<第10回東西四大学合唱演奏会> 昭和36(1961)/06/18 東京文化会館大ホール
現存する最古の東西四大学合唱演奏会の音源である。
オフィシャルのダイジェストレコードと、裏モノ(笑)のオープンリールの2つの音源があり、それらの相互補完によって、この第10回東西四連の全体像を9割方復刻させることが出来た。
以下、レコード/オープンリールのそれぞれの収録内容と解説など。
<レコード>ダイジェスト、東芝LRS 9/ステレオ
1.エール交換(関学・早稲田・同志社・慶應)
2.関西学院グリークラブ
「Messe Solennelle」より「Credo」
作曲:Albert Duhaupas
指揮:亀井 征一郎
3.早稲田大学グリークラブ
「ヘーガー作品集」より
1)In den Alpen
2)Totenvolk
作曲:Friedrich Hegar
指揮:山本 健二
4.同志社グリークラブ
男声合唱組曲「在りし日の歌」より
1)米子
2)閑寂
3)骨
作詩:中原 中也
作曲:多田 武彦
指揮:浅井 敬一
5.慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団
「MISSA MATER PATRIS」より
1)KYRIE
2)BENEDICTUS
作曲:Josquin Des Prez
編曲:皆川 達夫
指揮:木下 保
6.合同演奏
「枯木と太陽の歌」より
1)第2曲 花と太陽の会話
(テナー独唱:同志社4回生・中島英嗣氏)
2)第3曲 冬の夜の木枯しの合唱
3)第4曲 枯木は太陽に祈る
作詩:中田 浩一郎
作曲:石井 歓
指揮:木下 保
Pf:辻 敬夫、村主 一彦
現在のような「ライブ完全記録」でなく、1枚に収まるように演奏が抜粋されている。レコードの名称が「第10回東西四大学合唱祭記念レコード」とあり、 ジャケットは小磯良平画伯の描き下ろしで、四大学各校のイニシャルや一部団旗デザインまで取り込まれた抽象画である。東西四連として初のレコード作成であり、抜粋ながらも当時最新技術のステレオ録音ということで、レコードの盤質こそ40年前のものゆえノイズがあるものの、当時の演奏が悠然と湧き上がってくる。
大卒初任給が1万3千円程度であったこの時代(昭和36年)に、このレコードの販売価格は千円である。
現代の大卒初任給を18万円とするならば、単純比例で行けば1万4千円のレコードということで、当時の学生には易々と手が出せるものではなく、従って発売枚数も少なかったであろうし、現存し再生に耐え得るのはせいぜい20-30枚というところではないか。
この第10回は「一時は解散しかかった連盟がとにかく10年続いた記念」ということで、東芝に依頼してレコードを制作したが、高価な事もあって、毎年制作する、という話にはならなかったそうである。現実に、次にレコードが制作されたのが3年後の第13回東西四連で、これはモノラル・ダイジェストでありその翌年の第14回がやっとステレオ録音だがダイジェスト、第15、17、18回は制作されない、等となっており、第10回はあくまで記念カスタムレコードとの位置付けである。昨今のようにどんな演奏会でもCDが簡単に制作されるのに比べると、文字通り隔世の感、ということであろう。
今回の収録に際しては、まず早・慶・合同のオープンリールが見つかり、これの指揮者等の確認のために早稲田大学グリークラブOB会に連絡を取った際、この第10東西四連の抜粋による記念レコードが制作されていたことが判明した。そこでOB会に協力を仰ぎ、加藤晴生先輩及び辻田行男先輩(共に1962年卒、この第10回東西四連に4年生で出演)の御厚意でこの貴重なレコードを2枚お借りすることが出来た。このCDは、その2枚からスクラッチノイズの少ない部分を採用している。
その後、エール交換と関西学院のオープンリールが発見された(正確に言うならば、第15回東西四連との表書きなのに収録内容が第10回東西四連の一部だったのである)こともあり、今回の都合3枚組という形になった。
これより古い東西四連については、そもそも録音がされていない、とのことであった。
1950年代では民生用の録音機材自体が珍しい。
まさかレコード用のダイレクトカッティングマシンのような精密機械を演奏会場まで移動してアマチュア合唱団ごときのライヴ録音に使うなど、あり得ない話だし、かといってオープンリールはというと、海外製品は業務用の高嶺の花ばかり、日本初のオープンリールデッキが東京通信工業(現ソニー)から発売されたのが1950年で、大卒初任給が6千円の時代に16万8千円などというケタ違いの高値と20キロを超える重さであるから、買えないし、買ってもクルマでなければ運べない。1954年に発売されたポータブルタイプでも7万5千円と、やはり大卒初任給の半年分を超える。
そういう意味で、この第10回東西四連のオープンリールが、残念ながら同志社の単独ステージが紛失されてはいるものの、よくぞ割愛も無く収録され、保存されていたものだと感嘆しきりである。このオープンリールを録音した方々に敬意を表し、第10回東西四連についてはレコードとオープンリールの両方の音源をデジタル化し保全するものである。
演目や演奏の解説等は次のオープンリール版に記します。
<オープンリール>モノラル
1.エール交換(関学・早稲田・同志社・慶應)
2.関西学院グリークラブ
「Messe Solennelle」より
1)Kyrie
2)Gloria
3)Credo
4)Sanctus
5)Agnus Dei
作曲:Albert Duhaupas
指揮:亀井 征一郎
3.早稲田大学グリークラブ
「ヘーガー作品集」
1)In den Alpen
2)Schlafwandel
3)Walpurga
4)Totenvolk
作曲:Friedrich Hegar
指揮:山本 健二
4.慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団
「MISSA MATER PATRIS」
1)KYRIE
2)GLORIA
3)SANCTUS
4)BENEDICTUS
5)AGNUS DEI
作曲:Josquin Des Prez
編曲:皆川 達夫
指揮:木下 保
5.合同演奏
「枯木と太陽の歌」
1)枯木は独りで歌う
2)花と太陽の会話
(テナー独唱:同志社4回生・中島英嗣氏)
3)冬の夜の木枯しの合唱
4)枯木は太陽に祈る
作詩:中田 浩一郎
作曲:石井 歓
指揮:木下 保
Pf:辻 敬夫、村主 一彦
第10回東西四大学合唱演奏会は前述のとおり、ダイジェスト盤としてステレオレコードが制作されているが、その録音とは異なる音源がオープンリールで早稲田大学グリークラブ事務所に保管されていた。
つまり、残念なことに同志社のステージを録音したオープンリールは紛失されていたが、その他はエール交換から合同演奏に至るまで割愛なく収録されたオープンリールが存在したのである。
その結果、モノラルながら同志社以外については全曲を復刻・収録することが出来た。
音質はあまりよろしくないが、当時の演奏レベルを判ずることは充分に出来る。経年劣化に応じ、160Hzと3.15KHzを中心としてイコライジング処理を行ってデジタル化した。
第9回東西四大学合唱演奏会までは、各校2ステージと合同演奏の計9ステージであった。
そのため合同演奏会を持つ意義に欠けるという声もあり、この第10回東西四大学合唱演奏会からは各校1ステージと合同演奏の計5ステージとし、演奏内容の質の向上を図った、とのことである。
ちょうど1949年の清水脩「月光とピエロ」によって、一つのテーマに基づいた小品集=合唱組曲という様式が提示され、その後に1954年の多田武彦「柳川風俗詩」、1956年の石井歓「枯木と太陽の歌」などといった合唱組曲が続々と登場し、東西四連においても単独ステージの多くにこれらの合唱組曲が採用され、磨き抜いた演奏が披露されるようになる。
また演奏会場は、1961年4月竣工の後、東京都の公的行事しか乗せなかった東京文化会館である。
第10回東西四大学合唱演奏会は、この極めて優秀で巨大なホールを一般行事に開放した実質的な柿落としの一環であり、学生団体では初の公演でもあった。
この時期、関西学院・同志社・早稲田は合唱コンクールで鎬を削っており、独立自尊の慶應も交え、この演奏会のマネジメントでもさまざまな意地の張り合いがあったような話も聞くが、演奏については、既に各団の個性が存分に出ており、ある意味では安心して聴くことが出来る。
<エール交換>
関西学院は「Old Kwansei」。これを聴いただけで鳥肌が立つ。それ程までに、既に現在と変らないスタイルが完成されているのである。
各パートがきちんと整理され、縦横を合わせ、倍音を味方につけ、どんな状況下でもハーモニーを崩さない、そしてあの独特のバスの鳴り。この伝統には敬意を表する他はない。
早稲田はやはり2番に入って展開してからの和音が何とも微妙(笑)。テンポはかなり遅めで、本来の行進曲の範疇からは外れているが、声量とあいまって荘厳さ(笑)を醸し出しており、悪くない。
むしろ最近の速い演奏や、特に2003年の「解釈」、すなわち2番に入って冒頭「あ~」をたっぷり3秒は伸ばしてから、急に1番より40%もテンポを上げるというテンポ設定に比べれば、遥かに校歌として相応しい。
同志社の「Doshisha College Song」のテンポ運びやフレージングは、正直に言って異様(笑)。
あえて表現すれば、演目とは一切関係なく合唱団の機能として、異常な切れ味の良さ・切れ込みの鋭さ・。ギラギラした声を備えていて、後年の同志社でもそういう部分はあるが、どうにも極端なまでにその「機能」を見せ付けてくる。
これは単独ステージも同様で、この年だけがそういう演奏のようである。
また、慶應ワグネルは北村協一氏編曲の塾歌で2番まで歌っているが、異様に太くて立派な声のテノールが一人いて、あの編曲の2番の最後に及ぶまでヘタれないのは大変に立派(笑)。
<Messe Solennelle>
この「デュオパの荘厳ミサ」は、関学OB・林雄一郎氏の秘蔵曲であったが、戦後関西学院が演奏してから、他団の演奏会やコンクール自由曲などで取り上げられる様になった。ちなみに1957年の合唱コンクールにおいて同志社が関西学院を初めて破り、しかも審査員全員が1位をつけて「完全優勝」した時の自由曲も、この「荘厳ミサ」から「Gloria」である。
演奏は、この当時としても、また現代の尺度で見ても、大変に完成度が高く、
オープンリールのノイズの向こうから聴こえて来る「Agnus Dei」は特に美しい。
指揮は4回生の学生指揮者、亀井征一郎氏(後年清一郎と改字)。
<ヘーガー作品集>
早稲田はこの年のコンクールもヘーガー「Totenvolk」で臨んでおり、まさにヘーガーに明け暮れた年であった、とのことである。
早稲田はこの翌年、昭和37年(1962)から「定期演奏会に集中するため」としてコンクールへの出場をとりやめるのだが、この時期は常に160名を超える団員を有しており、演奏レベルもコンクールに出場していただけあって、かなり手入れの行き届いた演奏である。
ヘーガーの作品は昨今ではほとんど演奏されないが、1960年台にはドイツの本格的男声合唱曲として、いくつかの実力派合唱団で歌われた。
東西四連ではこの第10回の早稲田の他、第15回(1966)に慶応ワグネルが歌っている。
指揮は昭和31(1956)卒のOB、山本健二氏。戦前から戦後暫くの間、早稲田グリーはOBに指導を請うことで学生団体としての自立を図り、指揮や声楽のプロを指導者に招聘する風潮と一線を画していたが、その中心的な人物が故・磯部俶氏/昭和17(1942)卒であり、山本健二氏である。
<在りし日の歌>
多田武彦氏の作品を演目に取り上げる男声合唱団は非常に多い。しかし多田作品の中には結構な難曲がいくつかあって、「在りし日の歌」はその筆頭の部類に属する。初演は1950年代末の東京コラリアーズのようだが、学生団体が取り上げたのはこの第10回四連の同志社が最初ではないだろうか。
演奏はエール交換の歌い方と同様で、少なくとも「叙情性」に欠け、誠に申し訳ないが、この曲とはなじまない奏法である。
指揮は4回生の学生指揮者、浅井敬一氏(後年敬壹と改字)で、後年に京都エコー・住友金属合唱団・同志社混声合唱団こまくさを率いて合唱コンクールを席巻した、日本を代表する合唱指揮者の一人。
<MISSA MATER PATRIS>
慶應ワグネルの「MISSA MATER PATRIS」は、恐らく現存する最古の録音であり、もしかしたら皆川編曲版の初演かも知れない。慶應ワグネルはこの後も数年に一度は必ずこの曲を演奏しているが、それは欧州文化への理解と、ポリフォニーの感覚を養わんとする故・木下保氏の信条による。
前年の昭和35年(1960)3月から畑中良輔氏を指導陣に加えた慶應ワグネルは、この後10年ほどで急激な変貌を遂げ、「ワグネル・トーン」の絶頂期を迎えるのである。
<枯木と太陽の歌>
残念ながら、合同演奏1曲目の冒頭で数秒のテープ欠損がある。
合同以外のステージのテープは再生した回数もわずかなようであり、保存状態も良好であったが、この「枯木と太陽の歌」は随分聴き込まれた様子で、取り扱いも雑であったと推測される。
すなわちテープが随所でちぎれ、それらを普通のセロファンテープで補修してったりする。
冒頭部分の欠損も、再生を繰り返すうちにテープ先頭がちぎれて行き、そのまま無理に録音部分をも消費したものと推測される。誠に残念である。
2曲目「花と太陽の会話」の素晴らしいテナー独唱は、同志社1961年度幹事長、中島英嗣氏。
数ある大学男声ライブの「枯木と太陽の歌」の中でも最高の独唱と言っても過言ではない。「枯木と太陽の歌」に限らず、ただ美声に任せて歌い飛ばすソロは数あれど、きちんとした楽曲として聴かせるという歌手は誠に少ない。
そういう観点でも、まさに大学男声史上屈指の名歌手である。
なお、ピアニストが連弾となっているが、「枯木と太陽の歌」は本来は連弾譜ではない。当時のOBに話を聞いたところ「あれは早稲田と慶応でそれぞれ推薦するピアニストがいて、どちらも譲らなかったから連弾になったんだよ」とのお話。
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さすがにエジソン型蓄音機やロウ管の音源は知りません。またラジオ放送用原盤のSPレコードもNHKなんかには保管されていそうですが、個人では入手出来ません。
ですが、市販されたSPレコードであれば、現在でも東京の御茶ノ水・神保町あたりのSP専門店で、意外と豊富に流通しています。
SP(Standard Play)とは
1)音溝を刻んだ直径25センチほどの円盤を
2)ゼンマイ式などの再生機(蓄音機とはよく言ったものだ)で
3)基本的には1分間に78回転させ(ポリドールは80回だったりいろいろ)
4)鉄や竹の太い針で再生する
というレコードで、片面にせいぜい5分しか録音出来ませんし、材質も塩ビではなくて落としたら割れるような樹脂を使い、音溝も50回も再生したら摺り減ってしまうというものでしたが、1950年頃にLP(Long Play)が出るまでは、唯一の音楽記憶媒体として流通していました。
山古堂では早慶明立(順不同)のSPを入手していますが、それにしても驚くのは、早慶明立(順不同)とも、昭和初期には既に学生管弦楽団を有していたことです。
なお、戦前のSPはほとんど全てが斉唱です。
(以下、順不同)
<ビクター50306A/B> 昭和3年(1928)
A管弦樂附合唱 早稻田大學校歌
作歌:相馬 御風/作曲:東儀 鐵笛
早稻田大學音樂會聲樂部及管弦樂部員
指揮:橋田 洋
B管弦樂 早稻田行進曲
編曲:前坂 重太郎
早稻田大學音樂會管弦樂部員
指揮:橋田 洋
早稲田はこの当時から「元気溌剌」で、管弦楽団も何か独特な編曲。軍楽隊の系統とも言え、例えばかの「軍艦マーチ」も何だか西洋っぽくないですが、ああいう系統の編曲であり演奏です。金管がしっかりしているあたり、ドイツ吹奏楽の影響がありそう。
斉唱は思い切り声を出していてよろしい(笑) 本来は慶應の校是であるはずの「独立自尊」を、むしろ早稲田で感じます。
校歌制定が明治40年(1907)ですから、教職員の中に「初演メンバー」がいた頃の録音です。
B面は管弦楽のみ。そういう意味では早稲田大学交響楽団の録音としても最古のもの、ということになります。
<ビクター51930A/B(3140-3141)> 昭和6年(1931)
A應援歌 早稻田第一應援歌
作詩:五十嵐 力/作曲:山田 耕筰
早稻田大學音樂部員
指揮:平野 主水
B應援歌 早稻田第三應援歌
作詩:西條 八十/作曲:中山 晋平
早稻田大學音樂部員
指揮:平野 主水
現在では早稲田大学第一応援歌といえば「紺碧の空」ですが、元々これは第六応援歌です。
戦前にあった第一~第五応援歌がその後歌われなくなったことから繰り上げられたようですが、確かに第一~第五応援歌は野球に特化した内容であったり、やや野暮ったかったりで、慶應の応援歌「若き血」に対抗するには「紺碧の空」を待つことになります。あ、早稲田の場合は校歌も応援歌に使われましたね(笑)
第一応援歌「競技の使命」は、2番は早慶(順不同)戦などで勝った時だけ歌うというもので、旋律やリズムはやはり何だか「軍艦マーチ」のような印象です。その上、結局末尾で早稲田早稲田と連呼する(笑)
連呼しない早稲田ソングはあんまりありません。
競技の使命 母校の名誉 心に銘じ 鍛え来(き)し 鉄(くろがね)の腕 試すは今ぞ 今ぞ 血は燃え肉躍る この意気この力 向かふ者 皆打ち砕く 勝利は我がもの いざ進め取れ(注) 早稲田 早稲田 早稲田 無敵の早稲田 早稲田 早稲田 早稲田 無敵の我が早稲田
注):野球の進塁・打球を意図した歌詞。 また、試合に勝った時は
「勝利は我がもの いざ進め取れ」を
「早(は)や我れ勝てり いざ挙げよ勝鬨(かちどき)」
に替えて歌う。
第三応援歌「天に二つの日あるなし」は、文字通りお天道様は一つしかなくて、それが照らすのは勝者早稲田だ、みたいな歌詞。
やはり最後に「早稲田 早稲田 奮え早稲田」と入ります(笑)
<ビクター50307A/B> 昭和3年(1928)
A管弦樂附合唱 慶應義塾々歌(旧塾歌)
作曲:金須 嘉之進
慶應ワグネルソサエテイ部員
指揮:大塚 淳
B管弦樂附獨唱 慶應義塾々歌
作曲:金須 嘉之進
獨唱:木下 保
伴奏:慶應ワグネルソサエテイ部員(管弦樂)
指揮:大塚 淳
慶應は、福沢諭吉翁が設立に関わった?東京音楽学校(今の東京芸大)と強いコネクションがあり、指導者や応援(いわゆるトラ)は全て音校生ということで、慶應義塾ワグネル・ソサィエティーという管弦楽・声楽の複合団体の創立に尽力しワグネルの父といわれる大塚淳氏も音校出身ですし、その大塚氏から最初はトラとして呼ばれた、ヴァイオリンも弾けるテノール歌手の木下保氏なども音校出身で、木下氏はその後永く慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団を指導することになります。
(余談ながら、その木下保氏がワグネル男声に紹介した畑中良輔氏もまた、東京芸大出身の歌手であります。)
かかる背景によって、慶應のSPを聴くと、まずオーケストラの編曲がこなれているし、楽器の奏法も他校の一段上を行っていて、特に弦楽器がきちんとしている。オマケに木下保氏の独唱まで収録されています。
この塾歌は、七五調四行詩を6回繰り返すもので、はっきりいって「もしもし亀よ」に近い牧歌風の旋律であり、「日本初の校歌」とはいえ、むしろ学生愛謡の風情。ちなみに詩は下記の通り、塾祖の理想を受け継がんという気風に溢れていますが、これを「もしもし亀よ」に当てはめて歌えば、だいたいイメージがつかめます。角田勤一郎作詩。
天にあふるる文明の/潮(うしお)東瀛(とうえい)によする時 血雨腥風(けつうせいふう)雲くらく/国民の夢迷う世に 平和の光まばゆしと/呼ぶや真理の朝ぼらけ 新日本(しんにっぽん)の建設に/人材植えし人や誰(たれ) 使命ぞ重き育英の/勲業千古に水長く 山より高き徳風を/偉人の跡に仰ぎ見る 心の花もうるはしき/宇内(うだい)子弟の春一家 独立自尊の根を固く/進取確守の果(み)を結べ 修身処世の道しるき/慶應義塾の実学は 両大陸の文明を/渾一(ひとつ)に綜べし名教ぞ 形勝天賦の国にして/起てよ吾友(わがとも)栄誉(ほまれ)ある 独立自尊の旗風に/広く四海を靡(なび)かせん
<ビクター50308A/B> 昭和3年(1928)
A管弦樂附合唱 慶應義塾應援歌
作歌作曲:堀内 敬三
慶應ワグネルソサエテイ部員
指揮:大塚 淳
B管弦樂附獨唱 慶應義塾應援歌(同上、独唱バージョン)
作歌作曲:堀内 敬三
獨唱:木下 保
伴奏:慶應ワグネルソサエテイ部員(管弦樂)
指揮:大塚 淳
この応援歌は、現在「若き血」で知られる慶應義塾初の応援歌。
オールラウンドに歌い回せる、日本屈指の応援歌の名曲と言えましょう。
ワグネル百周年史に、この曲の完成を記念してSP録音を行ったとあるのが、まさにこのビクターのSP。
B面の木下保氏の独唱が颯爽としてカッコ良い。
木下氏が東京音楽学校を卒業して間もない24歳頃の録音。
<ビクター50620A/B> 昭和4年(1929)
A管弦樂附合唱 明治大學校歌
作歌:兒玉 花外/作曲:山田 耕筰
明治大學學友會音樂部員
B管弦樂附合唱 若人「明治」の歌
作歌:畑 耕一/作曲:高階 哲夫
明治大學學友會音樂部員
明治大学校歌は大正9年(1920)の制定。そのわずか9年後の録音。
明治は管弦楽の編曲がとっても変で、第一ヴァイオリンが常に主旋律をポルタメントで弾き、浅草オペラチックな感じ。
校歌の伴奏管弦楽は、コードも変えず同じ和声を常に1拍目に全強奏でぶつけてくることを延々と繰り返すので、催眠術にかかりそうです。斉唱も早慶(順不同)より練度が低く、もしかしたらこのSP録音のために急遽編成されたのかも知れません。
若人「明治」の歌は、途中に何拍子なのか全く分からなくなるところがあって、随分難しい愛唱歌だなあ、という感想。中間部に弦楽器のメロディアスな部分があり、管弦楽としてはちょっとドイツ後期ロマン派の影響を感じさせる作品。
<ポリドール629-A/B> 昭和6年(1931)
A校歌 榮光の立教
作詩:杉浦 貞二郎/作曲:島崎 赤太郎/合唱編曲:辻 荘一
立教大學グリー・クラブ
立教大學管弦樂團
指揮:西垣 鐵雄
B應援歌 立教大學應援歌(セントポールス・ウイル・シヤイン・ツーナイト)
編曲:西垣 鐵雄
立教大學グリー・クラブ
立教大學管弦樂團
指揮:西垣 鐵雄
「栄光の立教」は、永く立教グリーを指導してこられた故・辻荘一氏(1895-1987)の編曲。
管弦楽の編曲は、当時としてもあまり感心出来ないものです。
何か全楽器でユニゾンみたいな部分もある。
他方、有名な応援歌「St. Paul's Will Shine Tonight」は、恐らくアメリカに遊学した関係者が持ち帰った空気がムンムンしている感じで、当時としてもハイカラ過ぎ、現代ならギャグですが、アメリカの応援団よろしく2番まで歌った後に突然伴奏を消し、
「R、I、K、K、I、O、rrrr(巻き舌)、rrrr、rrrr、rrrr、
リッキョ、リッキョ、リッキョ」
と叫んだ後、トランペットがミュート付けて再びあの有名な旋律を奏するのでありました。
10回聴いて10回椅子から転げ落ちます。
驚いたことに、この応援歌はトップテノールがオブリガードを歌い、セカンドテノールが主旋律を歌うという、今流行のバーバーショップコーラスのスタイルで編曲されていて、演奏も立派な四部合唱です
校歌のSPシリーズできちんと多声部合唱を聴かせるのは、この立教の他には関西学院グリークラブの「Old Kwansei」(ピアノ伴奏。ポリドール、昭和6年/1931)しか聴いたことがありません。
ちなみに当時のポリドールは80回転。他社は78回転だから困りますが、実際には78回転で再生して音程が合います。
適当ですね~。
やや番外ですが、
<コロムビアA1131>昭和26年(1951)?
A慶應義塾大學塾歌(現在の塾歌/昭和16年(1941)作曲)
作詞:富田 正文/作曲:信時 潔/編曲:服部 逸郎
藤山 一郎
慶應ワグネル・ソサイテイ合唱團
コロムビア・ブラス・バンド
B慶應義塾應援歌 若き血
作詞作曲:堀内 敬三/編曲:服部 逸郎
藤山 一郎
慶應ワグネル・ソサイテイ合唱團
コロムビア・ブラス・バンド
戦前の東京六大学は、まだ共学になっていないので男声合唱です。
恐らく大学初の混声合唱の録音がこのSPと推測されます。
慶應の新しい(現在の)塾歌を、当時コロムビアで戦前から戦後にかけて人気絶頂のアイドル(爆)であった藤山一郎の独唱に、バックコーラスで慶應ワグネル男女声が歌ってます。
なお、SP盤というものは、日本では昭和27年まで製造され、その後LPとかドーナツ盤に道を譲っていますから、このSPはSP最後の輝きの頃のものということになりましょうか。
あとは法政と東大ですが、多忙なのと資金不足で最近神保町に行かれません。
状態の良いSPは5千円以上するのですよ。
<発声など>
どの合唱も、声質は丁度戦前のラジオアナウンサーのように芯を強くした硬い声で、現在のようにのどの奥を開けるという考えがあまり無い感じ。
もちろん当時の収録マイクやSPの特性で、低音や高音が極端に減衰するナローレンジの音域特性ということもあります。
だから、戦前のアナウンサーは機械特性に合わせた発音をしていたわけですな。
ただ、木下保氏の述懐でも、Gを張れる者など音楽学校生にもそうはいなかった、という通りで、高音は全く耳になじまない(笑)。溌剌とした健やかさとか自尊心みたいなものは明快に感じます。
<時代背景など>
大正時代といえば秀才は軍人か大学かということで、村一番の秀才が颯爽とマントをなびかせて大学に行く、というような時代ですから、大学というと現代では想像もつかない最高学府だったわけで、銀座のミルクホールの女中が学生にヨロめくのも不思議ではないのですが、そんな時代に早くも火花を散らしたのが早稲田と慶應(順不同)。
そうです、野球の早慶(順不同)戦。
明治36年(1903)に始まった早慶(順不同)戦から発展した東京六大学野球が初のリーグ戦を行ったのが大正14年(1925)の秋。
国民的人気を得て、昭和2年(1927)に全国ラジオ放送が開始されたことに伴って、かどうかは知りませんが、昭和初期に各大学の校歌や応援歌がまるでアイドル歌謡みたいに、SPで発売されたのでした。神宮に応援に行かれない遠隔地の人たちやOBは、さぞや中継に混ざって聞こえてくる校歌や応援歌に憧憬や懐かしさを抱いて、そういうSPを買い求めたことでしょう。
<合唱団草創期>
SPを吹き込んでいる各大学合唱団の創立は、その学校の学風とか学生の気質によっても異なるでしょうが、いずれにしても明治末期から昭和初期の頃で、推測するに、
1)ドイツ語を習う事が出来、ドイツ語でLieder-Schatzを歌う事を誇りと
していた旧制高校や旧帝大の合唱倶楽部(東大・九大など)
2)ミッション系私立学校の聖歌隊の延長(関西学院・立教・同志社など)
3)欧州の文化を実践しようという学校・学生の気質
(慶應・早稲田・明治など)
といったパターンがあろうかと思われます。
基本的には合唱を楽しむクラブとして活動が開始されたと思われますが、慶應ワグネルのように、管弦楽と合唱を合わせて「慶應ワグネルソサエテイ部員」と表記されているようなケースもあります。
これは、当時の慶應ワグネルは楽器奏者と歌手が兼務というケースが多く、明確にその区別を設けていなかったからであり、恐らく他の大学でもそういうケースがあったのではないかと推測されます。
<SP時代を超えて>
いずれにせよ、東京六大学の各合唱団は戦前にほぼ出揃い、戦時中の活動中止をはさんで、終戦の翌年から再開された合唱コンクール東京都大会でも法政オリオンコール(現在はアリオンとしている)と早稲田グリーが鎬を削ったり、各校に混声や女声の合唱団が出来たり、活況を呈してきました。
昭和30~60年代については、今後の東西四連解説などで触れますので、ここでは省きますが、最近10年の大学合唱について、特に大学男声合唱の衰退については、いろいろな意見もあると思います。
思いますが、山古堂主人としては、これまた前略中略ながら、やはり客席に向かって堂々と胸張って主張出来る演奏をしてもらいたいものです。
東京六大学野球リーグに遅れることおよそ四半世紀、東京六大学合唱連盟は昭和27年(1952)に第1回演奏会を開催。
その際、明治大学のみは男声合唱団が無く混声合唱団が出演しましたが、昭和33年(1958)秋に明治大学グリークラブが創立され、翌昭和34年(1959)の第8回定期演奏会から全6大学が男声となって、今年(2004)5月には第53回定期演奏会を迎えます。
SP時代より70年強、関西六大学合唱連盟は昨年平成15年(2003)で休止のやむなきに至りましたが、東京六大学合唱連盟は各校の個性そのままに、これからも続いて行ってもらいたいものです。
このコーナーを間借りさせて頂く私、山崎と申します。
生まれは埼玉、育ちも埼玉、高校で混声合唱に打ち込み、大学で男声合唱に打ち込み、合唱生活は現在も続いております。もしかしたら合唱ヲタクとお思いの方もおられるかもしれませんが、違います。
真性の合唱ストーカーです。
さて、
合唱で困るのは、自分の生演奏を自分で聴けないことです。
例えばとてつもない超名演をしたところで、それはその場限りで消え去ってしまうので、後日録音で聴くしかない。しかし、録音といえども無いよりはあった方が遥かに良いし、それしか手段が無いのなら、なるべくベストな録音を残したい。
そんな訳で、昔から録音を残すことに並々ならぬ熱意を持った方がたくさんおられました。
高校、大学ともなかなか由緒ある合唱団だったので、部室にはそれこそオープンリール草創期の頃からの古い音源があり、耳学問のために良く聴きました。
その時代によって録音技術上の制約があるにせよ、録音を聴くと、さまざまな奏法や発声や、今となっては歌われない演目や、演奏に携わった方々の本番にかける想い、そういったもの全てが勉強になります。
付随的には、合唱に一家言を持っている古いOBの方々が現役時代にどんな演奏をしていたかも分かりますし、そういったOBの方々と往時の演奏の話題で親しく会話させて頂くこともあります。
そういう過去の演奏記録はオープンリールやレコードによるので、CDやMDが主流になった今日ではなかなか手軽に聴けるシロモノではありません。
聴けない=忘れ去られ、旧世代の遺物として埋もれていく、ということです。
そこで古い音源をカセット等の一般的に聴ける形に変換する、という作業を高校時代から始めていましたが、時代は進み、技術も進歩し、現在では自宅でCD-Rまで焼けるようになり、再現性・長期保存性も格段に向上しました。
それに加えて就職=可処分所得の増加によって手持ちの機材も充実し、今では大抵の音源はデジタル化することが出来るようになりました。
そのような背景の中、古い音源が日々失われ、埋もれて行く事に恐怖と言っても良い感覚を抱く当方は、遂に個人的プロジェクトとして知人・友人・関係団体を通じて古い音源を収集・デジタル化し、大学男声合唱ライブのアンソロジーを制作する事としました。
収集している音源は、結果として当方の所属した団体に近しいところばかりなので、どうしても偏りがありますが、日本の男声合唱や、それに影響を与えた音楽の歴史の一端を詳らかにすることが出来るであろうと思います。
現状では、東西四連、東京六連、早稲田グリー定演を集中的に鋭意デジタル化作業中です。
また、慶應ワグネル・同志社グリー・関西学院グリー等の単独定演、関西六連、その他名演と言われる演奏を含む演奏会(例えば明治グリー30回記念定演、東経大30回記念定演等)や、更には多くの珍品も入手し、或いは引き続き探索中です。
このコーナーでは、そんな音源たちを御紹介していこうと思います。
もし記載内容に事実誤認等がありましたら御一報下さい。
「山古堂」とは、山崎が古い音源を集めている、ということで名付けたのではなくて、主に関西方面の音源探索で御尽力頂いた盟友、古賀準一君(関西学院グリークラブ1989年卒)から一字を頂いたものです。彼のフランクな人当たりと人脈のおかげで、どれほどの音源が忘却の淵から救われたことか。
山古堂は、これからも音源収集・デジタル化を通じて、合唱文化の継承を図り、過去と未来の橋渡しをして参ります。どうぞ宜しくお願い申し上げます。