の機能向上のための、他曲に無い効用とか、あるいはそもそも演奏会用の演目としての演奏効果がこの編曲版にあるかと言うと、山古堂主人としてははっきり、「ないです」。

本来の独唱の旋律が意図的に分断されて各パートに振り分けられていたり、せっかくシンプルなピアノ伴奏の旋律をコーラスで重ねて鳴らしていたりで、歌曲本来のフレーズ感に薄く、正直に言って美しい演奏が困難な編曲。
福永陽一郎氏もそんなことは重々承知の上での確信犯的な編曲で、それゆえ上記のコメントをされたのだろう。

エモーショナルな書き方をすれば、古典イタリア歌曲はヴァイオリンで言うストラディヴァリウスやグァルネリのようなもので、奏者の技量も当然ながら要求されるが、ある水準を超えた者がストラディヴァリウスを奏すれば、奏者の恣意的な表現を超えて、楽器(歌曲)そのものの雄弁な音楽が現れる、というように思う。
つまり「こう歌ってやろう/弾いてやろう」という思想がある間は音楽にならない、ということが特に顕著に表れる、ということである。

演奏は、オンマイクゆえに個人の声がはっきりした録音と相まって、やや合唱の感覚に薄く、また声楽的にもやや荒れる場面がある。開放母音ゆえにかえって難しいところもあるイタリア語だが、やはり個人によって母音の唱法に違いや癖があるため、その難しさが如実に顕れている。

いずれにしても男声合唱版は、高声系と低声系の音色や団員全体の奏法(歌唱法)が完全に統一されない限り、フレーズのコマ切れから逃れることは出来ないので、あまり選曲しない方が良いと思います。
ということで陽ちゃん先生&同志社、選曲負け(爆)。
いえ、下記の3つの団の「古典イタリア歌曲集」の演奏も聴きましたが、やはりいずれも結果は同じです。

慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団(1983、第108回定演)
甲南大学グリークラブ(1989、第16回関西六連)
関西学院グリークラブ(1993、第61回リサイタル)

2.早稲田大学グリークラブ

津軽の音素材による合唱「四季」(男声版初演)



秋冬

作詩:三浦 哲郎
作曲:田中 利光
編曲:福永 陽一郎
指揮:西田 裕己(学生指揮者)

「四季」の詩は作曲者の故郷・青森の方言で書かれている。
1960年代に流行した、日本民謡を現代西洋の作曲技法によって合唱に編曲した作品の一つであり、二度・四度・六度といった主音・属音の近接音を多用することで、日本的な旋法や緊張感を導き出している。他の民謡編曲と異なるのは、方言を音楽に活かしている点であり、その方言の発音を見事にこなして演奏効果を上げているが、方言発音の指導で威力(笑)を発揮しているのが、このステージで指揮をする山形出身の西田裕己氏/1976卒と推察される。

西田氏は現在、山形県立鶴岡南高校合唱団の指導をしており、この合唱団と共にここ数年の合唱コンクール・高校の部で全国大会常連となっていて、昨2003年の全国大会でも、アクシデント(本番当日に西田氏が体調を崩し病院に搬送されるも、主催者の配慮で出演順を一番最後に繰り下げたことで、復調して会場に戻った西田氏が指揮することが出来た)を乗り越え、見事金賞を受賞している。

この「四季」の早稲田の演奏は、少々粗いことが方言の発音とマッチし、かえって演奏効果の向上につながっており、またこのような曲に似合うストレートな発声となっている。
無論、粗いとは言っても適切な範囲に収まっている。なお、「ザ・グレート」の名を欲しいままにする、歌う公認会計士・武内正氏/1976卒の驚異的な高音ソロ(楽譜上はB?全体がやや上ずっていてHから始まる下降音形、音域1オクターヴの旋律をmezza voceで歌っている)を聴くことが出来るのが、誠に嬉しゅうございます。

ただ(笑)、例えば1曲目の終止和声で、内声が張りに行ってしまいピッチが上がっていて、和音が決まっていなかったりするのが、いつも通りの残念なところ。

余談ながら、「民謡の編曲といえば二度の和声に頼ってばかり」と批判する声も当然あった。
この一人が作曲家・小倉朗氏であり、小倉氏の作品「東北地方の民謡による七つの無伴奏男声合唱曲」は西洋の協和音を基準にしたもので、早稲田グリー第12回定演(1964/12/11&12)にて委嘱初演されている。
これはこれで良い編曲であり、また早稲田グリー屈指の名演でもある。

3.関西学院グリークラブ

男声合唱組曲「水のいのち」


水たまり


海よ
作詩:高野 喜久雄
作曲:高田 三郎
指揮:北村 協一
Pf:塚田 佳男

「水のいのち」男声版は、同志社グリーOBからなるクローバークラブによって委嘱され、クローバークラブ東京演奏会(1972/04/10 文京公会堂)において初演された。
その僅か40日後の第21回東京六大学合唱連盟定期演奏会(1972/05/21 東京文化会館大ホール)において立教大学グリークラブによって再演されたのだが、その立教グリーを指揮したのが小林研一郎氏で、以来この「水のいのち」男声版は小林氏の不動のレパートリーとなっている。

録音で聴く限り40名程度と思われる関西学院の演奏は、フレージング・言葉さばき・音色の変化、全てにわたってきちんと仕上げられたいつも通りの安定した客観奏法であり、数箇所で意図的に囁くような歌い方を挿入していたり、細部まで練られた演奏をしている。
あくまで録音を聴いての感想としては、例えば前述の囁きやアゴーギグ等が一糸乱れずに演奏されているあたりが逆に人工的過ぎて、もう少し人間臭さがあっても良いように思うが、それでも演奏終了後の熱狂的な拍手を聞くと、相当にクオリティの高い演奏であったことが感じ取れる。

高田三郎氏の作品を聴く度に、この大変良い耳を持つ作曲家の作品の、特に奏法に関する様々な可能性を思う。
各パートが楽譜に忠実な音を出すだけではなく、全員が聴き合って音程を僅かに調整し正確な和音を鳴らせば、高田氏独特の渋い音が倍音をまとってホールを満たす。
しかし、高田氏の男声作品において、そういう演奏はあまり多くはない。
恐らくこの関西学院の演奏も、客席で聴いていたならば、例えば1曲目などは最初から最後まで倍音が鳴りまくっていたのではないだろうか。
終演後の熱狂的とも言える拍手も、その結果として生じたはずである。
録音ではホールの倍音をほとんど拾えていないのが、本当に残念。

なお、この「水のいのち」は同年度の関西学院グリー第44回リサイタル(1976/01/18)でも取り上げられている。

4.慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団

 「コダーイ男声合唱曲集 Vol.2」

ENEK SZENT ISTVAN KIRALYHOZ
SEMMIT NE BANKODJAL
ISTEN CSODAJA
NEMZETI DAL
作曲:Kodaly Zoltan
指揮:木下 保
レコードジャケットの解説によると、慶應は4年前、すなわち第20回東西四連における「コダーイ合唱曲集」の演奏を「名演」と評価し、更に今回の東西四連をその続編と明確に位置付けている。
こう言い方こそが慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団なのである(笑)

この時期、1970年代前半の慶應の発声レベルは高く、特にテナーが充実していることから、確かに第20回東西四連と対をなす好演奏となっている。
声に頼り過ぎて一本調子だとか、内声がやや音程悪く終止形で収まっていないこともあったりするが、とにかく他団の追随を許さない強気な演奏であり、コダーイ作品にうってつけと言って良い。
時折バリトンが荒れ馬になりかけるが、きちんと腹を使った発声なので、ギリギリ踏みとどまっているのもいつも通り。

5.合同演奏

 男声合唱のための「アイヌのウポポ」

くじら祭り
イヨマンテ(熊祭り)
ピリカ ピリカ
日食月食に祈る歌
恋歌
リムセ(輪舞)
採譜:近藤 鏡二郎
作曲:清水 脩
指揮:北村 協一

北村協一氏は「アイヌのウポポ」の演奏に一つのスタイルを確立しており、それはこの合同演奏においても変わらない。
北村氏の奏法を僭越ながら分析すれば、例えばリズム優先の曲、フレーズ優先の曲、和声優先の曲等、それぞれの楽曲の特徴を正確に捉え、それらを僅かに強調し、合唱団に一定の機能美を要求することと併せて、作品の構造を明確に奏してみせる、というスタイルではないか。
以前記したように、本来のアイヌ民族音楽とは離れた、西洋作曲技法による一つの抽象音楽と言う捉え方をすれば、そういうアプローチはこの「アイヌのウポポ」に極めてふさわしいと思う。

演奏は、ややお祭り/張り合いが顔をのぞかせることも、特にテナーで見受けられるが、終曲などではそれも一定の効果を挙げている。




<第25回東西四大学合唱演奏会>

1976/06/20 大阪フェスティバルホール

東芝EMI LRs-482~3/ステレオ

木村寛之先輩(1978卒)からお借りした貴重なレコードからのデジタル化。

レコードジャケットにある各団のマークは、それぞれの団の襟章・バッジとして使われているものだが、早稲田グリーのものはOB団体の稲門グリークラブのバッジデザインと同一である。
これは当時早稲田グリーが現役オリジナルの襟章・バッジを持っていなかったからか、と思われる。
早稲田グリー現役が現在使用している襟章・バッジのデザインは、1988年の第37回東西四連の時からのものだが、その制作の経緯については、気が向いたら第37回東西四連の時にでも記します。・・・
あ、第37回はCDで制作されたのでしたね。

さて、この時期の東芝は、と決め付けるのは良くないのかも知れないが、第24回東西四連と同様でオンマイク、かつ舞台両端の響きが録音から落ちているから、外声があまり収録されていない。
これはベースの響き・ホール鳴りを再現出来ないということである。

また、特に慶應・関西学院に関しては、この年の東西四連から「恐竜時代」が顕著となる。
即ち、発声至上主義でどんな曲でも掘った声で張り飛ばすバリトンと「土管」ベースによって、音色や歌唱法が硬直化し、圧倒的な破壊力の表現やマッシヴな演奏は出来るが愛は語れない、という時代である。
これは1990年代初頭まで続く。

但し、はっきりさせておくが、この「恐竜時代」奏法を以ってしなければ絶対に演奏効果の上がらない曲というのが確実に存在する。
特に1970年代後半から1990年代初頭にかけて、取り分けその時代に委嘱された邦人作品群はそうであるし、またドイツ後期ロマン派作品やロシア民謡にもいくつかそういう作品がある。
従い、いまだ止まない80年代「吼える恐竜」世代vs90年代中盤以降「小枝きれい」世代の論争については、演目によってその論争の勝敗が決せられる、という言い方も出来る。
具体例で言えば、小枝きれいな「季節へのまなざし」なんて聴きたくも無い代わり、吼える恐竜の「新しい歌」も聴きたくない、というようなお話。
ということで皆さん、どうぞ信じる道を進んで下さい

1.エール交換

早稲田、一声聴いて「あれ?」と思った聴衆も多かったのではないか。
1960年代前半のようなやや軽い声、爽やかなテンポ運びで歌っている。
それゆえ、エール交換に付き物の「魔物」が顔を出さず、肩に変な力が入っていなくて、青年らしい(笑)良い感じの校歌。
この「恐竜時代」幕開けの第25回四連において、唯一身軽な演奏が出来ている。

同志社は、人数が50名近くになったように思われ、音に厚みも出てきている。でも職人横丁なのは変わらない様子。特にバリトン。

慶應は、発声の手入れという点では相変わらず他の3団より少し先を行っているが、1970年代前半のブリランテな「ワグネル・トーン」から少し変わって来ていて、響きのポジションが高くなく、華やかさが薄れている。また低声系がやや掘った声であり、パート間の音の立ち上がりも僅かにズレが生じ始めている。喉仏を下げ軟口蓋を上げるという縦方向の開きは良いにせよ、横方向すなわち「奥歯の響き」に欠けている、というと分かる人には分かってもらえる、かな。

関西学院も人数が50名程度になってきたか、これまでより一層余裕が感じられ、だからこそなのか、一段レベルを上げた仕上がりを見せている。テナーが僅かに上ずり気味なのは関西学院テナーに特有のやや開いた発声が主因か。また「土管」と呼ばれた関西学院グリー独特のベースをはっきり聴くことが出来る。・・・もっとも、傍流の「土管」ではなく本家の「土管」ベースは、さすがにひと味違いますけどね。
その決定的な違いは音の立ち上がりの鋭さで、そこに気付いている人は今でもあまりいないようです。

2.早稲田大学グリークラブ

「シューベルトの男声合唱曲集」から

Widerspruch(矛盾) Seidl詩
Gesang der Geister ueber den Wassern(水の上の霊の歌) Goethe詩
Im Gegenwaertigen Vergangenes(昔を今に) Goethe詩
Sehnsucht(あこがれ) Goethe詩
作曲:Franz Schubert
指揮:手塚 幸紀
Pf:古谷 誠一

早稲田は技術スタッフ・小林研一郎氏の後任として手塚幸紀氏を迎えてのシューベルト。エール交換の項でも少し記したが、これが少々驚きの演奏なのである(笑) 少なくとも1曲目はまるでロマン派の演奏だし、ロマン派用に訓練された合唱団のような歌い方、なのである。
一声聴いただけでは早稲田グリーとは判別出来ない。これは客席も吃驚したのではないか。おかげで終演後の拍手が他団より小さい(爆)。

高声系が声を薄く使って軽くサクサクと歌い、低声系がそれに倣ってきちんと楽曲の構造物になっている。かといって去勢された訳でもなく、強声を要求される部分ではきちんと剛声を鳴らす。でも丁寧に合わせて歌っている。これだけ出来ちゃうと何か「恐いものなし」という感じ。
特に1曲目は良い。

細かいことを言えば、バリトンやセカンドテナーにとってやや歌いづらいBからD位の音域の処理が、時折個人レベルで失敗している(笑)。
また2曲目中間部のフォルテでは、バリトンの強音発声の悪さ=音程の悪さが露見してしまうのが残念。どうしても「張るぞ!」というマインドモードになると荒れてしまうのが、早稲田グリーの功罪相半ばするところ。バスケットボールでもサッカーでも、後ろに一枚残してボールを運べるチームが強いでしょ。
また3曲目冒頭のテンポが通常より遅めで、Soliがフレージングで過酷(笑)なことになっているのも、かなり気になるところ。これは指揮者の趣向なので仕方ないところか。

とはいえ、少なくとも録音を聴く限り、ドイツ語の発音がやや浅めなこと以外はかなり良いシューベルトです。
聴いていて少し幸せな気持ちになれます。

3.同志社グリークラブ

「Ein Liebesliederbuch(愛の詩集)」

Allerseelen(万霊節)
Heimliche Aufforderung(ひそやかな誘い)
Traum durch die Daemmerung(たそがれの夢)
Morgen!(あしたの朝)
Ich trage meine minne(愛を抱きて)
Caecilie(ツェチーリェ)
 作曲:R. Strauss
 編曲・指揮:福永 陽一郎
 Pf:久邇 之宜

同志社は、東西四連の演目としては第16回東西四連(1967/06/25)以来の演奏。

物凄く物騒なことを記すが、ことピアニストに関しては「東高西低」、いや正確に言えば早慶が当代一流のピアニストを擁して演奏会に臨むのに対して、同関はことによるとピアニストがせっかくのグリーメンの丹精込めた訓練の成果をぶち壊すケースすらあるのである。いつの時代のどの演奏会かは、さすがにここでは書けませんが、被害に遭われたそこのあなた、あ~な~た! ほんにご愁傷様でんな。

という中で、久邇之宜氏が遂に東西四連の場に初登場。久邇氏のピアノは弱音アルペジオの繊細さ、時にはホルンのような中弱音、更に時には鋼鉄のアタック強音、という万全の音揃えに加え、歌手の息遣いを正確に読んできっちり楽曲を組み上げて下さると言う、まさに頼れるプロであって、ピアニストの文句を言わせたら三日三晩天下一品こってりラーメンをすすりながら語れる山古堂主人としても、心より尊敬するピアニストのお一人です。この演奏でも2曲目や終曲では誠に素晴らしいピアノを聴くことが出来ます。ちなみに大変気さくな方で、普段は皇族生協で十六花弁金菊印カップめんを買って食べているという噂がありました。

合唱の方も、人数の増加による「同志社復活」の狼煙がモクモクと上がって見え、またこれも同志社らしくフレーズを大切にしながら楽曲を組み上げていて、前回の第16回東西四連より更に音楽の流麗さが出ている。これはやはり10年間のうちに全体的なレベルアップがあった、ということでもあろう。声で言えば、いかにも同志社らしいテナーが「Caecilie」までしっかり、フレーズ優先で歌いきれるようになっている(でも終曲終盤のHはさすがにヘタレちゃってますけど)。他方でバリトンの音色が常に暗く、他3パートと波長が合いにくい部分がある。
まあそれが時代の主流だったのですが。

4.慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団

「合唱のためのコンポジションIII」


羯皷
引き念仏
作曲:間宮 芳生
指揮:木下 保
「コンポIII」は、指揮の木下保氏が慶應ワグネルと共に第88回定演(1964/01/18)にて委嘱初演した作品で、初演に際して演奏会プログラムに寄せた木下氏の文章(下記、部分)が、氏の学生団体に対する姿勢を物語っている。

然し演奏する慶應ワグネルソサィエティと言う団体は、言うまでもなくアマチュア学生団体である。
勿論各自は音楽の基礎修練を経て来た者とてなく、これからも受ける必要はなく、又そんな余裕があろう筈はない。
どこまでも学業の余暇に出来得る限りのことをするより仕方のない団体である。
もっと極論をするなら、アマチュア学生団体が、作曲者としての生命をかけ、心血を注いで書いた素晴しい傑作を初演するなどと言うことは、自惚れもいいところに違いないし、大冒険とも言える。
プロ団体ならいざ知らず、アマチュア団体がそんな冒険を敢えてする必要はないし、義務もない。
斯んなことを言い出すと、如何にも演奏結果の予防線でも張って居るように取られるし、卑怯にも聞こえる。
以上述べたような事柄は百も承知で、此度間宮さんが慶應ボーイを信じて初演を任されたのである。
信じられまかされた以上、人の善意に勇むことを知る我々知識人として自負する者共は、事情の許す限り、誠心誠意良い演奏の出来得る体制を整えて邁進しなければならない。


その初演の演奏スタイルは、この第25回東西四連とほぼ同じドイツ風正統派合唱とも言うべきスタイルであり、これがデファクト・スタンダードとなったことが、その後多くの団が「コンポIII」を取り上げた際にも、その表現性に足枷を付けることになった、とも言える。

この第25回東西四連の演奏は、初演より更に、大和言葉と言うよりやや「能」の節回しに傾いている。
そのことと、以前第19回東西四連の慶應「コンポ6」の項で記したような「コンポジション」という作品の位置付けという観点から、この作品をどういう方向に仕上げたかったのか、凡人の山古堂主人には率直に言って良く分からない、というか不明瞭なのである。
加えて「引き念仏」のテナーの囃子声を完全なファルセットの強声(まるでサルの叫びのような)にしているのが良く分からない。
そういう唱法は恐らく日本の念仏踊りには無いと思うし、あるいは一つの音響効果を狙ったのだとしても、あまりに他の3パートとの整合性が無いように思う。

そのあたりは木下氏の趣向によるので、慶応義塾ワグネルの所作ではない、ということにしておきましょう。
演奏自体は悪くない。「羯皷」などはワグネルらしい重心の低い演奏をしている。・・・それにしても1曲目「艫」はやっぱり荒れますね。
1曲目ゆえに肩に力が入るでしょうし、Soliもちょっと難しい音域だし硬い声を出しがちだし。だから楽譜の音がマトモになった演奏はほぼ皆無なのですが、そんなことで(笑)、この慶應ワグネル演奏でも音程が崩れていて、1曲目の最後が綺麗なE-Mollになってます。舟を漕ぎながら悲しげに去る、まるで「ヴォルガの舟歌」。

5.関西学院グリークラブ

 男声合唱組曲「草野心平の詩から

石家荘にて

金魚

さくら散る
作詩:草野 心平
作曲:多田 武彦
指揮:北村 協一
「北村&関学&タダタケ」というのは、ある意味で別世界に到達していて、以前から書いている通り、それを嫌いだと言うことは出来ても、結局最後には拍手せざるを得ない(笑)し、ましてコンクールマニアなら泣いて喜ぶことが出来る。

この演奏でも、細かいところまで良く整理されていて、かなりの難曲であるにもかかわらず、減点部分があまり無い。
これだけきちんと鳴らし、揃えた演奏というのもあまり無い。
また、1曲目の最後や「金魚」では、ほとんど聴き取れない最弱音ppppを使っており、この奏法は恐らく東西四連でも初ではないかと思う。

・・・この「ほとんど聴き取れない最弱音」は、よほど効果的であり印象的だったのだろう、その後多くの合唱団で乱用されることになる。
そして、作品表現からかけ離れて合唱団の技術誇示に使われ、その最弱音を奏すること自体が目的/楽曲とかけ離れた凄い緊張感、という本末転倒を引き起こし、大抵はそれを指揮している学生指揮者が大仰に、膝を曲げ猫背になって、その背中から客席に「どーだ凄いだろ」光線を発しているのでした(爆) そして、しまいには、楽曲表現と関係ないこの緊張感を賛美するという、あたかも麻薬を賛美するような聴衆も登場するのでした。
リラックスしたppppというのは、1980年代後半まで待たねばならない。

それと、あえて特筆すべきは、4曲目「雨」の中間部「りんご畑にはさまれた道に~」の部分。
テナーがひとつ前のフレーズでやや上ずったままに「り~んご」と歌い出しているから和音がおかしいのだが、凄いのは、そのちょうど1.63秒後に他3パートがテナーに合わせて綺麗なDurに修正しちゃう。
やっぱり彼らはアクティヴ・ソナー完備のホーミング魚雷に違いない。

テンポ設定については、一応ほぼ楽譜の指示通りなので文句をいう筋合いでもないのだが、あえて一言だけ言わせて頂くと、やはり1曲目冒頭のテンポは畑中良輔氏&慶應ワグネルが第107回定演(1982/12/10、東京郵便貯金会館 12/11、東京厚生年金会館)でやった、やや遅めのテンポが好ましいのではないか、と思う。
山古堂主人がこの原稿を中国出張であちこち飛び回りながら仕上げているから、なおのこと実感する、というのもあるが、中国に今も残る昔ながらの風景というのは、決してキレの良いものではないし、またこの大陸の広さ、市井の人々の暮らし振り、それらから発せられるエネルギー、そして「変わるべきでないもの」も乗せつつゆっくりと確実な、誰にも止めることの出来ない時間の流れを肌で感じてしまうと、尚更のこと、畑中氏が軍人として過ごした頃の中国とは状況が異なるにせよ、えも言われぬ何かを畑中氏のテンポ設定に感じるのである。
なお、上記の第107回定演の後、同じ顔ぶれでスタジオ収録され、東芝の現代合唱シリーズからレコードがリリースされていることを申し添えておきます

6.合同演奏

 歌劇「タンホイザー」第3幕から

巡礼の合唱
エリザベートの祈り
夕星のうた
救済のうた
アンコール 歌劇「タンホイザー」から大行進曲「歌の殿堂を讃えよう」
作曲・台本:R.Wagne
編曲・指揮:福永 陽一郎
Pf:久邇 之宜
独唱:大川 隆子(エリザベート)
    平野 忠彦(ヴォルフラム)
ソプラノとバリトンにプロを招いての演奏であり、また東西四連の合同としては第16回、第21回に次ぐ3回目のワーグナーである。

時間支配としては感覚的に4割が独唱というところであり、それゆえに合唱が対等に歌えないと完全にプロに食われてしまうのだが、食われたかな、というのが正直な感想。
合唱はそれなりに声もついていって、声量も持続性もあるが、いかんせん、音程があまりよろしくない。
「巡礼の合唱」の中間部にある半音進行などは、タンホイザーの目玉でありキモであり、これを外したら全然ダメ、という「試験に出る英単語」なのだが、これが物凄く気持ちの悪い音になっている。
これ以外の部分も「年末に第九の演奏会多々あれど、ことごとく名演これ無し」に通ずるところで、やはりアマチュア学生合唱の技術限界を超えたところにワーグナーさまが鎮座ましましておられることが良く分かります。
・・・かく言う山古堂主人、ワーグナーを歌いこなす自信なんてありませんから、歌いません、避けて通ります(爆)
やっぱり慶應ワグネル第116回定演のワーグナー(1991、OB合同)は凄いです。
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