少人数に悩まされながらも福永陽一郎氏と確実にコミュニケーションを深める同志社、小林研一郎氏を音楽監督に迎え、「コバケンマジック」につられてレベルアップしていく早稲田、1980年前後の戦後第二黄金期へ着々と歩を進める関西学院、そして木下・畑中・ワグネルトーンの三位一体で演奏に磨きをかける慶應、ということで、この時期はまさに1980年代に向けての前哨戦、そして加速がついていく時期、との位置付けです。
当時の世相については、当時小学校低学年だった山古堂主人は語り部として適当ではないので、ごまかしにキーワードをWebから拾って記すのみですが、とりあえず時系列は無視して1972~1974のキーワード;
日中国交正常化、パンダ来日、沖縄返還、日本列島改造論、全共闘/新左翼、浅間山荘、札幌オリンピック、ミュンヘンオリンピック、ベトナム戦争終結、ニクソンショック、アポロ計画中止、ケンメリGTR、オイルショック、公害関連法案制定、横井庄一、ちあきなおみ「喝采」、フィンガーファイブ、日本沈没、荒井由美「ひこうき雲」、ディープパープル「紫の炎」、長島茂雄引退、森進一「襟裳岬」、「ベルサイユのバラ」ブーム 実際には1960年代後半からのキーワードから続けて見ると;
カラーテレビ、ミニスカート流行、三億円事件、ビートルズ「Revolver」、グループサウンズ、ヴェトナム/ソンミ大虐殺、反戦ロック、モントレー・ライヴ、ヒッピー、クリーム、ジミ・ヘンドリクス、ジャニス・ジョプリン、サイケデリック、ローリングストーンズ「Let it Breed」、クイーン結成、ウッドストック・ライヴ、反戦フォークブーム、学園紛争/安田講堂陥落、三島由紀夫割腹、よど号ハイジャック、ゴーゴー喫茶、アポロ月着陸、大阪万博、一億総中流、ボウリングブーム、アニメ量産、怪獣映画ブーム、スポ根・プロレス漫画 (・・・当ブログ管理人様にゴマすって、ロック系を厚くしてみました)
※ブログ管理人注:管理人平田は60~70年代ロックフリークである そうすると、もう少し時代背景や学生気質が見えて来る?
う~ん、だからといって学生気質がどうという結論も出ませんが、とりあえずサラリーマン家庭の所得が急増し、娯楽ジャンルが急速に拡大し、流行音楽もより多様化し、個人主義優先・ノンポリ学生が増えた、従って一糸乱れぬクラシックっぽい合唱スタイルがカッコ悪くなってきた、なんてことは言えるのかしら、良く分かりません(笑)
<第22回東西四大学合唱演奏会> 1973/06/23,24 東京文化会館大ホール
東芝EMI LRS314~5/ステレオ
渡辺正美先輩(1976卒)からお借りした貴重なレコードからのデジタル化。録音はかなりまともで、ややオンマイクながらも音場感もあり、ミキシングに気を遣っているのがわかる。全体的にレベルが高い演奏会。
エール交換が、東京なり大阪なりで四大学が「名刺代わり・名乗りを上げる場」から、「ライバルと横一列に並んで火花を散らす場」へと変貌したのが、この時期からであるようだ。ということは即ち、この時期以降のエール交換では明確に「魔物」が出現するのである。
同志社は、聴感上では30名程度か? 合唱としての音の厚みに頼れないところに、テノールがかなりノド声であり、また相当気負っている感じ。この年は関西の2校ともテノールがノド声というかナマ声というか、頭声に持っていっていない声が数名いて、所により耳に障ることがある。
早稲田は、60~70名いるようだ。同志社のエールに感化されたか(良くあるんです、そういうの)、1番のユニゾンは鼻息荒い感じだが、3番の四声展開の頃には落ち着いていて、やはりコバケンが指揮をする年の早稲田は化ける、というのが校歌からも見える。
関西学院は、40名程度か。低声系は完全に「あの声」だが、テノールが同志社と同様、やや耳に障る。冒頭「That we may both receive and give,」の「both」のG音でテノール2名ほどが上ずってしまっていて、これも気負いか、発声上のいわゆる支え不足か、ともかく魔物がウィンクしている。
慶應は60~70名か、これまた気負いが見えるが、硬派なワグネルトーンで他校より一歩先を行っている感じ。
「三声のためのミサ」
1)Kyrie eleison
2)Gloria in excelsis Deo
3)Sanctus
4)Agnus Dei
5)O, Salutaris
作曲:A. Caplet
指揮:福永 陽一郎
同志社はこの時期の少人数を選曲でカバーしたと、福永陽一郎氏のジャケット解説がある。
この「カプレのミサ」は、東西四連の場では3回取り上げられている。最初にこの曲を取り上げたのは関西学院グリーで、第15回東西四連(1966)において「O Salutaris」を除く4曲が北村協一氏の指揮で演奏された。残念ながら録音が入手出来ていないが、関西学院グリーOB/新月会で進行中の音源デジタル化作業の中で発掘されるかも知れない。
また、第30回東西四連(1981)において、早稲田大学グリー/田中一嘉氏指揮にて全曲が演奏されている。
通常は女声で演奏される「カプレのミサ」であるが、楽譜を見る上では特に女声で無くとも演奏が可能である。が、これが実際に男声で演奏されるケースは少なくて、そもそも低声部があまり面白くない(笑)こともあり、演奏が可能である事と、選曲される事には大きな隔たりがある。
演奏は、フレーズの入りから終端まで澱みも躊躇もなく一筆書きでこなしていく、誠に同志社らしい演奏スタイル。
但し、声は低声系と高声系で音色が大きく異なるもので、低声系がいわゆる「大久保発声」の特徴である、やや喉を広げた声であるのに対し、テノールが頭声に至っていなくて少し詰まり気味のノド声である。これでピッチも崩れず最後まで持ってしまうのが、いかにも職人横丁・同志社らしいところではあるが、それでも「Gloria in excelsis Deo」の終盤ではさすがにガス欠か、音程・発声とも不安定な部分があって、こういう部分はやはり少人数ゆえの限界か。
割合に輪郭のはっきりした演奏であり、変に輪郭をぼかして「フランス物の演奏」を気取らない辺りは、やはり福永氏の嗜好か。そういった意味では、この演奏にも福永&同志社の気脈を感じることが出来る。
合唱組曲「日曜日-ひとりぼっちの祈り-」
1)朝
2)街で
3)かえり道
4)てがみ
5)おやすみ
作詩:蓬莱 泰三
作曲:南 安雄
指揮:小林 研一郎
Pf:渋谷 るり子
この時期の早稲田グリーは音楽スタッフに小林研一郎氏を迎え、特にこの「日曜日」ではこれまでとは全く様相の異なる精密な、かつ音色も効果的に変化させた演奏を聴かせていて、東西四連における早稲田グリーの演奏記録の中でも屈指の演奏だ、と山古堂は位置付けている。
まさにコバケン・マジックであって、母音の不揃いも影をひそめ、身勝手に歌う者も無く、フレージングも丁寧という、雑味の取れた(爆)演奏であり、どうしちゃったんだろう、という突然変異的な完成度の高さ。特にセカンドテナーが例年より良くて、音程・音色がきちんと揃い、トップテナーと上手く折り合いを付けている。
コバケン&早稲田グリーの演奏は、特に東西四連という場での演奏は、早稲田グリーの演奏の中でも異質なものである。
それは、東西四連という一種独特な場の雰囲気に加え、小林氏の側では集中力・牽引力の相乗効果と創造的な耳、そしてその聴覚に基づいた要求をきちんと合唱団に伝えられる指揮棒と言葉に基づき、合唱団側では「コバケンに怒られるッ」という恐怖感と、その恐怖に裏打ちされた細かい指示の自主的な徹底とに基づく。その結果、演奏開始から終了まで、演奏者も聴衆も一切気を抜くことの出来ない「炎のコバケン/炎の演奏」となる。
何でコバケンの時だけ? という問いは、時代劇で言えば「それは言わない約束よ」である。あえて私見を書けば、コバケンがいるから、そしてコバケンが恐いから。それだけである。
更に蛇足を書けば、コバケンが一番恐い状態というのが最も好ましいから、もうこれ以上恐い指揮者は呼ばないのである。そしてコバケンが一番恐い状態というのが最も好ましいから、コバケン以外の指揮者とは逆に仲良くなってしまうのである(無論、指揮棒を持たないコバケン先生とは仲良しである)。
そんな訳で、他の指導者がそんな指示や注意や練習進行をしたら反発したり言うことを聞かないだろう、ということでも、小林氏が指揮台にいると一糸乱れず従おうとするのである。カリスマ性というか、迷子が親を見つけたというか(笑)
だから、「あれはコバケンの音楽であって早稲田グリーの音楽ではない」という揶揄や、それに対して「あそこまでコバケンについていける合唱団なんて他にいるか」みたいな応酬が生じたりするが、そういう訳の分からん話ではない。正しく言えば「コバケン」&「コバケンを恐がりたい早稲グリ」の音楽なのである。木下保氏&慶應ワグネルに近いかも知れない。
ついでに(笑)演奏について触れると、「粒の立った銀シャリ」である。ディクションの処理、フレージング、語り口の音色変化、フレーズの入りと切りの丁寧さ。そういう表現要素一つ一つの粒立ちが凛としていることによる説得力の強さに加え、早稲田グリーがコバケンの指揮の時だけ見せる圧倒的な集中力と燃焼度、どれを取ってもこの演目に見事に嵌まっている。
この「日曜日」は、ごく簡単に記すと、昭和30年代から始まった自動車の普及に伴う交通戦争の加害者・被害者を親とする子供達の語りであり、被害者の子は死んだ親を想い、加害者の子は被害者の子を、そして「人殺しの子」と指差される境遇を想う、とても切実で切ない曲で、終曲「おやすみ」などはもし身近に交通事故関係者がいたら涙無しには聴けない。このコバケン&早稲田グリーの演奏でも「おやすみ」は白眉である。
また、こういう余韻の大切な曲だと、演奏直後に出足を競う無頼野蛮な「ブラボーーっ!!」を飛ばす風習が無いのも大変に助かる。
なお、小林研一郎氏は早稲田グリーの音楽監督を務めるのと同じ時期、第21回(1972)~第23回(1974)の東京六大学合唱連盟定期演奏会の場において立教グリーを指揮しており、この時期は大学男声合唱との結び付きが強かったようである。
男声合唱組曲「航海詩集」
1)キャプスタン
2)船おそき日に
3)わが窓に
4)コンパスづくし
作詩:丸山 薫
作曲:多田 武彦
指揮:金房 哲三
関西学院「航海詩集」は第29回リサイタル(1961/01/14)において委嘱初演したものの再演。
ここに収録された演奏の完成度は、まさにスタンダードであり、もともと演奏される機会が非常に少ないこの曲にあって、これを超える演奏は皆無であろう。
エール交換の項で記したように、テノールのノド声が時折楽曲からはみ出してしまい、それに起因する僅かな音程の振れがあって、もう少し頭声にしても良いと思うが、関西学院のメンバーの耳はアクティヴ・ソナーに仕立て上げられているから、少なくとも音程については上手く吸収してしまう。全般として「キャプスタン」「コンパスづくし」の爽快感や躍動感、そして「わが窓に」緩急自在な表現・フレージングや和音の作りこみには唸らされる。
関西学院、やはりこういう歌は上手いのである。この時期くらいまでに卒業した関西学院グリーOBは、ちょっと集まって歌い出す際に「ハモろうぜ!」と言うのだそうで、早稲田グリーOBの「一発かまそうぜ!」とエラい違いである。
何度も書いてきたことだが、関西学院グリー恐るべし、ともいえるのは、戦前から現代に至るまで、加えてそれぞれの時代の団員の多寡に拘わらず、常に一定の演奏スタイルとクオリティを保ち続けていることで、この伝統は敬服の他は無い。
東西四連の加盟団体は、確かにその他の団体に比べれば遥かに「一聴して判別することが出来る」のだが、それでも早稲田・慶應・同志社は、特に1980年代から少なからずその音色や奏法が変化しているし、その時々に所属している団員の技量によっても大きく左右される。しかし関西学院は、どんな時でも必ず倍音を味方につけ、少人数であってもそうとは聞こえない演奏を展開する。ここに収録した演奏の人数は、はっきりとは分からないが、恐らく50名には達していないのではないか。
「シベリウス男声合唱曲集」
1)Sortunut aani(失われた声/カンテレタルより)
2)Terve Kuu(月よ御機嫌よう/カレワラより)
3)Venematka(舟の旅/カレワラより)
4)Tyonso kumpasellaki(二人の仕事/カンテレタルより)
5)Metsamiehen laulu(森の男の歌/A.Kivi)
6)Sydameni laulu(我が心の歌/A.Kivi)
作曲:J. Sibelius
指揮:木下 保
慶應は、もしかして本邦初演か?
今でこそ北欧の男声合唱譜や音源も豊富にあるが、木下保氏のジャケット解説によると、フィンランド大使館に発音を問い合わせるなど、木下氏も学生も苦労された様子である。
それと2曲目「Terve Kuu」には超低音のLo-Bがあって、日本人では如何ともしがたいのだが、この演奏では長2度上げているのでLo-Cとなる。それでも聴こえるような聴こえないような。逆にトップテナーとバリトンが高音で苦しむ結果になるのだが、そのトップテナーとバリトンに立派な声の人が一人ずついて、要所要所で支えている。このお二人が部分的にはほとんどソロ状態なのだが、もしかして翌年の第99回定演の「真珠採り」でソロを歌った方々?
演奏は、これでもかというほど「ワグネル・トーン」を前面に押し出していて、どの曲も発声の一本槍なところがやや気にかかるが、それが慶應ワグネルというものなので、気にしたら負けである。
逆に言えば北欧の音楽をやるからといって北欧の合唱団のスタイルを模倣出来る訳も無いのだし、「1973年当時に慶應ワグネルの歌ったシベリウス」として、その完成度は率直に高いと思う。
男声合唱組曲「海の構図」(改訂版初演)
1)海と蝶
2)海女礼讃
3)かもめの歌
4)神話の巨人
作詩:小林 純一
作曲:中田 喜直
編曲・指揮:福永 陽一郎
Pf:三浦 洋一
合同曲は、第19回東西四連(1970)の合同に際し、福永陽一郎編曲・北村協一指揮で男声版初演がなされた「海の構図」。
この22回東西四連では福永氏が、初演を聴いて修正を要すると思しき部分を改訂し、自身で指揮をしている。
演奏のクオリティは高く、現代でも充分レファレンスとして通用するもので、合同ならではのスケールの大きさは勿論、「かもめの歌」などでは和を以って尊しとなす演奏をしていて、好演である。
<第23回東西四大学合唱演奏会> 1974/06/17 京都会館第一ホール
渡辺正美先輩(1976卒)からお借りした貴重なレコードからのデジタル化。
残念ながら、この前後数年の東西四連ライヴレコードと比べて、音質が格段に落ちる。レコード制作会社の技術がどういうわけか素人並で、全ての演奏にブーンというノイズが入っていたり、ダイナミクスレンジや左右チャンネルの距離感が極めて狭い等、とてもプロ業者の制作とは思えない。
また、もしかしてこの日は雨で、その上気温も高かった? 更にもしかして昼夜好演が重なって疲れていた? どの団もやや音程や声質やザッツの揃いが甘かったり、ノドの強い人が頑張って突出してしまっていたり、録音技術に起因しない実演奏での荒れが目立つ。
言い換えれば、聴き合い揃えていく、という感覚が薄いのである。
メンバーそれぞれも手を抜いたり練習不足だったりということではないと思うが、何となく歯車の噛み合わない「逢魔ヶ時」みたいな演奏会ってあるものです。
そういうことで、録音で聴く限りやや荒れ気味の東西四連である。
慶應は、美声というか響きをしっかり掴まえた声が多くいて、ギンギンに響いてくるのだが、テナーが中高音でやや高めのピッチになり、高音では呼気に腹圧をかけて張ってくるので、いつものしっとり感(笑)が薄く、やや発声練習で声量を競っているような感じに聴こえる。
関西学院は、ノド声テナーが前年より少し改善され、綺麗な頭声も聴こえてくるが、他方でベースに大変立派な声の方がおられ、この方がマルカートを超えたオールアクセントの歌い方で突出していて、いつもの安定感・統制感がやや薄い。
早稲田は、他団よりずっと冷静に歌っていて、四声展開後にも安定感がある。曲頭を含むザッツの乱れが少なからずあるが、曲の流れを妨げるほどではなく、あまり気にならない。
同志社は少し人数が増えた感じ。40名前後? 声は一時期よりまとまって聴こえるが、テンポ設定がいつもと違う。2小節フレージングで、その全てのフレーズ後にはっきりと判る溜めがあり、その都度改めて歌い出しているという感覚。これにより歌詞を噛んで含めるような印象を受け、それが狙いなのだろうが、「そんなに名刺に凝らなくても」というのが正直なところです。
「エレミア哀歌」
1)"Incipit lamentatio Jeremiae prophetae"
2)Lectio II
3)Lectio III
作曲:G.P. da Palestrina
指揮:木下 保
「ワグネル・トーン」の最高の年が恐らくこの1974年で、慶應ワグネルは伝説の年度を迎えていた。
同年の第99回定演(1974/12/04)にて、この「エレミア哀歌」の他、学生指揮者・秦実氏の編曲・指揮によるG.Bizet「真珠採り」、「チャイコフスキー歌曲集」「さすらう若人の歌」「阿波」が演奏され、学生ソロにも美声を配したこの定演の大成功は、その後も永く語り継がれ、ワグネルの後輩達の一つの目標となった。
この第23回東西四連で収録されている「エレミア哀歌」は、パレストリーナとは思えないような熱のこもった演奏となっていて、まるで同志社のようにポジションを高く取ったトップテナー・セカンドテナーと、芯を捉えた低声系とを、木下氏の指揮が纏め上げていて、骨太な中にも輝きのある演奏である。それが本当にこの曲へのアプローチとして正しいかどうかは別として(笑)、客席で聴いていたらきっとこのステージで「お腹いっぱい」になったと思う。
ただ、内声の音程が少し甘く、特にセカンドテナーもしくはハイバリトンが中音域・B音付近のちょっと気を遣わねばならない発声処理が上手く行かず、部分的に和声の嵌まり方が少々甘いのが残念。また声に頼りすぎて発声練習のように聴こえなくも無いのが、この時期の特徴でもある(そしてそれはこの先現代に至るまで、慶應ワグネルの特徴であり、場合によっては嫌われるところでもある)。
畑中良輔氏の言う「エール交換でワグネルが一声出すと客席がざわめいた時代が、確かにあったの」というのが、恐らく1970年代前半であって、第21回東西四連の「Jagdlieder」こそ曲と声がマッチしなかったが、その他はどれも本来の「ワグネル・トーン」を知ることが出来る演奏である。
山古堂主人の理解としては、「ワグネル・トーン」の神髄は、咽頭-頭部の共鳴をしっかりつかむことにより高域成分である倍音を華やかに散らす発声を、合唱団として可能としている事と、母音・子音の処理を統一していることである。
これにより、声を客席に飛ばし、倍音を豊かに鳴らすと同時に、和声の立ち上がりの速い=指揮への応答の速い演奏を行うのである。これは特に北欧・東欧の合唱団ではごく自然に行われているが、日本では、特に現代日本語ではあまり声帯を緊張させずに話すし、話し始めも僅かに息を先行させたりする(要はハスキーヴォイス)から、相当の訓練無しには不可能である。
1980年台になってくると、発声のための様々なポジションをいちいち確かめ、準備しなおしてから歌いだすことや、或いは必要以上に子音の発音に時間をかけることから、全体的な音の立ち上がりの遅れが顕著になる。
加えて、そういう発声に楽曲を合わせて行く強引さと、低声系に顕著となる「堀った声」によって、「ワグネル・トーン」の両輪の一つである指揮への応答の速さが失われていく。
その結果、「ワグネル・トーン」という言葉が、発声や響きの特徴ではなく、慶應ワグネルの80年代からの奏法の特徴、すなわち良く言えば重厚/悪く言えば鈍重な歌い方であるような理解に変遷していく。
無論年度によって軽重はあるが、第29回東西四連(1980)の「モビルスーツによる狩の歌」、第30回東京六連の「情念で塗り固めた愛の歌(Liebeslieder)」、第34回東京六連の「高重力で弾まない黒人霊歌」、そして第37回東西四連(1988)で究極の「シューベルトのハチミツ漬け」などが特に重い(ワグネル関係者の皆さま、受け流して下さいね)。
この重さは1990年代前半まで続く。
男声合唱組曲「雪明りの路」
1)春を待つ
2)梅ちゃん
3)月夜を歩く -ティチアノー筆「白衣の女」の裏に-
4)白い障子
5)夜まはり
6)雪夜
作詩:伊藤 整
作曲:多田 武彦
指揮:北村 協一
関西学院は第28回リサイタル(1960/01/22)の初演以来、今日まで数回この「雪明りの路」を演奏しているが、この第23回東西四連の演奏は、特に名演の声が高いものである。
録音が悪いのが誠に残念であり、またベースに突出した歌い方・子音の飛ばし方をする方が1名おられるというのも率直に言って耳にひっかからぬでもないが、それでも「月夜を歩く」などはハーモニーも美しく、「白い障子」もサラリと歌っているが大変に正確で精密であり、良い演奏である。
この時期の関西学院は、多田武彦氏の作品を連続して取り上げており、前年の第22回東西四連において「航海詩集」を好演した他、当年度の第43回リサイタル(1975/01/19)では「尾崎喜八の詩から」を委嘱初演している。
蛇足ながら、その第43回リサイタルでは北村協一氏の指揮によるロック・ミュージカル「Hair」(その伴奏Bandアレンジは何と青島広志!)や、林雄一郎氏の指揮による「STROHBACH男声合唱曲集」なども演奏しており、えも言われぬマニアックな団体であることが良く分かる。
「ミサ ホ短調」(男声版初演)
1)Kyrie
2)Gloria
3)Credo
作曲:Anton Bruckner
編曲:遠藤 雅夫
指揮:小林 研一郎
Pf:山崎 ゆり子
1970年代、早稲田は音楽スタッフとして小林研一郎氏を迎えており、小林氏も東西四連や定演においてさまざまな選曲をもって壮大な「実験」をしていたように見受けられる。
(音楽スタッフを外れてからの小林氏は「レパートリーをむやみに増やすな」と称し、原則として「レクイエム(三木稔)」か「さすらう若人の歌」か「水のいのち」しか引き受けない。)
ちなみにこの年の学生指揮者が、卒団後に東京藝術大学指揮科に進み、現在プロとして活躍中の堀俊輔氏/昭和50(1975)卒。
このブルックナー「ミサ ホ短調」は、混声では有名な作品で、「Credo」は合唱コンクール自由曲でも時折取り上げられるように演奏効果も大きい。
遠藤雅夫氏の男声版編曲による早稲田グリーの演奏は、全般にブルックナー特有の中音域に持続した厚みを持つ書法を良く表した演奏となっていて、濱田徳昭氏の常任の頃とはまた異なる奏法による好演である。
好演ではあるが、その中で発声上の問題が2点ほど浮き彫りになってくる。これは早稲田グリーというより日本の男声合唱の抱える問題。
一つはトップテノールの声の扱いで、G音以上の高音が続く旋律を歌う際に、弱声ファルセットで歌う/強声フォルテで歌う場合は良いとして、その中間の音量で歌う場合は発声処理が非常に難しい。
特に愛称「バリトップ」の早稲グリでは尚更である。そしてそういう高音mezza voceがこの遠藤版の随所に出てくるのである。それもクレシェンド等といった強弱変化を伴って。
そうなると、合唱団として発声の問題が解決出来ていないため、例えばこの「ミサホ短調」で言えば「Kyrie」前半では半端にファルセットにしてしまって、ド素人のような支えの無いヘロヘロ声で音程が悪かったり、或いは半端に張っちゃってナマ声が目立つ。
こういうところは、揃えるだけならきっと関西学院や東大コール・アカデミーなどが上手く揃えられるのだろうが、ブルックナーの作品なので他パートに負けない厚めの音色も欲しいし、解決は難しい。
恐らくこういう半端な音量・音域の旋律を上手く歌えるのは第32回四連の同志社トップだけではないか?
もう一つはセカンドテノールの発声で、B音からF音あたりの最も難しい中高音でのフォルテに際し、響きのポイントをきちんと掴まえて鳴らすのではなく、呼気の強さ=腹圧をかけてノドだけでフォルテを張りに行くから、結論から言うと強声で上ずることになり、終止形の和声が決まらない。「Gloria」終端の「Amen」などは好例で、「A-」と「-men」が同じ音なのに、張りに行った「-men」で音程が1/4ほど上昇する。(まあ、一般的には耳を使って他パートに合わせに行くんですけど、そこは早稲田グリーの弱点かも知れません。)
これもまた難問で、セカンドテノールの声をきちんとキャラクター付けして発声練習を組み上げている団体なんてあまり無いだろうから、男声合唱の永遠のアキレス腱かも知れない。(北欧や東欧の合唱団だと、パート別のキャラクター付けということ自体が観念として存在しないかも知れませんが。)
これら2点は、特に「ミサ ホ短調」では率直に言って編曲上の問題も多々あるから、前年のような手頃な音域と音量でこなせる演目であったなら、もっと良い演奏が出来たかも知れない。
以上ゴチャゴチャ記しましたが、全体としては好演で、「Credo」などは良くブルックナーしてます(コバケン&早稲グリの壺にハマりやすい曲だから?)。
男声合唱組曲「沙羅」
1)丹沢
2)あづまやの
3)北秋の
4)沙羅
5)鴉
6)行々子
7)占ふと
8)ゆめ
作詩:清水 重道
作曲:信時 潔
編曲・指揮:福永 陽一郎
Pf:笠原 進
男声合唱版は、今となっては平均年齢が還暦以上の合唱団で時折リバイバル演奏される程度だが、決して忘れ去られて良い作品ではない(と、この年にして思う)。この曲集はオリジナルが独唱で、次いで福永陽一郎氏による女声版編曲が出来、その後に男声版が出来たが、実は男声版は2バージョンある。
1)福永陽一郎編曲版(1967初演、慶應ワグネル第92回定演/木下保指揮)
2)木下保編曲版(1971初演、慶應ワグネル第96回定演/木下保指揮)
この第23回東西四連では、福永版を編曲者自身の指揮で演奏している。福永版編曲の初演に際して福永氏が記したのが,下記の一文である。
福永陽一郎氏より「編曲者としての註釈」 信時潔――ブラームスと呼び捨てにするのだから、信時と呼び捨てにしてもいいのかも知れぬが、内心おおいに、相すまぬというこだわりを感じる――の名作「沙羅」についての因縁は、出版されている女声合唱用の編作品のとびらに書いてあるので、くりかえすまい。 私たちに、「沙羅」の正しいイメージをあたえてくださった、リートとしてのこの曲の初演者、木下保先生が、この曲が女声合唱よりも、男声合唱によってうたわれるべきだというお考えをお持ちなのは、以前から存じあげていた。 私にしてみても、男声合唱が得意でないわけではなし、やってみたいのは山々であったが、どうしても、「ピアノ伴奏付きのホモフォニックな男声合唱曲」というイメージがつかめなくて、ずっとほうっておいた。 ワグネル・ソサィエティから「木下先生が『沙羅』をおやりになりたがっていらっしゃるが、どなたに編曲をおねがいしたらよかろうか」という相談を受けたとき、すぐに私がやりましょう、と云ったわけではない。 とても自信なぞ持てなかった。 ただ、自分以外の編曲で、男声合唱の「沙羅」をきいたら、さぞガマンナラヌだろうと思った。 そこで、ブラームスと並行して編曲を引き受けることになった。 木下先生に捧げさせていただいたが、原作の良さと、先生の最高の御理解が、私の編曲のまずさをうめて、この名作を男声合唱の新作としてひびかせて下さることを、切に期待している。(1967年11月) (慶應ワグネル第92回定演プログラムより)
男声版「沙羅」と言えば、出版されている木下保編曲版が一般的であるが、それに先立って編曲されたこの福永版はアプローチのやや異なる編曲である。
レコードジャケットに拠れば、福永陽一郎氏はこの歌曲の初演(太平洋戦争中の1944/09、独唱:木下保、Pf:水谷達夫)以来、この伴奏の響きに魅せられ、戦時中にクラスメイト達が出征していく中、「現在」そして「最後」かも知れないものの記録としてこの曲を選び、録音 -エボナイト盤にダイレクトカッティングと言う手間のかかる- を行い、そのためにこの曲を一心に勉強した、とのことである。
福永版の編曲は、まるでピアノ協奏曲の如くで、ピアノと合唱が対等に聴こえる編曲である。
また、さらりと聴き流してしまえるが、実際には結構難しい合唱編曲である。それ故、この曲がより広く普及することを願って、木下氏がもう少し簡単な編曲をつくったのである。
同志社の合唱機能は、いまだ復旧半ばという感じか。
この曲の死命を制するのは日本語の語感と音楽の融合である、とは木下氏・福永氏ともに指摘しているところだが、そういう観点から聴くと、そこはフレージングの掴みが上手い同志社、決して悪くないが、人数が少ないこともあって個人の声が目立ち、その声がテナー系ではやや硬く、曲になじまない場合もある。
一方で音程はかなり正確で、またいつも通りフレーズの終わりまで丁寧に歌っているから、もし客席で聴いていれば好演と聴こえたはずである。
伴奏に魅せられた故・福永陽一郎氏の手による器楽・声楽の渾然一体となった福永版も、また「沙羅」の初演独唱者である故・木下保氏の手による旋律感を重視したシンプルな、しかし音の粒立ち凛然とした木下版も、今となってはあまり演奏されないが、共に珠玉の作品である。
ちなみに慶應ワグネルでは前述の第92回定演(1967)以来、4年に一度はこの曲を取り上げる、という慣例が第104回定演(1979)まで続き、この間のワグネリアンは全員が「沙羅」の演奏経験がある。
その演奏スタイルは「大和言葉(やまとことば)」という言わば歌舞伎や百人一首の歌詠みのような日本古来の発音に基づき、それによって日本語のディクションの美を追求しようとするものであったが、早稲田グリーではそのスタイルや、そもそも「沙羅」という選曲をバカにする者も多かった。山古堂主人もその一人でした(爆)。
でも、6曲目「行々子(よしきり)」などはまさに珠玉でございます。
「十の詩曲」による六つの男声合唱曲より
1)4.怒りの日
2)5.鎮魂歌
3)6.歌
作曲:D. Shostakovitch
訳詩:安田 二郎
編曲:福永 陽一郎
指揮:小林 研一郎
福永陽一郎氏の演奏設定とはやや異なる。全般的に「溜め」が少なく、ごく簡単に言えば器楽的な演奏である。
従って、この曲に強い思い入れを持っている方からすると、終曲「歌」などではもう少し濃い演奏を望まれるかも知れない。
後述する通り、この曲については言い出せばきりが無いから、先に結論のみ記すが、原詩、もしくは原詩に忠実な邦訳を読み込み、かつロシアの近現代音楽を少しでもかじっていれば、この演奏における小林氏の楽曲解釈が「ショスタコーヴィッチの"十の詩曲"」として、日本語の語感よりも器楽的な機能性に重心に置いた、極めて合理的なものである事は、明快に理解し得る、ということです。
そういうことで楽曲の構成感は優れたものなのだが、合唱はというと、もちろん一定の水準には達しているから、スリルやサスペンスは無いのだが、やはり大変そう(笑)。
良く頑張っている合唱と物凄く頑張っちゃってる一部の大砲群、というのが率直な感想。
何かを表現する余裕が無く、歌うために歌う、といった風にも聴こえる部分もあるが、それはこの年になって出来る意地悪な聴き方というものか。
・・・やはりこの曲は人心を惑わせるセイレーンである。
ということで以下、「十の詩曲」に関して長々と山古堂主人独白。
特に同志社関係の方の御意見を是非ともお伺いしたいところです。
そもそも福永陽一郎氏は生前、男声版「十の詩曲」の演奏をそう簡単に許可しなかった。
それはこの編曲が声楽的に過大な負担を強いるから、よほど声と勢いのある合唱団でなければ勧められない、という言い方での不許可であったが、根底には「安田二郎の訳詞」と自身の手による「男声版」という、極めて私的で強い思い入れがあったと推察する。
以前記したように、「安田二郎」とは福永陽一郎氏のペンネームで、太平洋戦争で失った二人の親友、安田保正・松永二郎というお二人の名から取られたものであり、また「男声版」は第14回東西四連において、ヴェトナム戦争で公開銃殺刑に処せられた一人のベトコン少年に捧げられ、自身の指揮によって同志社と共に忘れ得ぬ名演をしているのである。
その福永陽一郎氏が1990年2月に逝去されてからというもの、この曲を振りたがっていた/歌いたがっていた人々が堰を切ったように続々と演目に加えた。
といっても絶対的な「声」が無ければ演奏出来ないから、山古堂主人の知る限りでは、その演奏数は一桁の域を出ず、またその全てが早稲田グリーか同志社グリーの関係者によるものである。
それらの演奏がどうかというと、無論箸にも棒にもかからんという演奏はあまり無いが、率直に言って楽譜を音にするので手一杯な部分と、レクイエムか挽歌のようにメソメソした解釈との交錯、そしてそれに満足しているように聴こえるのである。
大変な楽譜だし情操的な訳詞だし、確かにそれはそれで立派ではあるのだが、そこにはその場に集う演奏者の固有の思想(政治思想とかいう狭い意味ではない、以下同じ)や主張はなく、あるのは安田二郎による訳詞と、福永陽一郎氏の背中、そしてOB団体にあっては演奏者のノスタルジーであって、最も大切なはずの詩の本来的な意味へのアプローチや「ショスタコーヴィッチの音楽」は、遠くにかすんでしまっている。
安田二郎の訳詞による男声版「十の詩曲」とはそういうものだ、それで良いのかも知れない。
しかし、と、あえて山古堂主人は言う。
この「十の詩曲」とプラウダ批判・ジダーノフ批判との関連について本当のところは知らないが、ソヴィエト当局からソヴィエト体制賛美のための圧力が常にかかっていた事実はあるだろう。
しかしそういう環境下で、ソヴィエト革命の当事者であった詩人達の詩を題材にすることで、さも「ソヴィエト革命賛美」のようにカムフラージュして当局からの圧力をかわしつつ、裏には、国の存立基盤であるはずなのに主客転倒し虐げられている民衆が、不条理を糺すために立ち上がり、よって何か貴いものを血を以って勝ち取る、そしてその勝ち取るものが「ソヴィエト体制」であることを意味するとは限らず、まさに国家存立の意義である民衆の幸福であるべきだ、という意識があったはずだ。
そういう観点で考えるならば、4曲目「怒りの日」(原題は「(近衛兵の銃に倒れた者達に対して敬意をと鎮魂のために)脱帽せよ」)の激しい感情や終曲「歌」の明るい終結は、ショスタコーヴィッチの信念であり、つくりものの明るい未来を吹聴する「森の歌」や交響曲9番終楽章とはイデオロギーが異なるのである。更に言えば、男声版になっていない曲には、民衆の持つ巨大なエネルギーを表す「通り(街)へ出よ!」や「五月一日」という、歌う者にも巨大なエネルギーを要求する歌が含まれている。
「革命詩人による十の詩 Op.88」が作曲された1951年、ロシアは社会主義国家としての第二次大戦を勝利で終え、その余勢を駆ったスターリンが朝鮮動乱に手を染めている頃でもある。
第二次大戦におけるドイツとの過酷な戦いにおいて、「ソヴィエト社会主義vsナチス帝国主義」というイデオロギー戦争から「母なるロシアを守れ」へとスローガンを転換することで、前線の兵士達が奮い立ち、奇跡的にドイツ軍を押し返した史実や、この戦争で特に都市部の男女比に大きな不均衡が生じたため「労働女性」が奨励され、例えばトロリーバスの運転手が一時期全員女性になったことなど、様々なショックが収まっていない時期に、また戦争なのである。
血を流すことで自由なり思想信条なりを勝ち取る、という主題について、福永氏にとって共通する強い思いがあったことは間違いない。
言わずもがな、だが、福永氏はこの曲を銃殺されたベトコンの少年のために、或いは世界で頻発する戦争や紛争で死傷する者のために、或いは太平洋戦争で亡くした親友のために演奏し、そしてそれらの思想の延長として平和幸福を願っておられた。
しかし、ショスタコーヴィッチは国家間の武力行使による民衆の死(あるいは不条理な)についてのみならない、更に普遍的なテーマとしてこの「血を流すことで自由なり思想信条なりを勝ち取る」という主題を作品に内包させたように思われてならず、従って福永氏亡き後こそ、福永氏の演奏スタイルに囚われない、もっと言えば「安田二郎」の訳詩に囚われ過ぎない解釈や奏法が、福永氏以外の演奏者によって存在しなければならない、と思うのである。
山古堂主人としてはそういうことを学生時代から考えていた中で、「十の詩曲」をやりたいという声や、その演奏解釈などについて随分いろいろな話を聞いたし、また現在も聞くのだが、いわく「同志社の名演を超えたい」、「初演版の楽譜にこだわりたい」「この曲を歌い切れるテナーが揃った」なのである。
あるいは近視眼的な詩の解釈やフレーズに分断された奏法設定の他には、音楽の位置付けという意味での奏者の思想や信条を明確に聞いたことは一度も無い。これほどのプロテスト・ソングであるにも拘わらず!
ということで、山古堂主人はいつの日か、しっかりと踏み込んだ、思想に満ちた演奏を聴きたい。
関西学院グリー百周年でデュオパのミサをやったように、同志社グリー百周年で「十の詩曲」をやらないかしら。
最後に、これは決して福永陽一郎氏をおとしめようとするものではないが、事実として記しておくべきことと判断して、記します。
この「十の詩曲」の原曲譜は、数年前に全音楽譜出版社から、ロシア語歌詞の全曲版(発音用のカタカナまで振ってある)が出版されていて、現在も入手可能である。そこには演奏用の邦訳詞はないが、伊東一郎氏/早稲田グリー1972卒、現在早稲田大学文学部教授(露文)によるによる、文学としての訳詩が掲載されている。
「安田二郎」の訳詞は、確かに良く出来ている。しかし、全音楽譜出版の楽譜にある伊東一郎氏の訳詩もお読み頂きたい。
「安田二郎」の訳詞で省略され、失われたニュアンスが良く分かるし、その無視出来ないギャップも良く分かる。それを知った上で「曲より訳詞を優先させるのだ」と仰るのであれば、山古堂主人は何を言う意味も無い。
さて本題。実はこの全音楽譜出版の楽譜より遥か以前に、「十の詩曲」の混声全曲版が、それも邦訳詞だけの版が出版されていた。
これはポケットスコアシリーズ(確か音楽之友社だったと思う)にあったもので、福永氏が男声版を編曲した1965年よりも前、確か1950年代に初版が出ていて、1990年代初頭には絶版になったと思われる。
山古堂主人も学生時代に購入したのだが、残念ながら早武という変態イカ踊り男@早稲グリ1989卒に不覚にも無担保で貸したところ、この変態イカ踊り男がものの見事に紛失した。
そのため、今となってはポケットスコア版の邦訳者が誰だか分からないのだが、少なくとも「安田二郎」ではなかった。
しかし、ポケットスコア版の邦訳はまさに「安田二郎」の訳詞とほとんど変わらないものである。僅かな違いは、例えば1曲目であれば、全音ポケットスコアでは「ロシアに春が来る」が、安田二郎訳では「祖国に春が来る」になっているだけで、他は全て同じであり、その他の曲の歌詞でも、固有名詞をより普遍的な名詞に置き換えた程度で、感覚的には98%が同じであった。
ということで、「安田二郎」の訳詞は、ポケットスコア版にある邦訳歌詞から「ロシア」などの固有名詞を消して普遍的な意図を付与した、という意義はあるかと思うが、基本的にオリジナル訳ではない。
従って、福永氏の思い入れは「安田二郎」の訳詞そのものには無いと判断され、むしろその訳詞を読み込んだ上で私的な想いと渾然一体となった奏法設定に依るところ、大なのである。
だから、その奏法設定こそが福永氏の思想そのものであって、福永氏亡き後の演奏者がそれを真似たって文字通り「詰まらない」のである。
スポンサーサイト
東西四連の記録、20回台に入ります。演奏内容は、10回台に比べてかなり異なる趣を見せるようになってきます。
それは演目であり演奏スタイルであり、基礎的な発声技術であり、そして、その行き着く先が1980年前後の東西四連爛熟期であります。
まずは20回台の中で屈指の演奏会となった第20回から。
<第20回東西四大学合唱演奏会> 1971/06/27 東京文化会館大ホール
キングKR7068~9/ステレオ
日和佐省一先輩(1971卒)からお借りした貴重なレコードからのデジタル化。第19回・第20回の東西四連ライブレコードは、キングレコードから2枚組2,000円で市販された。残念ながらエール交換がカットされている。
録音は基本的に宙吊りマイクを中心とし、ステージマイクで補正したと思われる。
残響が少々人工的で、またステージ中央部を厚めに録音している感じなので、ホールで聴く演奏とは趣を異にするが、市販を意図したのであればやむを得ないか。以下、あくまで録音を聴いての解説。
「Messe Solennelle de Sointe Cebile」(男声版初演)
1)Kyrie
2)Gloria
3)Offertory
4)Credo
作曲:Charles Gounod
編曲:福永 陽一郎
指揮:宇宿 允人(うすき まさと)
Orch:ヴィエール室内オーケストラ
恐らく東西四連単独ステージで初の管弦楽付きステージであり、またその演奏レベルからして驚異の記録と言っても良く、宇宿氏の指揮の下、見事に統制の取れた演奏を聴かせる。
当時は随分と評判になったそうである。
とにかく颯爽として伸びやかなオーケストラが素晴らしい。
またソリストを全員学生でこなした同志社の合唱も、録音でこそ多少の粗はあるものの、決してオーケストラに食われていない。
「Gloria」冒頭のテノールも、換声区を越えたあたりで少し鼻に抜いてはいるが、綺麗な頭声でFis-Aあたりの高音を飛ばしてくるし、合唱も端整に仕上がって聴こえる。
プロのオーケストラ指揮者・宇宿允人氏については、下記のサイトに良くまとめられているのでご参照頂きたい。
「宇宿允人の世界 ファンの集い」 ヴィエール室内オーケストラは現在の関西フィルの前身。
その起源は神戸女学院の学生オーケストラにあって、このオーケストラの卒業定期演奏会に際し、指揮者として当初予定されていた近衛秀麿氏が急用のためキャンセルとなったことから、同氏の推薦により急遽宇宿氏が指揮をしたことが契機との由。
この時のオーケストラメンバー達の要請によって、そのまま宇宿氏を指揮者とする「ヴィエール室内合奏団」として発足し、1971年1月に第一回定期演奏会を開催したとのことだが、第20回東西四連は同年の6月なので、ここに収録された演奏は、宇宿氏&ヴィエールとして発足間もない頃の演奏記録ということになる。
もしかして宇宿氏&ヴィエールの東京初お目見えか?
「コダーイ合唱曲集」
1)JELENTI MAGAT JEEZUS
2)RABHAZANAK FIA
3)FOLSZALLOTTA A PAVA
4)KIT KENE ELVENNI
5)KARADI NOTAK
作曲:Kodaly Zoltan
指揮:木下 保
この第20回東西四連の中では最も度肝を抜く演奏と思う。
ハンガリー大使館の協力を得て、コダーイの原語歌唱に挑戦している。
この時代にマジャール語の発音を知ることは、現代に比べれば格段に難しかったであろうし、この攻めの姿勢には敬服する。
この演奏以降、方々の合唱団が原語によるコダーイを採り上げているが、原語であるかどうかはともかくとして、これほど強気なコダーイは他に聴かない。
また人数的にも恵まれていたのではないか。聴いた感じでは70名はいたような感じである。
木下保氏がまさに手兵・慶應ワグネルを引き連れての硬派な音楽である。
山古堂主人の記憶では、確か1960~1970年代初の頃に東欧ブームとも言うべきものがあったような記憶があって、チェコやハンガリーの文化が様々に日本に紹介されていたのではないか。
ハンガリーについても、かの国の舞踏団や民族楽団が来日していたように記憶している。
さて、このコダーイの演奏の基礎をなす慶應ワグネルの発声こそ、「これぞワグネル・トーン」であって、1980年代の「良く言えば重厚/悪く言えば鈍重」とは異なるものである。
端的に言えば母音の響きが統一され、その上で口の動かし方が的確で速い。
また、母音の響きそのものも、同志社とはまた異なる咽頭共鳴のポジションで全パートがしっかりとした芯を鳴らし、それが倍音を呼び込んでいる。そして、上記のようなことを個人レベルではなく、合唱団として可能としているのである。
聴きようによっては発声に耳を奪われ、一本調子の演奏と感じるかも知れないが、日本においてこういう発声で統一された合唱団を作り上げるには相当の訓練を必要とするのであって、それを理解した上で、発声も含めてコダーイの音楽を楽しむのが正道である。
慶應ワグネルは第24回東西四連でもコダーイを取り上げており、この第20回東西四連とセットで名演とされている。
なお、東西四連の演奏記録を聴く限り、最も完成された「ワグネル・トーン」は第23回、第24回あたりで、この第20回東西四連の年に1年生だった世代が大いなる飛翔を遂げる(陳腐な表現ですいません)、ということになる。
・・・但し第21回東西四連の項で後述するが、翌年になるとどうもまとまらない合唱をやっているので、この1971年度には特に優秀な歌手が揃っていたという可能性もある(笑)。
もしそれが事実なら、それは学生団体の宿命というものである。
「Seven Beatles Numbers」
1)Day Tripper
2)Here There and Everywhere
3)Girl
4)Ob-la-di, Ob-la-da
5)Michelle
6)Eleanor Rigby
7)Yesterday
編曲:宮島 将郎
指揮:北村 協一
Cemb:塚田 佳男
ポップス編曲物で1ステージ組んだのは、東西四連では初ではないか。
この年の関西学院は、レコードジャケット解説によると「(Beatlesの)4人で演奏されたものを男声四部合唱に編曲し、チェンバロを加えて30余名でまとめようという試み」ということである。
この12年後に160人時代が来るとは誰も予想し得なかったであろう。
前年にはやや粗めの演奏をしていた関西学院だが、この年はいつもの関学クオリティを取り戻し、速いパッセージでもスローテンポでも「なるほどね」という演奏(笑)。
2曲目でカルテットが上手側でリードするのだが、これがマイクの収録範囲から外れ、遠くで聴こえてしまうのが非常に惜しい。
これらの編曲のうち「Eleanor Rigby」を除く6曲は、8年後の第48回リサイタル(1980/1/27)において学生指揮者・広瀬康夫氏によって再演されており、そのライブレコードのジャケットにある名簿によれば、94名による演奏となっている。
なお、この宮島将郎氏の編曲による「Beatles Number」は、東京六大学合唱連盟第52回定期演奏会(2003/05/05、東京文化会館)にて慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団によって蘇演された。
このステージを指揮したのは学生指揮者の仲光甫氏/2004卒(愛称ステーヴ、山古堂専用愛称はロバート)という大変ユニークな傑物で、知識も実行力もあり、人数の激減した昨今の慶應ワグネルでは救世主と言って良く、慶應ワグネル常任指揮者・畑中良輔氏の信頼も厚く、間違いなく慶應ワグネルの歴史に残る人物と思うが(誉め殺し?)、彼の趣味のおかげで東京では32年振りに演奏された。
「Missa O Magnum Mysterium」
1)Kyrie
2)Gloria
3)Credo
4)Sanctus
5)Benedictus
6)Agnus Dei
作曲:T.L. de Victoria
編曲:皆川 達夫
指揮:濱田 徳昭
1967年度から1971年度まで早稲田グリーを指導された濱田徳昭氏の、東西四連では最後の演奏である。
濱田氏が在任中に取り上げた演目は下記の通りで、9ステージ中7ステージが欧州の宗教曲へと傾斜していることが分かる。
<1968年>
「DEUTSCHE MESSE D872」
F.Schubert
17回東西四連
「MESSE SOLENNELLE」
Albert Duhaupas
16回定演
<1969年>
「コダーイ合唱曲集」
18回東西四連
「MASS FOR 3 VOICES」
William Byrd
17回定演
<1970年>
「合唱のためのコンポジションIII」
19回六連
「MISSA Aeterna Christi Munera」
G.P.da Palestrina
19回東西四連
「Missa C-Moll」
F.Liszt
18回定演
<1971年>
「Missa O Magnum Mysterium」
T.L. de Victoria
29回東西四連
「REQUIEM in D-Moll」
L. Cherubini
19回定演
上記の演目にいくつか含まれているルネサンス期のポリフォニーは、各パートが音質・音量・歌唱法とも均質・対等であること、そして刻々と変化する和声を純正調で組み上げることが要求される。
またロマン派音楽においては様々に音価を変えた対位法が低声系に顕著になるので、必ずしもルネサンス期の奏法が合致せず、むしろ独立した動きを顕在化させた方が良い場合もある。
いずれにせよ「良い耳」と「柔軟に対応可能な楽器」、そして「共通した音楽センス」の涵養が必要である。
かような視点によって、濱田氏は早稲田グリーの音楽的な基盤を最構成しようと意図されたものと推察するが、実際にそれを達成するには、特に唱法においては指揮者だけではなく技術スタッフの総合力を必要とする。
結論から言えば、これまでのミサに比べて完成度が上がっている。
それは終止和声の座りの良さであり、パート間の連携であり、パート間の力学的な対等感である。
しかし、未だギクシャクした部分が残っているのも事実である。・・・録音を聴いて感じたことを率直に記すので、客席で聴いていたなら恐らく感じなかったであろう事もあり、当時現役であった方々からすればとても嫌な言い方に聞こえるとは思いますし、そのような感想を持たれた方にはお詫び申し上げます。
1)つまるところ、濱田氏の指導に対して早稲田グリーがどういうスタンスであったのか、というのが濱田氏常任時代の前期と後期で異なるように感じる。前半では濱田氏と一体となり、これまでに馴染みの薄い演目を以って演奏レベルの建て直しを図ろうと言うことで、演奏に一つの方向性が見えるが、後半では濱田氏と早稲田グリーと欧州宗教曲(指揮者と合唱団と演目)の一体感が見えず、言わば「コンクールの課題曲」に聞こえてしまう。
2)例えば終止形の和音などで、和音を合わせようと言う集中力が前面に出てしまうため、その和音に入る前に躊躇というか溜めというかがあって、それまでの音楽の流れから独立した音として聴こえることが多い。何故和音を合わせに行くことにそこまで留意するのか・・・それは和音を合わせることについて練習中にしつこく注意されていたからではないか。或いはパート内のピッチや響きに、僅かながらも常に不揃いが生じていることも、ルネサンス・ポリフォニーには致命的である。
これらの主たる原因は、発声の基礎としての「母音が統一されていない」ことであると山古堂主人は確信しており、これは1960年代後半から現代に至るまでの早稲田グリーのアキレス腱である。
以下「母音の統一=純化」に関する脱線、ならびに山古堂主人が現役時代にも何も出来なかったが故の慟哭でもある。
現在も演奏活動に携わっている全ての早稲田グリー現役及びOBに申し上げたい。
1960年代後半から現代に至るまでの早稲田グリーの演奏で最大の難点は、母音が統一されていないことである。
この点はいつか記さなければならないから思い切ってここで記すが、早稲田グリーの演奏では妙な母音がたくさん聴こえてくる。日本語として基本的な5つの母音でも;
「i」:平べったい者、uウムラウトに近い者、強声でeに近い者、
「e」:aに近い者、何とoに近い者、平べったい者
「a」:oに近い者、平べったい者
「o」:aに近い者、何とoウムラウトに近い者、弱声でuに近い者
と様々で、「u」に至っては絵にも画けない不揃いであり、特にここ3年間の現役の「u」は既に多くの方も指摘している通りで、問題外の外である(あえて図に描けば下図の通り)。
「その母音がフィン語やドイツ語の時に使えれば最高なのに」みたいな母音を平気で邦人の作品に使う。そしてそういった母音がフィン語やドイツ語の歌で再現性がないのは言うまでも無い(笑)。
母音の発音時、頬や舌や咽頭のポジションによって音程も多少上下するから、母音が揃わないことと音程の振れとの相乗効果で、パートソロや和音が内部崩壊する。これでは倍音も鳴らない。
母音を純化させ、曲中で適切に当てはめること。簡単なようで全然出来ません。
山古堂主人は大学3年の時にこの問題に気付き、未だに苦戦中であります。これは顔から口腔・舌・咽頭、そして呼吸に至る諸々の筋肉の微調整の上に成り立つ「声楽の基礎」であって、そもそも意識しなければ出来るはずも無いことである。
こういう問題が生じて「いない」のは、録音を聴く限りでは1965年より前の早稲田グリーの演奏であり(言い換えれば稲門グリーの音色とも言える)、逆にそれ以降、現代に及ぶまでこの問題が延々として解決していない。
どういうことか?
こういう基礎的な概念が導入されていない結論はただ一つ、こういったことについて指摘し調整するヴォイス・トレーナーの不在である。
その不在を、不思議なまでに毎年入団する美声の数名がカバーしてしまうから問題が顕在化しにくい。
大久保昭男氏の母音を揃える手法こそが至高のものだ、と言うつもりはない。特に「u」を「o」に近くして揃える方法には賛否がある。
しかし、大久保氏の指導する合唱団はいずれも、その合唱団の特徴を残しつつも母音はきちんと揃っていて、パートソロも乱れにくく、従って四声の価値がほぼ均等になってくる。
当然倍音も鳴るし、ポリフォニーも整頓して聴こえる。
これすなわち母音の純化という概念が頭の片隅に置いてあるかどうか、に他ならない。
この問題を乗り越える即効手段はただ一つ、母音の不揃いなんかぶっ飛ばす「魂の演奏」をすることと、そういう演目を選曲することです。
でもそんな演目で定演4ステージは組めないと思いますが。
誤解無きように再度記しますが、上記の指摘は早稲田グリーの現役の皆さんに限らない、過去30年間の早稲田グリーに当て嵌まる話です。そして現代においてはプロ歌手・プロアナウンサーを含め、日本中に蔓延しつつある話です。
そういうことでプロ声楽家ですら、まともな母音で歌えない時代ですが、出来るだけきちんと母音の純化を教えられるヴォイス・トレーナーを据えて下さい。
大丈夫、母音を揃えたくらいで早稲田グリーの特色が失せることなんかありませんから。>現役の皆さん。
ついでに、ベルカントとは何ぞや?
ベルカントは母音を純化することと、呼気の調整に応じて柔軟に声量=響きを変化させることの上に成り立ち、そして何より開放的なイタリア語を最も美しく歌うための歌唱法である。
アクートを鳴らせればベルカントだなんて話ではないし、ましてベルカント=大声量じゃ無いよ。確かに古来のベルカントではまず「ありったけの声を出す」ことから始めるが、それと同時に進められる訓練は「母音の純化」です。
従い、早稲田グリーはベルカントではない。
「いや、早稲田グリーは(俺は、じゃないよ)ベルカントだ」と仰る方がおられるなら、その論旨とベルカントの定義を是非御教示願いたい。
長々と脱線、失礼しました。
「Hymne An Die Musik(音楽への讃歌)」
作曲:Lauchner
指揮:木下 保
実演わずか6分足らずだが、恐らく人数も多かった慶應ワグネルが核となっているからか、そして木下保氏が音楽を造り込んでいるからか、骨格のしっかりした、そしてずっしりと密度のある演奏。
合同演奏のクオリティを上げる、という第10回東西四連で打ち出した方針については以前述べたが、その後の合同演奏を見ると、演目の選定としてはむしろ「四連合同だから出来る曲」という方向性がある。
この第20回東西四連における合同演奏は、改めて演奏のクオリティを真正面に据えたとの印象が残る、好演である。
また、間違いなく大久保昭男氏の指導が効いている。ということは即ち、低声系において、発声に意識が行ってしまうが故の奏法の硬直性が出ているように聴こえる。
<第21回東西四大学合唱演奏会> 1972/07/02 大阪フェスティバルホール
早稲田大学グリークラブ事務所に保管されていた、レコード用オープンリールマスターのオリジナルコピーによる。この高音質はまさに2トラサンパチ(2トラック・テープ速度38cm/秒)の威力である。マスターテープを発掘した後、レコードを聴く機会にも恵まれたが、やはりオープンリールの音源を採用することとした。
収録は残響が少ないオンマイクで、この時期の録音の特徴として舞台左右ウィングの音があまり拾えていないから、ややベースが薄く聴こえる。客席ではきちんとホール鳴りとベースの響きが聴かれたはずである。
慶應は、前年の演奏に引き続いての強気の歌唱。この時期の塾歌の特徴としてmarcatoで歌っているのだが、テナーを中心に数名、胸から上の準備をせずに息の勢いだけで声を押し出す人がいて、歌い出した後の支えが無くて声に震えが来たり音程が上下したりするが、これはエール交換特有の気負いか? 低声系はかなり安定している印象。
同志社は、録音で聴く限りの推定で40名を割り込んでいる? かなり少ない印象。録音でも同志社だけがステージマイクのゲイン(録音ボリューム)を上げており、マイクに近づいて歌っているように聴こえる。
歌唱はしっかりしているが1960年代からすると合唱の薄さは否めない。
早稲田は、正直に言ってしまえば「水を得た魚」。指揮者と合唱団と演目(笑)が一体化し暴走しかかっている。
関西学院は、低声系が「あのベース系」への道を着々と歩んでいる一方、テナー系のまとまりが今ひとつで、少々気負っている感じがする。
・・・やはりエール交換には魔物が棲みついてます。
「JAGD LIEDER」
1)Zur Hohen Jagd
2)Habet Acht!
3)Jagdmorgen
4)Fruehe
5)Bei der Flasche
作曲: R. Schumann
指揮: 木下 保
Horn: 慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラ
慶應ワグネルが東西四連でこの「Jagdlieder」を3回取り上げていることは第14回東西四連の項でも記した。この第21回東西四連はホルン4本付き、オリジナル譜の指定通りである。
演奏は「オーバーロード(過積載)」というのが率直なところ。
もともとシューマンやメンデルスゾーン、シューベルトの男声合唱曲はかなり高音寄りに書かれており、加えて早口で言葉数が多く、跳躍音形も多いから、声を薄く使わないと大変しんどい。
せっかく前年に見せたワグネル・トーンも、「Jagdlieder」の前では弱点を露わにしたか、という印象。特にテノールは聴いていてとっても大変。和声ももう少し精密さが欲しい。ちょっと狩ではなくてマタギかな(爆)
それとワグネル・オケさん。もう少しちゃんと吹いてよね(笑)
合唱のための「三つの抒情」(男声版初演)
1)或る風に寄せて(立原 道造)
2)北の海(中原 中也)
3)ふるさとの夜に寄す(立原 道造)
作曲:三善 晃
編曲・指揮:福永 陽一郎
Pf:笠原 進
1970年代前半は、同志社にとって苦難の時代と言われている。
特にこの時期は人数の急激な減少に悩まされ、技術顧問の福永陽一郎氏が苦肉の策・あるいは開き直りとして、この「三つの抒情」や、翌年の第22回東西四連でA.Caplet「三声のミサ」を取り上げる等、選曲にも影響が現れている。
また、福永陽一郎氏の体調もあまり良くない時期であったようだ。
演奏は、まずピアノの笠原氏が素敵なピアノを聴かせていて、これは三善晃氏の作品においては非常に重要なポイントである。
また、少人数と言えどもきちんと旋律を歌いかけて来る同志社のキャラクターが、この演目では特に印象に残る。
そういうことで、まず1曲目の出来が良い。
2曲目は的確にディクションと子音の処理をすれば、あとは作品の方で歌ってくれる曲なので、そつ無く仕上がっている(四連レベルで「そつ無く」ってことよ)。3曲目はテンポがやや工夫に乏しい感じがあって、全体的に遅めでアゴーギグも抑制されているが、これは女声ならば是とするが男声ではやや平板に聴こえるかも知れない。
やはり3曲目は女声の曲であるか。
それに男声だと「いまは 嘆きも 叫びも ささやきも ~」の無色の表現や、「とほくあれ 限り知らない悲しみよ にくしみよ ~」以降一連の言わば熱を持たない感情の高ぶりが、どうしても汗臭く(笑)なってしまう。
それと、少人数ゆえか、旋律と関係なく不用意に鋭い子音を発音する人が何人かいる。これはある意味で男声合唱の永遠の課題である。
それにしても、自由律ソネットの詩とあいまった名曲です。
1970~1980年代の合唱コンクール全国大会では、名だたる高校女声合唱団によってこれでもかと言うほど「三つの抒情」が歌われているが、山古堂主人としては1979年の浦和第一女子高校が歌った「ふるさとの夜に寄す」には特に感銘を受けました。
後年いくつかの男声合唱団がこの男声版「三つの抒情」を取り上げているが、当方の聴いた数少ない演奏の中では早稲田グリー第33回定演(1985、指揮:新井康之
(学生指揮者)/Pf:池谷玲子)の演奏が最も良いと思う。
最大の理由は3曲目のテンポ設定とダイナミクス設定の健康的なエロティシズム(爆)。
合唱による風土記「阿波」
1)たいしめ(鯛締)
2)麦打ち
3)もちつき(餅搗)
4)水取り
5)たたら(蹈鞴)
作曲:三木 稔
指揮:向川原 愼一(学生指揮者)
昨年までのミサに比べて、この躍動感たるや如何に(笑)。
学生指揮者であることも大きいとは思うし、濱田先生の御尽力によって得られた基礎的能力に、上手く演目が乗った、ということならとってもカッコ良いが、どう聴いても前年とは別物の合唱団である。
後述するように、一度舞台に乗せている演目であることも大きい。
やっぱり早稲田グリーは「野趣」です、とまでは言わないが、やや粗いところはあるものの躍動感と開放感がたまらない、という早稲田グリーの定石を押さえた演奏で、他団とは異なる芯のある低声系の発声もあり、歯切れが良い。
第20回四連の項ではかなり厳しい指摘をさせて頂いたが、他方で早稲田グリーの絶対的な美点はと言うと、
無い。
・・・嘘です。
簡単に記せば、「楽譜からどこまではみ出して演奏して良いか、その許容量ギリギリを攻められる団体」ということです。
だから、楽譜に忠実に演奏することで効果が上がるルネサンス・ポリフォニーより、奏者がどういうパフォーマンスを見せるかで評価が決まる近現代の作品、特に日本語の作品に強いのは当然です。
何か頭悪い人たちみたいに読めますけど、実は頭良くなきゃ出来ないんですよ、これ。
だって合唱団員個々の表現の自主性が問われるんですから。
(蛇足ながら1965年以前は、上記に加えて母音の統一感と指先まで神経の行き届いた、敵無しの演奏が出来ていたように思われます。)
なお、早稲田グリーはこの年の4-5月に米国ニューヨークで開催された第3回世界合唱祭に招聘され、この「阿波」や「五木の子守唄」等の日本民謡を披露している。
また、この年から4年間、音楽監督として小林研一郎氏を迎え、初年度の定演でいきなり東京交響楽団との共演で三木稔「レクイエム」全曲を演奏している。
「Sea Shanties」
1) Swansea Town
2) Haul Away, Joe
3) Blow The Man Down
4) What Shall We Do With The Drunken Sailor
5) Low Lands
6) Whup! Jamboree
編曲:R. Shaw
指揮:北村 協一
低声系のパートがポジションを換えずに高音部まで駆け上がってしまうというのが、関西学院の伝統であり驚異の一つであるが、1曲目「Swansea Town」でその威力が遺憾なく発揮されている。
発声の方向としては完全に1980年代の「あのベース系」であり、テナー系にもう少し逞しさが欲しいところ。
北村協一氏の演奏する「Sea Shanties」は、黒人霊歌にも通ずるところがあるが、基本的には切れの良さを前面に押し出したリズム重視のスタイル。ただ、そのスタイルをどの合唱団も出来るかというと決してそうではなく、やはり関西学院のようにきっちり仕込むことの出来る合唱団があってこそである。このスタイルがまた揶揄される対象になりがちなのだが、人それぞれの好き嫌いはあろうとも、一つのスタイルとして認められるものでしょう。
また脱線。いずれもっと詳しく書くことになるでしょうが、黒人霊歌なりシーシャンティーなりの演奏にあたって、北村氏&関学グリーのスタイルに否定的な見解を示す方がおられる。単に好き嫌いの話なら、山古堂主人も何も言わないし、そういうことはあってしかるべきでしょう。
ところが何をどこまで調べて言っているのか、「北村氏&関学グリーのスタイルは誤っている、本来の黒人霊歌/シーシャンティーに鑑み、演奏はこうあるべきだ!」みたいな御高説を述べられている方を、特にお若い方をいろいろなところでお見かけするのである。
そういう方には一言申し上げたくなってしまう。
「本来の黒人霊歌/シーシャンティー」って何だ? と。
そしてそういう「本来の黒人霊歌/シーシャンティー」と、R.Shawなどによる原型を留めないデコレーション編曲(山古堂PAT.PEND)との間に、一体どんな相関を持たせれば成功だというのか、と。
ついでに言うと、本来の黒人霊歌と現代に流行しているゴスペルとは、奏法も目的も全然違いますからね。(現代のゴスペルについてもいろいろあるが割愛。)
本来の黒人霊歌/シーシャンティーについても言い出すと切りが無いし、Webに掲載するには知識も充分ではないからとりあえず割愛するが、日本の曲に置き換えて言えば分かりやすいのではないか。
オリジナルの姿をほとんど留めていない男声四部合唱編曲の「最上川舟歌」や「斎太郎節」や「アイヌのウポポ」を歌うのに、西洋記譜法になじまないオリジナルの地歌の旋法や唱法を持ち出して「本来の演奏はこうあるべきだ!」と言うかね。
言ったとして、それを西洋風の合唱演奏の中でどう歌い込めと言うの(笑)。 そもそも上記の曲の「オリジナル」を聴いたことがあったら凄いです。NHK喉自慢で歌われるような「斎太郎節(大漁唄いこみ)」だって、仙台の漁民の歌から遥かに遠く、洗練されて定型化し西洋音階に移植されているし、最上川舟歌も観光用に復活しているが、あれが明治以前に土着の民俗歌謡として歌われていた旋法・唱法の通りなのかどうか、確かめようが無い。アイヌ音楽に至ってはオリジナルが明確に存在し、それと「アイヌのウポポ」には音楽的な隔たりがあまりにも大きい。
以上、ちょっと難しく言えば、現代文化としての音楽技法によってメタファーとして固定化された過去の文化は、もはや現代文化そのものでしかない、というのが山古堂主人の持論。というか、この点は「山」と「古」でも良く議論され、山古堂本舗としての持論でもあります。
ということで、黒人霊歌を歌うのに本来的にはゴスペル風であるべきだ、なんて寝言には聞く耳を持たない。
ということで、山古堂主人は余計なことを考えず、いかに美味しくデコレーション編曲(山古堂PAT.PEND)をいただくかに専念します。
それと編曲者のR.Shawについても、書いたら長大になりそうなので項を改めます。
1) 歌劇「フィデリオ」より 囚人の合唱
作曲:L.V. Beethoven
2) 歌劇「さまよえるオランダ人」より 水夫の合唱
3) 同 幽霊船の合唱
作曲:R. Wagner
Pf編曲:福永 陽一郎
指揮:畑中 良輔
Pf:1st/伊奈 和子
2nd/福永 陽一郎
第16回東西四連の合同演奏「さまよえるオランダ人」を再演している訳だが、前回とは大きく異なり、ちゃんと聴ける(爆) いやあ、5年間で立派に成長しました。この背景には発声レベルが全般に向上したことがあろうし、またこういう演目に対してどうアプローチするかという方法論も、学生に分かって来たのかも知れない。そういうノウハウの蓄積は、実は大きいのである。ワーグナーは音域が高いし半音階で難しい旋律だし、専用の体力(笑)も要るから、粗い部分があるのはどうしてもやむを得ないのだが、それでも第16回東西四連のように気合が空回りしているということは無く、最後まで声を出し、歌い切っている。
客席で聴いていたら、さぞ迫力があったことと思う。
福永陽一郎氏がピアノを引き受けておられるのは、第16回東西四連の合同演奏以来二度目で、これが最後である。
・・・早慶に特化した話題なので、つまらないと言う方もおられるかとは思いますが。
改めて指摘されると関係者も「へ?」と思うようなことがあります。
例えば、大学の「応援歌」で、その歌詞に他校の名前を入れているケース。
実例としては慶應の「我ぞ覇者」と早稲田の「光る青雲」ですが、考えたら結構スゴイことではありませんか。
早慶以外にもあるのかしら?
慶應「我ぞ覇者(作詞:藤浦洸:作曲:古関裕而)」 (1946)
<4番> 好くぞ来たれり 好敵早稲田 天日の下にぞ 戦わん 精鋭我にあり 力ぞあふれたり おお 打てよ 砕け 早稲田を倒せ 慶應 慶應 慶應義塾 叫べよ高く 覇者の名を
早稲田「光る青雲(作詞:岩崎巌、作曲:古関裕而)」 (1947)
<4番> 希望の杜かげ みどりの夢よ 競ふ青春 誇りの歌よ 慶應倒し 意気あげて この喜びを 歌はうよ 早稲田 早稲田 早稲田 早稲田
1903年に早稲田野球部が先輩格の慶應野球部に挑戦状を叩き付け、結局慶應が11-9で勝って以来の早慶の間柄ですから、運動競技は勿論のこと、例えば「早稲田文学」と「三田文学」など、何に付けても早慶で鎬を削って来ました。応援歌も例外ではなく、「作歌合戦」も熾烈でございました。
応援歌にしても校歌にしても、慶應が作れば早稲田が追いつき追い越し、それがまた慶應を刺激する、と言うことで、その為の作曲家の選定も一時は奪い合いで大変でございました。
30代以上の方なら御存知、「家族対抗!歌合戦」の審査委員長であらせられた古関裕而氏などは、まさに引っ張り凧だったようで。
年表のようにまとめてみましょう。
まずは早慶の学校創立から。
1858 福澤諭吉、蘭学塾を創始 1868 蘭学塾を慶応義塾と改称 1882 大隈重信、東京専門学校創立 1902 東京専門学校を早稲田大学と改称
早慶ともに学問の場の創設ということでは一緒ですが、ごく簡単に言えば慶應は有志エリートから日本を支える者を養成する、早稲田は広く民衆からリーダーを養成する、ということで、創設の目的がやや異なります。中学校の歴史のテストで出るかも知れませんよ。
次いで、運動競技と歌の相関を見てみましょうか。
1901 慶應義塾ワグネル・ソサィエティー創立(当時は器楽声楽の区別なし) 1903 野球の早慶戦開始(慶應が11-9で勝ち) 1904 慶應 :旧塾歌制定(作詞:角田勤一郎、作曲:金須嘉之進) 1905 早慶レガッタ開始(何と挑戦者の早稲田の勝ち) 1906 早慶戦野球の応援過熱への憂慮から、全競技での早慶対抗試合を中止 1907 早稲田:校歌制定(作詞:相馬 御風/作曲:東儀 鐵笛) 1907 早稲田大学グリークラブ創立(当時の名称は音楽会声楽部)
慶應・早稲田とも、音楽団体の創立以前から一部学生による音楽活動のあったことが確認されており、「創立年」は言わば後付けです。
以前SPの項でも記しましたが、慶應の旧塾歌は、歌詩に高邁な言葉を散りばめつつも、基本は塾祖礼賛とその後継者たる学生の自負という、あえて言えば「私的」な内容を伝統的な七五調で表現し、旋律は6/8拍子(正確には4/4拍子で付点八分音符+十六分音符の連続)の「もしもしカメよ」的な唱歌風で、まさに学生が口ずさむことを前提とした歌でした。
一方早稲田の校歌は八七調で硬く、歌詞も後述するように「公的」な意味合いを前面に出し、旋律も高音の連続や上行音形の最後を長音符にするなど、溌剌さと威厳を持たせようということで、学生愛謡歌というよりも式典歌、歌う者を厳粛な気持ちにさせ、精神を引き締めるような方向で作られました。
この方向がうらやましかったのか(笑)、そのうち慶應は「学生OBの集う場で、人心を鼓舞するような力ある塾歌が欲しい」と言う要望が出て、最終的に1940年、現在の塾歌が新作制定されました。
さあ、所謂「応援」なるものの形式がだんだん整ってきます。
1922 ラグビーによる早慶対抗戦開始(早慶対抗試合の復活) 1925 東京六大学野球リーグ開始(早慶戦野球の復活) 1927 東京六大学野球リーグ戦のラジオ実況放送開始 1927 早稲田:旧第一応援歌「競技の使命(作詩:五十嵐力、作曲:山田耕筰)」 1927 慶應 :応援歌「若き血(作詞作曲:堀内敬三)」 1928 慶應 :学生歌「丘の上(作詞:青柳瑞穂、作曲:菅原明朗)」 1929 初の天覧早慶戦(慶應が12-0で勝ち) 1930 早慶レガッタの復活 1931 早稲田:応援歌「紺碧の空(作詞:住治男、作曲:古関裕而)」 1940 慶應 :新塾歌制定(作詞:富田正文、作曲:信時潔) 1943 学徒出陣、「最後の早慶戦」
東京六大学野球が始まると、単に早慶での勝った負けたではなくて、リーグ優勝が掛かります。
で、当時黄金期でもあった慶應野球部が、1927/昭和2年作の「若き血」を引っさげて1930/昭和5年までの4年間で数度の優勝を含む好成績を挙げ、一方早稲田はというと5位あたりを低迷している。
これではいかん、と当時若干21歳の古関裕而氏を抜擢して作られたのが早稲田第六応援歌「紺碧の空」。
この完成披露となった1931/昭和6年から、今度は早稲田が優勝を含む好成績を挙げるようになったというので、「紺碧の空」を第一応援歌に昇格させちゃった。
やはり、歌は人心を鼓舞するのですな。
ついでに、応援歌というよりは学生歌の慶應「丘の上」などは、これを歌った1928/昭和3年の秋季リーグで十戦十勝したものだから、その後は試合で勝った時だけ歌うことにしたりする(=でも歌う機会はたくさんあるんだよ、という自信がたまりません)。
大正から昭和30年代まで、早慶戦の人気はまさに絶大なものでした。特に野球は学生スポーツの枠を超え、まさに大衆娯楽となっていました。往時の写真を見ると観客の数と層に驚きます。
早慶戦野球において応援や試合後の喧騒が球場の外にまで及び、慶應が勝てば早稲田総長宅前まで押しかけて「慶應万歳!」と叫び、早稲田が勝てば慶應塾長宅前で「早稲田万歳!」と叫ぶ、あるいは試合後に銀座へ繰り出して粗相に及ぶ、等々といったこともあり、早慶首脳の決断によって全競技での早慶対抗試合が中止となった期間もあります(1906-1921。野球は1925年の東京六大学野球リーグに含まれる形で復活)。
1933年には「リンゴ事件」というのがあって、詳細はこれもWeb検索でお調べ頂ければ沢山出てきますが、要は、いろいろ伏線はありますが9回表、慶應の水原三塁手(後にプロ野球入り、巨人軍監督)に早稲田の応援席から食べかけのリンゴが投げつけられ、それを水原選手が応援席に投げ返したら早大生の顔に当たった、しかも9回裏に慶應が逆転勝ちをしたことから、試合後に早稲田応援団(応援部が主導する応援集団の意か)の一部が興奮してグラウンドや慶應応援席になだれ込み、慶應応援部の指揮棒を奪い取るなどした、というものです。
結果、この事件の責任を取って、早稲田応援部は一時解散、慶應の水原選手は自主退学、ということに。
早慶戦の汚点として語り継がれていますが、それほどに熱狂する対象でもあった、という証左であります。
また、この事件後、早稲田は1塁側、慶應は3塁側に応援席を設け、棲み分けるようになったとのこと。
更に1960年秋、リーグ優勝のかかった早慶6連戦(リーグ戦3試合+優勝決定戦3試合、結局早稲田が優勝)では、6試合の総観客数が約35万人! 早慶交歓演奏会を6日続けても、その百分の一くらいしか動員出来ないような気が(笑)
そんな早慶戦ですから、早々とラジオ中継が始まったのもうなずけます(日本のラジオ放送は1925年の開始、スポーツ中継としては1927年7月の高校野球・甲子園に次いで2件目)。
昭和初期に販売されていた校歌や応援歌のSPも、ラジオ放送で流れたことも手伝って、恐らく相当な枚数が販売されたと推測されます。
今でもちょっとしたSP専門店に行けばたいてい何枚か置いてあります。
1943/昭和18年、敵性競技たる野球やテニスといったスポーツの自粛を強要され、学徒出陣も始まった中で、慶應より申し入れがあり、「最後の早慶戦」が開催されます。
試合後、慶應側は早稲田大学校歌を、早稲田側は「若き血」を、そして全員で「海ゆかば」を唱和したとのことです。
そして、戦後。
1946 慶應 :応援歌「我ぞ覇者(作詞:藤浦洸:作曲:古関裕而)」 1947 早稲田:応援歌「光る青雲(作詞:岩崎巌、作曲:古関裕而)」 1952 早稲田:学生歌「早稲田の栄光(作詩:岩崎巌/西条八十補作、作曲:芥川也寸志)」
戦後いち早く復活した大衆娯楽、東京六大学野球。
この蔭には、太平洋戦争中も大量のボールやバットを保管して「夢と一緒に」戦火から守り抜き、終戦すぐに六大学の全球団に分配した早稲田野球部の逸話もありますが、それはともかく慶應がいきなりライバル校の名前を入れた応援歌「我ぞ覇者」で攻めてきたから驚きです。
反則です。
そして文字通り「画期的」です。
それも古関裕而氏が戦前に作曲した早稲田応援歌「紺碧の空」の出来が良かったからと、同じ古関氏に作曲してもらったりしている。
しかも慶應がリーグ優勝しちゃった。
さあ、早稲田もハムラビ法典の教えに従って「目には目を/歌には歌を」です。
翌年には応援歌「光る青雲」で対抗します。
その作曲家はウチが本家とばかりに古関裕而氏。
この一連の流れがマニアにはたまりません(笑)
これで戦前のように応援が過熱したらタダじゃ済みませんが、そこは早慶もオトナになったということでしょう、この歌合戦が元で暴動が起きたという話はありません。
なお、両校とも、応援歌「我ぞ覇者」「光る青雲」の歌詞にある「早稲田」なり「慶應」なりは、試合に際してその時々の対戦先の学校名を入れる、という指示に一応なっています。
だから「光る青雲」は早明戦ラグビーならば「明治を倒し意気上げて/この喜びを歌おうよ」となるし(本当)、女子なぎなた大会で聖心女子大と対戦する時は「聖心倒し意気上げて/この喜びを歌おうよ」となります(本当?)。
戦後7年経って、慶應「丘の上」の如き学生歌がやっと早稲田にも出来ます。
「早稲田の栄光」。
これまた試合に勝った時だけ歌うという扱い。
この歌は4/4拍子で普通に1拍目から歌い出すような楽譜なのですが、早稲田グリーでは伝統的に1拍前倒しにして4拍目で入り、弱起ベースのスローバラードで歌います。
その結果サビの前で3/4拍子をはさみ、サビは譜面通りという変則になりますが、一向に気にしません(笑)。
ですが、改めて応援歌集のレコードなどを聴くと、楽譜通りに1拍目から入ってやや行進曲風に歌うのもなかなかカッコ良いものです。
他校は存じませんが、早稲田の場合はもう1曲、勝った時だけ歌うというのがあります。
早稲田大学ラグビー部「荒ぶる(作詩:小野田康一、作曲:早大音楽部)」です。
この「勝った時だけ」は強烈で、単に相手に勝った時ではなくて全国制覇した時だけ、というからスゴイ。
さすがに毎年聴ける歌ではありません。
以上、運動競技も歌も、慶應が先行して早稲田がそれを超えようとする、というのが基本的な構図です。
早稲田の方からエポックメイキングの応援歌が出るのは、1965/昭和40年の「コンバット・マーチ」(歌か?)を待つことになります。
以下、山古堂主人の所蔵する早稲田ソングの音源です。
■校歌
早稲田大学校歌
相馬御風作詩/坪内逍遥校閲/東儀鐵笛作曲、明治40年制定
■応援歌
敵塁如何に
作詞不詳、日清戦争の頃の軍歌「敵は幾万ありとても」の替え歌、明治38年
競技の使命
戦前の第一応援歌、五十嵐 力/作曲:山田 耕筰、昭和2年作
天に二つの日あるなし
戦前の第三応援歌、作詩:西條 八十/作曲:中山 晋平、昭和2年作
大地をふみて
戦前の第五応援歌、小出正吾作詩/草川信作曲 昭和3年作
紺碧の空
戦前の第六/新第一応援歌、住治男作詩/古関裕而作曲 昭和6年作
仰げよ荘厳
長田幹彦作詩/杉山長谷夫作曲 昭和9年作
光る青雲
岩崎巌作詩/古関裕而作曲 昭和22年作、現在では第二応援歌と紹介されています
精悍若き
岩崎巌作詩/野村茂作曲 昭和25年作曲
輝く早稲田
早稲田大学グリークラブ作詩/阿部幸明作曲 昭和25年作
あの眉、若人
岩崎巌作詩/服部嘉香補作/古関裕而作曲 昭和27年作
永遠なるみどり
田中千恵子作詩/西条八十補作/古関裕而作曲、昭和33年作
燃ゆる太陽
佐伯孝夫作詩/吉田正作曲、昭和37年作
コンバットマーチ
三木佑二郎作曲、昭和40年作
吼えろ早稲田の獅子
永六輔作詞/中村八大作曲、昭和42年作
ビバ・ワセダ
牛島芳作詩/チャーリー石黒作曲、昭和51年作
早稲田健児~情けは無用~
青島幸男作詩/渡辺晋作曲、昭和53年作
早稲田自由の風が吹く
北川幸比古作詞/前田六郎作曲、昭和53年作
ザ・チャンス
タモリ作詩/岸田哲作曲、昭和55年作
■学生歌
早稲田野人の歌
与謝野鉄幹作詞/作曲不詳、明治41年?
逍遥歌
酒枝義旗作詞/平山嘉三作曲、大正9年? 高等学院愛唱歌
早稲田の栄光
岩崎巌作詩/西条八十補作/芥川也寸志作曲、昭和27年作曲
えんじの唄
多門冴子作詩/藤田雄次郎作曲、昭和55年作
早稲田の四季
星豊作詞/村上菊一郎・新庄嘉章補作/中村二大作曲、昭和47年作
■部歌
雄弁会:雄弁会音頭
作詞・作曲不詳/中村二大編曲、明治時代より歌い継がれる
ラグビー部:北風
川浪良吉作詞/スコットランドスクールソング、大正11年作
ラグビー部:荒ぶる
小野田康一作詞/早大音楽部作曲、大正12年作
グリークラブ:遥かな友に
磯部俶作詞作曲、昭和26年作
グリークラブ:輝く太陽
磯部俶作詞作曲、昭和28年作
■戦中歌
若き学徒の歌
早稲田大学選定/伊藤寛之作詞/池安延作曲、昭和15年作
■その他(居酒屋ソング含む)
早稲田でかんしょ節
作詞・作曲不詳、明治時代より歌い継がれる
早稲田おけさ
作詞・作曲不詳、大正8年より歌い継がれる
早稲田こゝに涙あり
秋月ともみ作詞/寺岡眞三作曲、昭和49年作
五万人節
作詞・作曲不詳
とことん節
作詞・作曲不詳
早稲田小唄
作詞・作曲不詳
早稲田すててこしゃんしゃん
作詞・作曲不詳
早稲田だんちょね節
作詞・作曲不詳
早稲田つんつん節
作詞・作曲不詳
上記だけで39曲ありますが、この他に戦前の第二応援歌「ああ若き日の血は躍る」(第四は縁起をかついで欠番です)A、通番なしの応援歌「見よや早稲田の健児」「ああ愉快なり」「玲瓏の天」「勝てよ早稲田」「怒涛の歓呼」「勝てり吾等」、戦後には「王者ぞわれ等」「ダイナマイト・マーチ」――何だかどれもこれも凄い曲名ですな――、昭和40年代の早慶共に低迷していた時期に作られた、早慶戦の試合前に両校合同で歌う「早慶讃歌―花の早慶戦―」、そして極めつけは大隈候生誕125周年記念祭歌、
「でかいぞ大隈」
(爆笑過ぎて腰痛になりそうです、聴いてみたい)もあります。
「人生劇場」も早稲田ソングでしょう。
居酒屋系の替え歌・春歌・詩吟(笑) ・エール交換(爆)に至ってはアマゾンの昆虫みたいなものでどれだけ変種がいるのか、良く分かりませんです。
ちなみにデジタル化作業チェックのために上記音源を一気に聴いた時は、どれもこれも「わせだッ、わせだッ」と何度も連呼するので終いには頭が痛くなってきました。
そうそう、慶應ワグネルの方々が仰るには「我が塾歌は、正しくは、酒の席で歌ってはいけない、塾旗を掲げて歌わねばならない」だそうです。
関西学院グリーも「Old Kwansei」「Song For Kwansei」「U Boj」を歌うときは直立不動・かかとを付けて歌わねばなりません。
その点「早稲田大学校歌」は披露宴で歌っても高田馬場で呑み過ぎて吐きながら歌っても良いのであります。
<参考文献>
●早稲田大学WEBサイト
●慶應義塾WEBサイト
●早慶レガッタWEBサイト
●レコードジャケット
コロムビア AL-121(1958年制作)鈴木紘輝先輩(1966卒)所蔵
ポリドール MI-1247(1974年制作)加藤晴生先輩(1962卒)所蔵
ミノルフォン/徳間音楽工業 KC-7102~3(1981年制作)加藤晴生先輩(1962卒)所蔵
なお、「ビバ・ワセダ」の作詩者でもあります故・牛島芳氏の著した「応援歌物語」(1979年、敬文堂刊、絶版)には、全ての応援歌について時代背景も併せて詳細に記されているようです。