合唱音源デジタル化プロジェクト 山古堂

早稲田大学グリークラブOBメンバーズ<特別編集> 真性合唱ストーカーによる合唱音源デジタル化プロジェクト。


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北村協一先生に

 2006年3月13日、北村協一先生が逝去されました。

 山古堂の「山(上海)」そして「古(福岡)」、山古堂と濃厚で密接な関係にある、栃木屋香阪(かはん)堂御主人(東京)、新居屋明石本店御主人(兵庫)、近藤大酒店総経理(岩手)、前川屋本店御主人(埼玉)より、北村先生への想いを捧げます。


◆山崎知行・山古堂本舗代表取締役技術総監兼大陸方面歩兵兼主人@早稲田グリー89卒

 今は廃盤となってしまった、東芝EMIの現代合唱シリーズと言う一連のレコードがあって、戦後の邦人合唱作品の紹介と、作品の音としての記録保全とを主眼として制作され、1970年代から1980年代中盤までにその全てがリリースされた。福永陽一郎氏が監修し、「スピーカーの向こうに演奏者が見える録音」を標榜して、基本的にアマチュア合唱団を起用し、その合唱団が一度ステージに乗せた作品を日を置かずに収録する、という一貫した方針に拠って、東京混声合唱団を中心とするビクター音楽産業の日本合唱作品シリーズとは異なった、アマチュアならではの「熱」を記録し聴かせる、というものであった。
 この東芝現代合唱シリーズが男声合唱界にもたらした恩恵はとても大きくて、福永陽一郎先生、北村協一先生、果てはビクター専属の畑中良輔先生までが指揮者として登場し、今でも忘れられない1980年代前半の大学男声合唱黄金期(戦後で数えれば第2期となろうか)の関西学院グリークラブ、慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団、同志社グリークラブ、早稲田大学グリークラブ、立教大学グリークラブ、関西大学グリークラブ(創立順)などの演奏を全国津々浦々に運んだ。無論、収録はライヴではなくスタジオなり客を入れないホールで行われたものであって、本当のライヴの熱さが表出したものではないにせよ、一方で編集され音響的にも整理され、模範的で聴きやすい演奏であり、その中にも各団それぞれの個性を出した好演揃いとなっている。
 これらは後にCDとなって再リリースされたが、そのCDすら残念なことに、現在では廃盤となっている。

 山古堂主人が本格的に合唱を始めたのは高校に入ってからで、混声合唱であった。当時、1980年代前半の埼玉県の高校合唱は、コンクールで言えば浦和第一女子高校が一歩秀でていたが、2番手は混声・女声・男声、三つ巴の群雄割拠であり、男声では浦和高校、川越高校、熊谷高校がなかなかの演奏を聴かせていて、山古堂主人の在籍していた大宮高校とコンクール県大会で鎬を削っていた。そんなことで男声合唱を耳にする機会も少なくなかったが、これらに加えコンクール全国大会の会津高校や崇徳高校の、伝説的な演奏を聴いたりしているうちに、だんだん興味の対象となってきて、ある時東芝現代合唱シリーズの男声合唱レコードを買ってみた。高校2年生の春のことである。その時買ったのが同志社グリー「海に寄せる歌」「わがふるき日の歌」、早稲田グリー「月下の一群」、そして関学グリー「月光とピエロ」で、特に関学グリーの、高校男声とは格の違う演奏にすっかり魅せられてしまった。山古堂主人の母親も高校時代から合唱を楽しんでおり、そんなことでボニージャックスの出身母体である早稲田グリー(実は1972年に大宮高校音楽部とジョイントコンサートをやっていて、当時早稲田グリーから贈られたペナントが今でも高校の部室に飾られている)や、ダークダックスの出身母体である慶應ワグネルの名前は耳にすることもあったが、関東に住み混声合唱に明け暮れていた一高校生にとって、関学グリーは全く馴染みのなかった合唱団であって、この出会い頭の衝突のような北村協一先生&関学グリーのハーモニーとの出会いは、単純で熱っぽい一高校生をして「大学では男声合唱をやるぞ、入るなら関学グリーだ」と決意させたものである。

 大学受験は浪人になってから勉強すれば良い、という風潮の高校だったから、当然の如く浪人した訳だが、その浪人時代中も東芝現代合唱シリーズの男声合唱レコードを買っては繰り返し聴いた。この浪人中に、決して大袈裟でなく、心の支えとして何度となく聴いたレコードが北村先生&関学グリー「尾崎喜八の詩から」「在りし日の歌」である。あの頃、北村協一先生がどのような方なのか知る由も無かったが、北村先生&関学グリーの演奏は他団のような青臭さや乱れのない、そして巧妙なフレーズさばきによる表現によって詩の風景が浮かぶ素晴らしい演奏で、今でもこれらのレコードを聴くと、改めてその凄みを再認識すると共に、あの受験直前の最後の追い込みをしていた寒い深夜を思い出して、胸の奥がシンとなる。
 ・・・思えば、それがもう20年以上も前のことなのだ。北村先生もその当時既に50歳を越えていたのだし、かく言う自分も今は40歳を越えている。

 浪人中の12月、偶然予備校で席を並べていた、第一志望が早稲田グリーと言うM君(結局早稲田全落ちで慶應ワグネルに入った)が、「祈りの虹」を演った早稲田グリー第32回定演を聴きに行って、凄かった、というので、関学しか受けるつもりの無かった山古堂主人も何となく早稲田に願書を出したりしたのだが、・・・勉強しすぎちゃったんだな、きっと。関西学院大学法学部に特待生扱いで合格を決めたのが1985年2月15日。多分人生最高の瞬間だと、今でも思う。合格発表をわざわざ上ヶ原まで見に行って、その場で下宿まで決めて来た。一方で、一応スベリ止めとして受験料を払い込んだからには試験だけは受けてこい、と親に言われ、仕方なく早稲田大学法学部を受験したのが確か2月23日くらいか。合格発表が3月5日か何かで、丁度その日が関西学院大学の入学金払込の期限でもあった。白紙提出こそしなかったが、さらっと試験を終えて帰ってきたはずなのに、合格発表の掲示に自分の受験番号が載っている。あれ?

 当時は携帯電話なんか無いから公衆電話に並び、親に報告したら態度豹変、「せっかく自宅から通える大学に受かったのに、どうしても関学に行きたいなら下宿代は自分で稼げ」と心温まることを言う。大学合唱団の活動を推測するに、大金がかかるのは必定だから、根性なしの貧乏浪人・山古堂主人はここに涙を呑んで屈し、「月下の一群」のレコードで聴く限りテノールは上手い早稲田グリーへの入団が、大学で男声合唱をやる唯一の選択肢となったのである。これ即ち、東芝現代合唱シリーズの監修者・福永陽一郎氏の指導を受けられる機会に恵まれた、ということでもあるが、当時はとても落胆していた山古堂主人であった。

 苦界に身を沈め、ぢゃなかった、早稲田グリーに入団して1年目の1985年、第34回東西四連が東京で開催され、1年生は会場手伝いとしてドアボーイなどをしていたが、山古堂主人は1日目の東京厚生年金会館の方で手伝いをしたので、2日目の東京文化会館の方は客席で聴くことが出来た。その時の関学グリー「かみさまへのてがみ」は忘れられない。颯爽とした北村先生の背中、そして伝統と訓練に裏打ちされた100名超の男声合唱の、ハーモニーと倍音の威力、そして東京文化会館という極めて優秀な楽器の、関学グリーのステージのみで起こった圧迫感を伴うホール鳴り。レコードで幾度となく聴いてきたハーモニーが、眼前にそびえ立っていた。

 翌1986年、第35回東京六連の合同で北村先生の指揮による新実徳英「祈り」を演奏することとなり、初めて北村先生の指導に触れた。練習は、歌い方に関する約束事や取り決めの指示が中心で、当時の早稲田グリーの風潮からすれば面白くない、反発の出やすい練習であったように記憶している。当時のことを2000年7月に備忘録的に記した一文を引くと、

 「1986年、当方の代が初めて六連の舞台に立った年の事だが、この年の35回六連の合同演奏は新実徳英の「祈り」。実は隠れた名曲である。さて、合同と言うのは大抵ろくな事にならなくて、最後は意地の張り合いみたいな事になっちゃうのだが、そんな中、とあるフレーズに差し掛かったところで指揮者の北村協一氏が心洗われる注文を出し、「ちょっと各校個別に聴かせてくれる?」
 確か4校目が早稲田だったと思うが、これを聴いた北村氏、ひと言「独立自尊!」 居合わせた一同、もちろん早稲グリメンバーも含めて爆笑となったのだが、この時、「独立自尊」というのが実は早稲田大学でなく慶應義塾の校訓である事を、北村氏も勘違いだったし、慶應も気付かなかった(笑)のであった。」

 「ほんのひとつまみの塩」の効果を良く知る人だなあ、と思った。当時早稲田グリーはアンチ北村先生派が圧倒的であったが、それを承知の上で軽くひとつまみの塩を振ってきた北村先生、手練れであった。なお、当時の早稲田グリーの「練習の風潮」については前回のBlogで記した通りである。

 同1986年6月、第35回東西四連が大阪フェスティバルホールで開催され、初めて関学グリーと同じステージに立った。既に早稲グリに染まりつつあった山古堂主人は彼らを見て、憧れであった関学グリーがすぐ隣にいる、という感慨と共に、一種の違和感を覚えたのも事実であった。他団とあまり口をきかず、自分達の役割を淡々とこなしていくKGグリーメン。ストイックと言うのとも違う、一種の量産型工業規格品のような。この東西四連での関学グリーの演奏は、特に昼の部では客席から野次が飛ぶという予想外の出来で、あまり芳しいものではなく、昼の部が終わったところで、北村先生が喫煙スペースでイライラとタバコをふかしておられたのを鮮明に思い出す。
 北村先生&関学グリーとは、その後も東西四連の場で顔を合わせる機会こそあれ、現役時代にそれ以上のお近づきになることは無かった。

 1990年2月、福永陽一郎先生逝去。
 その翌年の第39回早稲田グリー定演において、福永先生追悼の意があったのかどうか定かではないが、北村先生が初めて早稲田グリー単独演奏会に登場し、「ヴェルディ/オペラ合唱曲集」を指揮されている。恐らくこれを意外に思った方も多いのではないか。あるいは早稲田グリーもついにあの「ファミリー」の一員になるのか、と。「ファミリー」という幼稚な思考が一人歩きし、大学・一般団体に関わらず畑中先生・北村先生の客演指揮や大久保昭男先生のボイトレを皆こぞって望んだのも、1980年代の特徴である。

 社会人として多忙なうちに時は流れゆく。グリーを卒団して10年後の1999年に関学グリー89卒の古賀君と再会し、二人の苗字から一文字ずつ取った「山古堂」を起堂して大学男声合唱のライヴ音源を中心に急ピッチで収集・デジタル化を行うことになるが、その過程で関学グリーOBの方々とも知己を得、更には早稲田グリーOBメンバーズの起動と共に、その情宣のために東京新月会に顔を出すようになった。それが2002年後半。情宣に行ったついでに、東京新月会の練習にも参加させて頂き、その時初めて、北村先生の指導を間近に受けさせて頂いた。練習曲目は「草野心平の詩から」で、関学グリー東京公演に賛助出演するための練習だったが、北村先生の練習運びは相手が現役ではなく新月会であったこともあってか、一方的な指導ではなく、例えば合唱側が北村先生のイメージと合わない歌唱をした場合、その部分についてどう聴衆に聴かせるべきか/聴衆は何を聴こうとするのか、についての的確な解釈を示し、その具体的唱法はその部分の数度の反復練習の中で歌い手が掴み、提示しろ、という双方向コミュニケーションで、かなりクリエイティヴな、山古堂主人としてはとても有意義で楽しい練習であったと記憶している。
 その練習の後の飲み会には北村先生はおいでにならなかった(しかしその時に、今は亡き中西洋さん@1958卒・東京新月会指揮者と知り合うことが出来た、これも一つの奇跡であったと思っている)。とは言え、山古堂ライブラリ音源をいくつか北村先生にお渡ししてお聴き頂くことが出来、殊に関学グリーが日本代表として出場した1965年「第1回世界大学合唱祭」の音源については、お手持ちのレコードが「擦り切れてしまっていた」とのことで、大変な感謝と、音源デジタル化への激励を頂いた。そう言って頂けた喜びの一方で、山古堂主人のこういう一連の作業の根底に北村先生の存在が大きいことを、その時は言いそびれてしまった。

 更にその後、いろいろあって今度はアラウンドシンガーズの練習に顔を出した際、練習後の飲み会で遂に、北村先生と御一緒させて頂く機会を得て、いろいろなお話を伺うことが出来、山古堂の活動や自分にとっての北村先生&関学グリーの影響の大きさや、過去から現在に到る男声合唱の様々なことをお話しさせて頂いた。わずか2時間に満たない飲み会の後、「自己嫌悪になるから自分の過去の演奏を聴きたいと思ったことはなかったが、改めて聴いてみようという気持ちになった/山古堂の努力に感謝し応援する/今日は久々に楽しかった。」という言葉を頂き、山古堂として改めて気を引き締めたのも勿論だが、その時の愉快そうな北村先生のお顔もまた、忘れられるものではない。何かを成し遂げる人、何かを後世に残す人は、皆一様に、純粋無垢の好奇心を少年のような瞳から溢れさせている。

 話は遡るが、1988年の早慶交歓演奏会において、早慶共に多田武彦氏の作品を取り上げるというので、両校の練習部門が多田武彦氏と座談会を開き、その内容を演奏会パンフレットに取り上げる、という企画があった。これも2000年7月に備忘録的に記した一文を引くと、

 「1988年、37回東西四連に先立ち開催された早慶交歓演奏会の学指揮ステージは早稲田「北斗の海」、慶應「わがふるき日の歌」であったことから、演奏会パンフに多田武彦氏と学生との対談を載せようと言うことになった。
 さて、品川はパシフィックホテルのロビー喫茶店で行われた対談で、早慶のステマネと練習部門が集い、多田氏と対談が始まったのだが、当方はどうしても多田氏に聞きたい事があった。それは四連各団の「イメージ色」である。すなわち、氏は言ある度に「同志社の藍色のハーモニー」と表現するので、では早稲田は?と思った訳だ。
 対談もたけなわの頃、多田氏が「君達も何かお代わりの飲み物でも頼みなよ」と、自分が払うのでもないのに気を遣ってくれていた頃、この質問をぶつけてみた。当方の記憶にある氏の表現では、
 「同志社は藍色。惹きつける、抱き込む深み。」
 「関学は金色。輝かしい感じ。」
 「早稲田はあかね色。赤銅の、日没のギラギラした感じ」
 ・・ここで慶應学指揮の稲田ちょっとニヤける。その気持ち、分からなくも無い。多田氏、続けて、
 「慶應は・・・   あおみどろ。」
 早稲田側出席者は爆笑、一方の慶應側出席者は、目が宙を泳ぐ。
 多田氏はちょっと慌てた風に「いや、モネの絵画、睡蓮に出てくるような深い緑だよ。」
 その後も対談は続き、多田氏はすっかり上機嫌で、対談後もホテルロビーから品川駅近くまで何やら口ずさみながら、「今の若い者達は、良いレパートリーが無いと言うが、実は昔の先輩方の歌っていたヘーガー等々、曲はたくさんあるんだよ」などと語ってくれたのでした。」

 しかし、その以前から山古堂主人は、北村先生&関学グリーのイメージ色を「白」、より正確を期すならば「雪白」だと思っていた(林先生&関学グリーのイメージ色は、「針葉樹林(Taiga)の深緑」である)。その心はご想像にお任せするが、今でもそのイメージは変わっていない。

 関西学院グリークラブのWeb Siteにアクセスすると、白い髪に白いジャケットの北村先生が颯爽と指揮しておられる写真がある。その写真に「尾崎喜八の詩から」の心象が重なり、ああ、北村先生は雪白の世界に還ってしまわれたのだ、と思ったら涙が止まらなくなってしまった。

 北村先生を慕う者の一人として、そして北村先生に導かれた者の一人として、心より感謝の意を捧げます。ありがとうございました。


◆古賀準一・山古堂本舗代表取締役営業総監兼関西九州方面総司令兼「中州の白い龍」@関学グリー89卒

 調子がお悪いのはお聞きしていましたが、これほど早く逝かれるとは。
訃報を聞いたのは19歳の春にあの方に初めてお会いしてからもうすぐ丸21年になろうかという時期でした。あまりに多くの思い出があり過ぎ、纏まりがありませんが、学生時代の4年間で特に印象に残っている思い出を語らせて頂こうと思います。

 先生との初めての邂逅は先輩達の緊張感の中でした。
 同関・四連の演奏曲『かみさまへのてがみ』の練習を繰り返す日々、新入生の私達はグリーホール中央に位置する指揮台の左右に座らされ、100名を超える上回生の先輩方に取り囲まれるようにしているのが常でした。その日、初めてお会いした方はあまり大きくない少し太った姿に真っ白な髪、たばこで少し黄色くなった白髭にしっかりしたフォルムの眼鏡が印象的でした。心の中で、『何か、サンダースおじさんみたいだなあ…』でも何だか威厳があり、怖い感じもします。黙って指揮台に乗られ、少し音を軋ませながら先に指示を出されます。少し怒っているかのような、張りのある大きな声。指揮棒を動かすと、途端に広がる鮮やかな音の情景…。驚きでした。合唱経験の無い私は、指揮者など誰でも同じだと思い込んでいましたから。
ある年には感じたものです。学指揮だと曲が死んだまま。広瀬さんだと曲が急に生き返る。北村先生だと曲が更に踊り出す…。どんな曲でもそうですが、特に関学十八番のニグロスピリチュアルズでは顕著でした。腰が入る独特のスタイルはとてもかっこよく見えました。

 新入生が先生の指揮で初めて歌えるのは、1月最終週の土日(当時)に行われるグリークラブリサイタルです。
 ステージの順番で言えば、4ステージ目のミュージカルが共演の初舞台になります。基礎練習に明け暮れるも歌唱力がまだ低い新入生は、動きもどんくさいものです。冬合宿の食事当番などはそうした練習でのどんくささを先生から指摘され、任命されもしました。
 さて、楽しさを全面に出す4ステージを終えると、ガラリと雰囲気が変わります。先生自身もその年度の4回生と作る最後のステージであることを毎年噛み締めておられるかのようでした。涙はお見せにならないまでも、いつもレセプションの場では言葉少なにされるお姿が印象的でした。グリー以外のお話に接する機会は現役時はあまりありませんでした。

 私の4年間は段々人数が少なくなった4年間でした。特に先生は毎年、新入部員の数にこだわられていました。定着率を考えると50人は必要。20~30人そこそこだと大目玉で、怒られることから新たな年度が始まるのです。まさに戦々恐々…。(笑)

 しかし5月からは四連モードに突入し、『お前たち、なーにやってんだ!!』『違う!何回言ったら分かるんだ!』『分かったのなら返事をしろ!』 野太い声で怒られますが、今考えると先生は、音楽に関しては出来るだけ棒だけで私たちに伝えようとしておられました。うねり、ためて、ひねって、たたく。その棒で『こう歌え!』という言葉が間違いなく聴こえてきたものでした。
 ある時、TOPの私が高音を後ろに引いて歌ったら、『古賀、そりゃ逆だ。こうして、こう。』(と重心を斜め前下方に示し、腰を突き出しつつ)指示を頂きました。
 『凄い。やっていることが分かってはるんや~』と感動でした。

 また春の演奏旅行で西日本を回った時の事です。
 私の地元の北九州市で開催することになり、ソロも任されることになったのですが、北村先生がソリストに個人レッスンをする、ということになったのです。心の底から緊張して先生の部屋に行きました。
 開口一番、『北九州は僕の故郷でもあるから、いい演奏をしたいんだよ』
 春3月に汗だくで約30分、ご指導を頂いた幸福な時間でした。

 同関・四連でアイヌのウポポを演奏した後、部長が先生にお褒めの言葉を頂いたそうです。『長年求め続けてきた最初のフンの音がリハで出たんだよ』と。すかさず、『先生、本番はどうでしたか?』『うん、ちょっと違った。』そう仰りつつ、
とてもにこやかに微笑まれたとの事でした。あのステージ、いよいよの時間にやることが無くなってしまい、いつも下手糞な
最後の揃って礼の練習をしました。
 『お前たちは礼が本当に下手糞だから、礼の練習をする。』と言われて何の疑問も抱かず、皆で1,2,3…と数えつつ何度も頭を下げました。他団から見たら異様な光景だったと思いますが、本当に演奏よりも礼の方が揃わず、下手だったのでした。(笑)

 そう、忘れてはならないのですが、茶目っ気もある方でした。『草野心平の詩から』を練習している時、金魚の『輪郭も無く、夢のように』の部分で、『お前たち、輪郭のRが聴こえないよ。それだと陰核になっちゃうよ。駄目だよそれじゃあ。』とHな事に結び付けられるのもお得意でした。
 演奏旅行では『ゆうやけのうた』で『むすめのなにはなんとやら』で『なに、なんとやら』のNをいやらしくえぐって歌えとか、『あなたの太もも』と『撫でさせて』の間に有声音でブレスを取っていやらしく歌え、という指示を頂きました。グリーホールに今もその音源はあると思います。

 『TOP!何だその声は!今日びワグネルの堀内はAを出すぞ!』と言われ、異様に燃えた合宿もありました。2回生の時でしたが、全員がムッとした顔をしたのでしょう。怒っていた先生がゲラゲラ笑われたこともありました。
(言わずと知れた堀内さんはバリトンでプロになられた方です。)

 卒団後も合唱を続けているお陰で、何度も何度も先生のお噂を耳にし、何度も色んな所でお会いできました。人なつこい笑みを浮かべられ、現役時にはお聞きすることも出来なかった関西弁で、『何?今日はどないしたの?』と言われると、何と言って良いか、とても幸せな気持ちになったものです。
 その先生とはもうお目に掛かれません。

 先日のお別れの会に知人が参列し、私の分も想いを込めて歌ってきたよ、と連絡をくれました。

 亡くなられた日や会の翌日は寒風に雨雪吹きすさぶ悪天候だったのに、その会当日は小春日和の爽やかな晴天でした。
 先生には引き際の潔さ、春風のような爽やかさを教えて頂きました。

 本当に本当に有難う御座いました。


◆栃木義博・栃木屋香阪堂御主人@同志社グリー89卒

 「今度の定演の曲は、陽ちゃんのマーラーにしようか!?」・・・北村先生は、少し酔っ払いながら、そう私に向かって話された。同志社グリーのOBである私は、北村先生が指揮する「陽ちゃんのマーラー」のイメージが全く想像できずに、ひたすらポカンと驚いていると、「どう?驚いた?」という表情で、いたずらっ子のようにニコニコされていた。
 平成16年12月5日「グリークラブ香川 第12回定期演奏会」の終了後、高松市古馬場の「あん」というスナックで、演奏会のレセプションを終えた後、もう少し余韻に浸りたいという20名ほどのメンバーと酒を酌み交わしていた時だった。

 「グリークラブ香川(以下G香川)」は、関学OBである澤井隆氏(会長)、鬼無律友氏(常任指揮者 澤井氏の2年後輩)の2人が立ち上げた、今年で18年目を迎える約40名程の社会人男声合唱団であり、その創立当初から、故林雄一郎先生との、つながりが強く、林先生からいただいた「響きあう心 いつまでも」という言葉を、団のモットーに活動し、林先生の御導きにより、北村先生に御指導いただくようになって3年目だった。

 北村先生に御指導いただく時は、必ず1泊2日の合宿だった。場所は、塩江温泉。土曜の午後、高松入りいただき、フェリー通りにある「鶴丸」という、うどん屋の「カレーうどん」を必ず召し上がった。練習は、日曜の夕方4時ごろまでひたすら続くのだが、休憩時間や、夕食の時間、先生は必ず団員の誰かと談笑されていた。原色の少し派手なアロハシャツに身を包み、団員の誰よりも大声で、まるで飛び跳ねるように、練習場を走り回っていた。その姿は団内屈指の文筆家である島田修作氏の表現を借りると、「剣豪 宮本武蔵」のようであり、誰よりも元気一杯だった。四国男声合唱界ではその強烈なキャラで有名な三原卓氏(元副会長)などは、先生とは約20歳も年下にも関わらず「協ちゃんの元気さには勝てんの~」といつも嘆いていた。(余談になるが、G香川主催の「林雄一郎先生追悼演奏会」の時、G香川の団歌を作ろうという話になり、題「響きあう心いつまでも」詩「島田修作」作曲「多田武彦先生」。林先生の言葉を、団員が一つの詩に置き換え、多田先生が曲をつけるという夢のような展開で、団歌が出来上がった。多田先生へ丁寧に橋渡しをしていただいたのも、北村先生であり、初めて団員が歌ったとき、曲想をつけていただき、御指導いただいたのも団内の指揮者ではなく、北村先生だった)

 団員にとって、「北村協一」という名前は、まさしく雲の上の存在であっただろうと思う。
 G香川は、私のような転勤族は少数派で、地元の混声合唱出身の男声合唱好きが、その主要メンバーである。(一番多いのは、大学のときはグリーで、社会人は混声に属していた、というパターン)団内ソリストでもある登倉耕太郎氏などは、香川大学在学中に、第35回四連での北村先生率いる関西学院グリークラブの「祈りの虹」を見て男声合唱に憧れ、入団したらしい。

 そんな雲の上の「“生”北村協一先生」が夜の宴会では、ご自分で高松入りされてから購入された「じゃこ天」や乾物を団員に勧めながら、大好きな「凱陣(がいじん)」という日本酒をおいしそうに飲んでおられた。団員からは「先生!外人が好きなんや~」と冷やかされながら・・・・。

 ある日、団員から20世紀を代表する石の彫刻家「イサムノグチ」が晩年、香川の牟礼(むれ)町というところで、アトリエを構えて、制作活動をしていたこと。そのアトリエと彫刻が現在、庭園美術館になっていること。そして、偶然にも、G香川のメンバーでもある、出井陽氏(事務局長)のご尊父が、その「イサムノグチ」の製作に携わっていたことをお話しすると、「是非、行きたい」とおっしゃられ、早速、次の練習の前に12名ほどのメンバーと、そのご尊父の案内で、「イサムノグチ」の実際のエピソードを聞きながら、見学された。アトリエの上に、小高い丘があり、そこにある「イサムノグチ」のお墓まで見学した後、そこからの眺めを気持ちよさそうに眺めておられた。

 「林雄一郎先生追悼演奏会」の直前に、先生は発病された。結局、検査等の事情により、先生は演奏会での指揮をキャンセルされるのだが、先生の御見舞いと、次年度の定演の曲目決めも兼ねて、G香川の幹部数名が、五反田の先生のご自宅に伺った。昼時になり、五反田のご自宅から、新宿まで出ることになり、山手線で向かったのだが、満員電車に戸惑うメンバーを先導するように、先生は軽やかな足取りで歩いておられた。
 先生行きつけの新宿伊勢丹の和食の店で、ご馳走いただき、帰りには団員のみんなへのお土産といって、伊勢丹の地下で抱えきれないほどのお菓子を買っていただいた。先生は、病気についてはとても楽観視されていて、当然のように次の演奏会の曲目も決めていただいた。「陽ちゃんのマーラー」にはならなかったが、決まった曲は「中 勘助の詩から」であった。先生は、「林雄一郎先生追悼演奏会」に参加できないことを随分と気にしておられ、演奏会頑張ってねと、何度も何度もおっしゃっていた。私が先生とお会いできたのはその時が最後であった。

 私の手元に5枚のCDがある。先生の合宿での練習の様子を全部録音し、1番から順に1曲ずつ収録した団員製作CDだ。曲目は「月下の一群」。
 私は、先生への思いを整理するために、先生が亡くなられてから毎日寝る前に聞いてみた。録音されていたG香川は、不器用で下手くそ、1度言われたことをすぐ修正できずに、何度も何度も先生に怒られていた。普通なら、指導する側はどこかで妥協して、投げ出してしまう・・それくらい下手だった。私だったら間違いなくそうしたかもしれない。でも、先生は何度も何度も繰り返し、日本語の発音から口形、歌いまわしのそろえ方、発声方法、実に基本的なことを、根気よくご指導いただいた。何より、社会人として、対等に平等に同じ目線で教えていただいていた。男声合唱の基本をみっちり御指導いただいている濃密な時間がそこにはあった。

 G香川は、晩年の北村先生と濃密な時間を過ごすことが出来た最後の合唱団だったと、私は勝手に思っている。高松に来られた先生は、G香川だけの先生だった。

 私は打ち明けると、北村先生の練習や本番の最中、思わず涙ぐむ瞬間が何度もあった。
 どうしても北村先生を見ていると、故福永陽一郎先生を思い出すのだ。福永先生を思い出し、四連のステリハで「祈りの虹」や「アイヌのウポポ」を完璧に歌いきっていた、当時の関西学院グリークラブと北村先生に対する悔しさとか、嫉妬心とかグチャグチャになったライバル心むき出しの気持ちになったことを思い出し、「負けないぞ!」という気持ちで臨んだ四連のエールの瞬間を思い出し、終わった後の打ち上げの爽快感を思い出し、学生時代の自分や先輩や後輩、仲間たちを思い出し・・。(団内のもう一人の同志社グリーOB、高橋圭二氏(1985年卒第53代学生指揮者)も同じように、北村先生と話をしていると、福永先生を思い出し、福永先生の話になってしまうと、苦笑していた・・・)

 まだまだ、気持ちの整理が出来ない。しかし、私はこれからも男声合唱を社会人という枠の中で、頑張って続けていこうと思う。それが、晩年の北村先生に御指導いただいた私の、先生への恩返しかもしれないと思うからだ。

 北村先生ありがとうございました。安らかに御眠りください。


◆新居昌明・新居屋明石本店主人@関大グリー84卒

 昨年(2005年)10月に、兵庫県西宮市で県立芸術文化センターが開館し、柿落としの第九に参加したが、そのときに知り合った関学グリーOBの福本喬様より「北村先生はかなりお悪いらしい」とのお話を伺った。まさかそれから半年で悲報に接しようとは思いもしなかった。

 私自身にとっては、北村先生は常にステージの上の存在であり、日本合唱界のリーダーの一人という認識であったが、一度だけその指導を仰ぐチャンスに恵まれたことがある。それは、4回生になる直前の春休みに実施したレコーディングにおいてである。
 レコーディングした曲は、多田武彦先生の作曲による「水墨集」(関西大学グリークラブ1982年度委嘱作品)という男声合唱組曲で、墨絵のような美しさを持つ曲であり、当時の定演パンフによれば、多田先生より「男声合唱のモノトーンの深い音の広がりを期待する。」と寄せられていたものである。

 当時の部員の多くは多田先生の作品が好きであったが、委嘱を決定した一学年上の先輩方は、特に思い入れがあったように記憶している。
 多田先生には過去「追憶の窓」という合唱組曲を作曲いただいた経緯もあるが、私が1回生のときには、定演前に毎年のようにご指導いただく機会に恵まれるようになった。レコーディングという関大グリーにとっては滅多に無いチャンスについても、多田先生の格別のご高配の賜物であろうと思う。

 さて、レコーディングの練習についてであるが、既に現役を引退していた4回生にも急遽参加を呼びかけて体制を整え、マネージャーからは「指揮者として北村協一先生が、また、ヴォイス・トレーナーとして大久保昭男先生がお越しになります」と聞き、身が引き締まる思いであった。北村先生はどんな指導をされるのだろう、大久保先生のレッスンはどのようなものなのだろうと、期待と不安が入り混じり、今までにない緊張感を持って練習日を迎えたのである。
 ただ、今にして思えば「関学・同志社に追いつけ、追い越せ」が合言葉であったものの、技術的な差は歴然としており、また、コンクールにも参加せず、客観的な評価を得ないまま、一種自己満足的に一喜一憂していた我々の歌は、そのままではレコーディングに耐えられないものであることは明らかであった。

 そんなレベルであった我々の歌がCDとなり得たのは、やはり北村先生と大久保先生のお陰である。両先生の我々に対する理解や指導方法は想像していた以上のものであり、素晴らしいものであった。両先生とも、終始にこやかで、笑いも交えながら我々の緊張を取り払っていただいたのである。

 実際の指導については、まず大久保先生の発声レッスンから始まった。
当然のことながら、発声については多くの点を指摘され、「とにかくトーンを揃えること。そのためにはこういう方法で練習すること。」という風な指導を受けた。先生にも我々にも時間が無く、それだけに我々の集中力も上がっていたのであろうが、短時間のうちにトーンが変わっていくのがわかり、驚いたのを覚えている。

 北村先生のレッスンでは、水墨集各曲に対する先生ご自身の持つイメージを説明され、それに必要な発声的技術をわかりやすく説明された。曲にメリハリをつけ、さらに曲自身が持つ魅力を独自の解釈で最大限に引き出す手法は、なるほどと思わせるものばかりであった。我々が定演で演奏した曲と同じ曲とは思えないほどに変わっていくのを目の当たりにし、あらためて北村先生のすごさを実感したのである。
 初めて指導を受ける我々も真剣であったが、先生ご自身も、関大グリーの力を引き上げてやろうという思いがひしひしと伝わり、知らず知らずのうちに北村先生の世界に入り込んでいる者は多かったに違いない。我々にとっては本当に貴重な体験であった。
 レコーディングの当日も、東芝EMIの方との打ち合わせをてきぱきとこなされ、我々の緊張もほぐされながら、録音もその日の夕方に無事終了した。

 ある曲の録音中のことである。ブレスのときだったと思うが、突然私のオナカが「グゥ」となってしまった。「しまった!」と思ったが、とりあえず最後まで曲は進んだ。「よかった。大丈夫みたいや・・・」と思いきや、指揮を終えると同時に北村先生が私の方を振り向いて、「誰かオナカ鳴んなかった?」と笑いながら言われたので、赤面した事を覚えている。(無論、その曲は録音し直しとなった)

 数年前、関東在住のOBのうち何名かが「アラウンド・シンガーズ」という合唱団にて北村先生の指揮で歌ったと聞き、羨ましく思えた。私自身、レコーディング以降、もう一度北村先生の指揮で歌ってみたいと思いつつも、ついに実現する事はできなかった。時既に遅しであるが、悔やまれてならない。

 北村先生は、大学生等のアマチュア合唱団からプロの合唱団まで幅広くその設立や指導・育成に携われるとともに、それらの団体を率いての演奏会やレコーディングも精力的にこなされ、永年にわたり合唱を広く普及されてこられた功績は計り知れないと思う。

 あらためて合唱界の巨星のご冥福をお祈りしたい。


◆近藤大介・近藤大酒店総経理@慶應ワグネル89卒

「北村先生とワグネル、そして個人的な思い出」

 「北村先生が亡くなられた。」――深夜、ワグネルの亀井先輩から一報を戴いた。
 昨年6月に東西四大学の合同演奏を指揮された後に体調を崩されたと伺っていたが、その後回復されたと聞いていただけに大きな衝撃であった。その後葬儀はご親族のみの密葬でされると聞き、遠隔地に所在する私としては未だに「北村先生ご逝去」の現実感が得られないままに至っている。
 合唱を始めた高校の頃に「合唱のレコード」というものが存在することを知り、友人から借りて聴いた最初のレコードが、北村先生指揮の多田武彦「富士山」(演奏は創価合唱団であったと記憶している)であった。そこには自分たちが演奏した「作品第貳拾壹」と同じ曲とはとても思えぬ重厚にして華麗、そして何より強靭な歌の世界があり、その後の幾つかのレコードとの出会いにより「北村協一」と「福永陽一郎」という名を強く記憶することになった私は、前述の世界がつまりは「男声合唱」の魅力であると後に気付くことになり、大学でも男声合唱を選択するのは自然の流れであった。
 そしてワグネル・ソサィエティー男声合唱団に入団した時に上級生が東京六大学の演奏会に向けて練習していたのが「黒人霊歌」であった。それまでまともに黒人霊歌など聴いたことがない、また当時クラシックや声楽にそれほど強い興味を抱いていたわけでもなく、別室の新入生だけの練習の合間に聞こえてくる力強い響きに「本当にワグネルに入ったのだなぁ」などと実感し、「あの北村先生に指揮をして戴けるのだから、やっぱりワグネルは凄い」とそのことだけに悦びを見出したりしていたが、北村先生の練習の段になって、とんでもない「真実」が存在することに気付くことになる。新入生にしては物怖じしない連中の集まりだった我々は、別室での発声主体の練習は「つまらないもの」であり、早々に切り上げて上級生の演奏を聴かせろとサブ学生指揮者の馬場先輩に迫ったものだが、普段と違う緊張感張り詰める練習場で歌われていた「黒人霊歌」は、誇張でも大袈裟でもなくこれまでのものとは全く「別の曲」であったのである。リズム、テンポ、英語の発音、強弱のアクセント…全てがこれまでと違う。ほんの齧った程度の経験しかない私にもはっきりわかるほど「別の曲」であったことに驚いたが、一段高い場所で指揮をされている北村先生の表情は曇ったままである。そのことが当然団員にも焦りと緊張を生み、「本物の北村先生に会えた!」などという喜びなど起こり得ようもない、何とも気まずい雰囲気が漂う練習場であった。日を重ねるにつれ形にはなっていったように思うが、演奏会数日前にあともう一回練習日があると思われていた北村先生が「次は本番になります」と言われて、慌てて練習を追加された光景を記憶している。我々は東京六連のステージを「やっぱりワグネルが一番上手い」と無邪気に楽しんでいたが、その後のお話でも「どうにかやれたけど心底弾んでいるとはいえない」、そして事あるごとに「あの黒人霊歌は大変だったよ」とこぼされるほどであった。その後多数の団体の黒人霊歌演奏と較べると、確かに水牛に無理やりスキップをさせているが如くであり、先生のご苦労が偲ばれる。
 その後の東京六連でシーシャンティ、フォスター歌曲集と三年連続でご指導戴くことになり、当初ほどには先生にストレスを感じさせることは無くなってきたと思うが、やはりこれは最初のインパクトが強かったこともあろう。2000年の第125回定期演奏会で再び黒人霊歌を指揮して戴いているが、練習の様子などは訊いてはいないものの、この間振付けなどにも挑んでいることからも、当初のようなことは恐らく無かっただろう。

 北村先生は最後までワグネルでは何らの肩書きもないままであったが、所謂「常任指揮者」と合唱団が極めて親密でありお互いに理解を深めている関係であるとしたら、それと同様か、それ以上のものがあったことは疑いない。私の場合は1985~88年の現役期間であり、世代によってその関係のあり方に違いは当然あるものの、このことはご指導を戴くようになった1959年当時に現役であった方々からの、全く変わらぬ共通の認識であると思う。同年の第84回定期演奏会で「ロバート・ショウ合唱曲集」をご指導戴いたのが初登場ではあるが、ワグネル出身者が多く在籍した合唱団・東京コラリアーズでの邂逅があり、当時は結成間もないワグネル女声合唱団の常任指揮者をお引き受け下さっていたことからも、ごく自然に「ワグネルのメンバー」として活動されていたことは想像に難くない。何より畑中良輔先生をワグネルの専任指揮者にお招きするに当たって、北村先生のご尽力ご配慮があった上に、畑中先生が指向された「世界の音楽」の具現化-歌曲・オペラ・ミュージカル等の男声合唱編曲の演奏は、福永先生と北村先生の名編曲あってのことである。実際、畑中先生最初の第85回定期演奏会以降、両先生は毎年のように新たな編曲作品を提供され、また身内の如くパンフレットにも寄稿されており、わけても北村先生は合宿での悪ふざけの記述などもあって、ごく親しい関係の様子が伺える。歴代の学生指揮者の相当数が北村先生に指揮法を学んでいることはごく自然のことであり、北村先生ほどの指揮者が縁の下の力持ちとして支えて下さったことに、ワグネルは認識を新たにした上で感謝せねばならない。

 本稿執筆にあたり、北村先生とワグネルの演奏史を改め検証してみた。
(私なりに慎重を期して調べたが、間違い等については是非ご指摘願いたい。また編曲については他団体初演によるものや再演も含む。定期=定期演奏会、六連=東京六連、四連=東西四連。数字は回)

 1959  84定期 「ロバート・ショウ合唱曲集」指揮
 1960  85定期 ロンバーグ「学生王子」編曲初演
 1961  86定期 「トスティ名曲集」編曲初演
 1962  87定期 「古典イタリア歌曲集」編曲初演
 1964  13六連 ブラームス「運命の歌」編曲初演・指揮 ※89定期再演
     13四連 合同演奏・デュオパ「荘厳ミサ」よりCredo指揮
     89定期 「レイナルド・アーン歌曲集」編曲初演
 1965  90定期 「フランツ・リスト歌曲集」編曲初演
 1966  15六連 合同演奏・清水脩「アイヌのウポポ」指揮
 1967  16六連 「フォーレ歌曲集」編曲初演 ※92定期再演
 1968  17四連 合同演奏・清水脩「阿波祈祷文」「黙示」指揮
 1970  19四連 合同演奏・中田喜直「海の構図」(福永陽一郎編曲)指揮
 1972  21六連 マクダモット「Hair」編曲 ※97定期再演
         合同演奏・清水脩「歌碑」より“魚拓”、「黙示」指揮
 1973  22六連 ブラームス「運命の歌」編曲初演 ※98定期再演
 1975  24六連 ロンバーグ「学生王子」編曲 ※100定期再演
     24四連 合同演奏・清水脩「アイヌのウポポ」指揮
 1976  25六連 「デュパルク歌曲集」編曲初演 ※101定期再演
        合同演奏・清水脩「月光とピエロ」指揮
    101定期 ロジャース「南太平洋」編曲(合唱のみ、伴奏編曲は青島広志)
 1978  27六連 「トスティ歌曲集」編曲(曲目一部変更)・指揮
         ※103定期、畑中良輔指揮再演
         合同演奏・清水脩「アイヌのウポポ」指揮
     27四連 合同演奏・多田武彦「富士山」指揮
    103定期 多田武彦「草野心平の詩から」指揮
 1980 105定期 レハール「メリー・ウィドウ」編曲初演
 1981  30六連 合同演奏・多田武彦「蛙・第二」指揮(初演)
 1984  33四連 ブラームス「哀悼歌」編曲 ※109定期再演
 1985  34六連 「黒人霊歌」指揮 ※110定期再演
         合同演奏・新実徳英「祈り」指揮
 1986  35六連 「Sea Chanty」指揮 ※111定期再演
 1987  36六連 「フォスター歌曲集」指揮 ※112定期再演
  112定期 「フォーレ歌曲集Ⅱ」編曲初演
 1988 113定期 多田武彦「在りし日の歌」指揮
 1989  38六連 「フォーレ歌曲集」編曲 ※114定期再演
  114定期 「ロバート・ショウ合唱曲集」指揮
         J・シュトラウス「ジプシー男爵」編曲初演
 1990  39六連 「レイナルド・アーン歌曲集」編曲 ※115定期再演
  115定期 大中恩「おとこはおとこ」指揮
 1991  40六連 「トスティ歌曲集」編曲 ※116定期再演
     40四連 合同演奏・大島ミチル「御誦」指揮
  116定期 バーンスタイン「ウェストサイド・ストーリー」編曲・指揮
 1992 117定期 「ディズニー名曲集」指揮
         J・シュトラウス「こうもり」編曲初演
 1993  42六連 「デュパルク歌曲集」編曲 ※118定期再演
  118定期 清水脩「黙示」指揮
 1994 43六連 「古典イタリア歌曲集」編曲 ※119定期再演
  119定期 ロジャース「南太平洋」編曲・指揮
 1995 120定期 ブラームス「哀悼歌」編曲
         J・シュトラウス「ジプシー男爵」編曲
         多田武彦「在りし日の歌」指揮
 1996 121定期 ロジャース「オクラホマ!」指揮
 1997  46六連 多田武彦「雪明りの路」指揮 ※122定期再演
46四連 カントルーブ「オーヴェルニュの歌」編曲 ※122定期再演
  122定期 レハール「メリー・ウィドウ」編曲
 1998 47六連 清水脩「アイヌのウポポ」指揮 ※123定期再演
  123定期 清水脩「山に祈る」指揮
 1999 124定期 青島広志「11ぴきのネコ」指揮
 2000  49六連 新実徳英「あしたうまれる」指揮
  49四連 「レイナルド・アーン歌曲集」編曲 ※125定期再演
  125定期 「黒人霊歌」指揮
 2001  50六連 「Old American Songs」指揮
   126定期 多田武彦「尾崎喜八の詩から」指揮
 2002  51四連 別宮貞雄「淡彩抄」編曲初演 ※127定期再演
  127定期 多田武彦「中勘助の詩から」指揮
         ロンバーグ「学生王子」編曲
 2004  53四連 「トスティ歌曲集」編曲 ※129定期再演
  129定期 J・シュトラウス「ジプシー男爵」編曲
 2005 54四連 合同演奏・三木稔「レクイエム」指揮

 この他、OB合唱団の指導も度々お願いしており、常任である以上にワグネルとの深い関係を長期間に亘り築いてこられたことに、私は改めて驚きを禁じ得なかった。
 特に1978年では、畑中先生に替わり東京六連でご自身の編曲作品「トスティ歌曲集」の指揮、合同演奏「アイヌのウポポ」指揮(これらに加えて、立教グリー「岬の墓」の指揮もされている!)、東西四連で合同演奏「富士山」指揮、更に定期では木下保先生がご病気によりプログラムを降りられたことから急遽お願いすることとなり「草野心平の詩から」の指揮と、大ピンチのワグネルを救って余りある八面六臂のご活躍であり、これほどまでに尽くして下さったことに、何度でも言いたい、認識を新たにした上で感謝をいくらしても、過ぎることはないだろう。

 北村先生のご出身団体である関西学院グリークラブをはじめとして幾多の合唱団を指導されていたが、そうした演奏活動のご功績に加えて、個人的には先生の編曲作品を整理して是非出版できないものかと願望している。上記以外にも多数にのぼる名アレンジの数々は、レパートリーの少ない男声合唱界にとって貴重な存在であり、福永先生と並びその貢献はあまりにも大きい。最近でこそ楽譜出版の状況も好転して、福永先生の主要編曲作品は出版に至ったものの、まだ充分であるとはいえない。ワグネルで採り上げたものだけでも、フォーレ、デュパルク、アーン、トスティ等の歌曲、「メリー・ウィドウ」「ジプシー男爵」「こうもり」等のオペレッタ等、魅力ある男声合唱編曲作品が多数あるが、殆どは手書き譜をコピーするか、再演の度に清書して印刷といった段取りで、所謂「正本」が存在していない。福永先生の「さすらう若人の歌」(マーラー)、「ジプシーの歌」(ドヴォルジャーク)、「チャイコフスキー歌曲集」のように正式な形で出版する必要性を強く感じている。そうすることで一層広く膾炙され、これらの作品の魅力を多くの合唱団が知り得るだろう。特に楽譜制作が以前に較べ格段に進歩した今、このことを強く願わずにはいられない。

 練習では、曲の細かい点も見逃すことなく丁寧に作り上げていくことが多かったように思うが、寧ろそのちょっとした音符の扱いや発音、発声の方法を手直しすることで、曲全体の印象が全く変わってきてしまう驚きと感動にしばしば出会った。私如きが僭越で申し訳ないが、北村先生ほど楽曲の「つぼ」を心得た指揮者もいなかったように思う。また「普通の音はmf」「クレッシェンドは後半を大きく」「フェルマータは2倍の長さ」等、納得のできる解析で、北村先生の言葉一つで難解な楽譜が氷解していくかのような経験をした団員は少なくないのではないだろうか。練習の中で「セカンドの皆さん、その声は違います。腐っても鯛と言いますが、セカンドもテノールですからテノールの声で下さい。」等とユーモラス且つシビアな表現も頻繁にされたが、「ここはこうやってごらん」と指摘されて直すと音楽がダイナミックに流れ出す、それを団員たちが理解したことを歌う表情の中から掴まれると、「わかるでしょう?」と言わんばかりににこやかになる、あの表情は今でも脳裏に焼き付いている。

 合唱の指揮者として多数の団体を指導されていて当然多忙のはずなのに、我々にはそうした面は少しも見せることなく、いつも親しく団員に話し掛けて下さる大変気さくな方であった。学生指揮者や責任者といった先生方と接点を持つ立場の人間だけでなく、技術系全般や練習ピアニスト、更には演奏会マネージャーであった私も北村先生のお人柄に触れることが出来たのである。
 かつては幾度もされていることからそうでもなかったと思うが、北村先生は演奏会でのパンフレットに寄稿されることを好まれず、私の現役当時はインタビュー形式でのコメントを掲載することが習慣化していた。演奏会マネージャーに就任してからも、「北村先生は書いて戴けないから、お話を伺って纏めるように」との指示を受けたほどだが、同じ形式を3年も続ければ、演目以外での内容にそうそう変化をつけられるものでもない。特に私が最上級生の年は専任指揮者の畑中先生に加え、客演指揮者として皆川達夫先生と北村先生にご登場戴く豪華版となり、畑中先生と皆川先生からは早々に原稿執筆了解のご返事を戴いていただけに、「今年は北村先生にも書いて戴こう」との思いが高まったのである。
 秋に入って北村先生の最初の練習日、責任者と学生指揮者の了解を得た私は、休憩時間に「先生、今年のパンフレットなのですが…」とにじり寄った。いぶかる先生に「原稿を書いて戴きたいと思いまして。」と畳み掛けると、一瞬の当惑の後に明るい表情で「ああ、僕は書かないよ。だからいつも通りで。」と、あっさりかわされてしまった。私も(予想はしていたものの)あまりの簡潔なご返答に二の句が継げず、「はあ、わかりました。」とその時は引き下がってしまったのである。その後はやはり諦めようか、今までと同じ形式でやった方がいいかな、と逡巡したが、学生指揮者が北村先生に指揮法を習っていて親しい関係にあったことから、彼を真似て?多少図々しくも積極的にお願いをしようと決意し、次回の練習時に再度アタックを試みたのである。
 「先生、原稿の件なのですが、これまでずっとお話を伺っていましたので、今年は是非とも書いて戴きたいと思っています。お嫌いなのは存じていますが、お願いします。」
 「いやー、勘弁してよ。本当に嫌いなんだから。別にいいじゃない、今まで通りで。」
とまた断られてしまったが、にこやかであったことを勝手に脈有りと判断、とにかく粘り続ける方向でいくこととして、帰り際に三たび食い下がる。
 「先生、どうしてもお願いします。ずっと昔には書かれていましたよね。全然書いたことがないわけではないですよね。是非お願いします。」
 私のしつこさに呆れたのか、遂に先生も軟化された。
 「しょうがないな、大したことは書けないと思うよ。どれくらい書けばいいの。」
 そこで200字詰で5枚以内、期限は11月上旬と伝えて一安心となったものの、日を重ねるに連れて今度は別の不安がもたげ出した。期限となるべき練習日、ご持参戴けなかったのである。私も了解を戴いた後に督促するような、出版社の編集のようなしつこさまでは持ち併せていない。こちらは単なるアマチュア合唱団の一員、相手はプロの音楽家である。困惑を隠し切れず先生に迫ると、
 「ああ、ごめんごめん。忘れてた。次には持ってくるから。」
とあくまで明るいご返答。私としてはその言葉を信用するしかない。まさか原稿用紙を差し出して「ここで書いて下さい。」とはいえない(しかし、皆川先生は「お願いしていた原稿ですが」と切り出すと、「ああ、そうでしたね。原稿用紙お持ちですか。」とのご返答。今日持って帰って書くとなると次回の練習か、等と思っていたらなんとその場で書き始め、ものの数分で書き上げられてしまったのである!)。お約束したのだから書いて戴けるだろうと信じつつも、結局ダメとなればお話を訊くしかない。その原稿を作って入稿するとなると最終期限はいつになるか、ああ余裕をもってやりたかったのにやっぱりギリギリに焦るんだなぁ…と、最後の定期演奏会を控えて暗澹たる思いになるのだった。
 そして次の練習。私は泣きそうだった。「北村先生…」と近づいた時、次の言葉は必要なかった。
 「あっ! 申ーし訳ない! 忘れちゃったよ! 次には書いてくる!」
 もうそんな元気でいられる状況ではないのですけど…。
 次には書いてくるという定番?の台詞。期限はとっくに過ぎて、殆どダイレクトの入稿にならざるを得ない。しかしここまで粘って結局ダメでは虚し過ぎる。
 ここで私は、北村先生へお電話をした。然るべき立場の人間以外は、軽々しく先生へ電話などするものではないとの自らへの言い聞かせを破る形となってしまい、緊張に指は震えたが、繋がってみると留守番電話の応答(最近では考えられないが、北村先生の声であった)。半ば落胆、半ば安堵の中、「お願いしていた原稿の件ですが、今度の練習には是非お持ち下さい。お忙しいところ大変恐縮ですが宜しくお願いします。」とどうにか伝えることが出来た。
 今度の練習といっても電話の2日後のことで、あまりにも時間がないが印刷は待ってくれない。留守番電話の内容を無視されることが多いのは友人の多くが証明している。殆ど諦めて録音機能のついたカセットレコーダーを準備した上で練習に向かった。
 その日は大久保先生の発声練習日でもあった。入れ替わりに北村先生の練習となる短い休憩時間、責任者から「先生が呼んでいる」との声。2日前のことだから原稿はまだだろう、お詫びかな? それにしてもわざわざ呼ばれるとは…と纏まらぬ頭を抱えて隣の部屋へ。
 待っていた北村先生、格別にこやかな顔で、
 「ご免なさいね、迷惑かけて。電話まで貰っちゃって。」と、原稿を差し出されるのであった。
 私は信じられない気持ちであった。足が地についていない感覚であった。
 「良かったじゃないの、書いて貰えて。」
 大久保先生の声で、漸く我に還った。達筆で書かれた原稿用紙を手にして、どのようにお礼を述べたかも憶えていない。もしかしたらその日に「在りし日の歌」ソロのオーディションがあったかも知れないが、それも今となってはどうでもいい出来事である。ただ「これで今年のパンフレットが完成する!」と思ったことだけは、鮮明に記憶している。
 同年以降、北村先生に原稿を書いて戴くことが定例化したが、その後はすんなり運んだのだろうか。
 尤も4年後には「恐怖の原稿依頼」というタイトルで寄稿されているから、消極的であったことはお変わりなかったようであるが。
 定期演奏会終了後のレセプションで、お世話になった先生方にメッセージとサインをお願いしたが、北村先生からの色紙にはこのように書かれてあった。
 「大介君 1983.12.11 打ちあげの席で。 
 英語と日本語で四年間、きっちり一緒で、ワグネルだったね。最後の原稿は、僕の寄り切りまけ。でも、気持ちのいいつき合いでした。これ、アンサンブル。又よろしく 北村協一」

北村先生! ご冥福をお祈り致します。


◆前川和之・前川屋本店御主人@立教グリー88卒

「五反田のマンション」

 3月15日水曜日の午後10時すこし前、普段なら終点の東京まで乗る新幹線のぞみ号を、その日のぼくはひとつ手前の品川で降りた。
 山手線に乗り継いで数駅・・・五反田。北村協一先生のご自宅がここにある。

 先生の容態がいよいよよくないという連絡をもらったのが日曜日の夜半、もうすぐ日付がかわろうとしている時だった。月曜早朝から関西方面への所用があり、これは外すことができない。帰京予定は水曜深夜だ。仮に予定が早く終わるにしても、10時がギリギリだろう。それでも病院へは直行しようと思っていた。
 日曜深夜の連絡直後から、ぼくの頭の中をめぐっていたのは、合唱のレッスンや本番の思い出でなく、五反田のマンションでのことばかりだった。同期のキャプテンや技術系役員と一緒に選曲のミーティングをしたことや、同時期の協一門下生でばか騒ぎをしたこと。特に立教78回定演の自分のステージのビデオを肴に、やれここはアインザッツがみえないとかレガートが雑だとか、さんざん兄弟子から笑いものになった挙げ句、次に見た先生のステージではだれもが無口になり・・・「やはり先生のようにはいきません」とぼくが言うと、にっこり笑って「おまえもよくやったじゃないか」と言われたこと。そしてなにより、指揮法のレッスンでの1コマ1コマのことを、断片的に何度も思い返していた。

 五反田の駅を降りて、マンションへの道を、ゆっくりと歩いた。
 3年次でサブの学生指揮者に就任するのとほぼ同時に、先生の自宅で指揮法のレッスンをつけていただけることになり、はじめてこの道を歩いたのが、1986年の春のことだった。
 あれから、もう20年。自分の人生の、半分だ。

 先生のレッスンは、ともかく理論的、かつ具体的だった。さらにいえば基本重視で、本番での派手なアクションや、例の「腰振り」や、そういったことはまったく教えてもらえなかった。
 最初のうちは、ひたすら「姿勢」「脱力」ばかりさせられた。背筋をピンと伸ばして、胸を張って、それでいて脱力した状態。鏡の前で、ただただ立ち続けるだけ。「ありとあらゆる関節の状態を覚えなさい。どういう状態が、自分にとってもっとも脱力できている状態なのか、覚えなさい」これだけで1回のレッスンが終わってしまうのだ。次の回では、だらりとたらした右腕に、指先から力を入れてゆき、そして脱力する練習。はた目ではほとんど変化がないのに、「ほら、そこの洋服のしわ、さっきと違ってるよ。」なんて細かいところまで見ているんだろう。その次は「落とし」。腕をななめ前方に上げる。先生が手拍子を「パン!」と鳴らすのと同時に、上げた腕をストンと落とす。鏡に向かってまっすぐ立ったり、横向きで立ったりしながら、それを何度となく繰り返した。その都度先生から、肩やヒジの脱力具合のチェックが入る。そしてこれは、レッスンが進んでも毎回必ず行ったものだった。「しかしお前はチカラが入ってるなぁ。お前が力めば、歌い手はもっと力むよ。」
 歌い手の生理に逆らわないこと。とくに合唱団員が声や表現をあわせるためには、まず前に立つ指揮者が力まず、のびやかに息をしていること。
 例えばゴム鞠が弾むようなビート感、これは先生らしさの一つとして誰もが認めていた点だが、それはなにも、あの突き出たおなかが丸々としているから、それで派手に動くから、ではない。脱力と一瞬の緊張・・・その絶え間ない交錯が、あの動きのなかで、歌い手にしっかり伝わるからなのだ。

 マンションのエントランスに着いた。エレベータの前に立って、しばらく躊躇したが、やはりボタンを押した。ドアが開き、ぼくはエレベータに乗り込んだ。目的の階数へ指を伸ばし、エレベータは動きはじめた。
 エレベータのドアが開いた。エレベータの出口から玄関まではほとんど距離がない。おまけに窓もない。息苦しいスペースだ。
 20年前には、ここに自転車が置かれていた。ゆうぽうと(簡易保険ホール)での演奏会の時には、いつも自転車通勤だった。
 今は、その自転車はなかった。かわりにあったのは、2005年のアラウンド・シンガーズ「アメリカ公演」の大きなポスター(パネル)だった。

 実は、ぼくはアラウンドに一度も参加したことがない。先生の還暦コンサートには参加したが、それ以降の、いわゆる「ドリームチーム」としてのアラウンドには、参加せずじまいだった。卒業後もずっと合唱を続けていたのに、なぜアラウンドに参加しなかったのか、それは男声合唱が嫌いになったからでもないし、もちろん先生が嫌いになったからでもない。他の合唱団が忙しかったからだ。しかも、ある種大規模男声合唱とは対極の活動にのめりこんでいた。
 卒業してからのぼくは、ルネッサンス・ポリフォニー主体で活動する小規模アンサンブルに参加していた。そこでは、やれジョスカンだモンテヴェルディだジェズアルドだといった選曲で、歌い手としてはカウンターテナーの真似事をしたりしていた。また、オリジナル楽器、イギリスからのソリスト招聘、更にアルトソロは、「もののけ姫」ブレーク前、まだ駆け出しの米良美一と言った、小さいわりにはちょっと派手な「メサイア」をやったりした。学生時代には皆川教授の下でポリフォニーには親しんでいたものの、小編成で「オーセンティシティ」を意識しながら取り組む活動は、これまでになく新鮮だった。小編成ということは、一人が練習を欠席するダメージは、大規模合唱と比較すると、はるかに大きい(もちろん大人数だと休めるという意味ではないが)。ましてやそこでぼくは、マネージメントの中心に立つのと同時に、練習での下振りまでやっていた。だからアラウンドが(あるいはOB合唱団が)あるからといって、掛け持ちで時間を割くことは、物理的に許されなかったのだ。
 でも、そこでぼくが実感していたのは、「協一イズム」の普遍性だった。
 もちろん、音楽(というか芸術)には、「様式観」という概念が存在する。しかし、その様式観を下支えする具体論、技術的バックボーン、それはそうそう変わるものではなかったのだ。
 特にそれは、下振りの時に痛感した。
 先生のレッスンでは、左腕・左手を使うことは、ほとんどなかった。あの変化自在のバトンテクニックからはにわかには想像できないかもしれないが、最低限のことは「全て右腕で表現できる」これが先生の持論だった。フォルテ、ピアノはいうに及ばず、マルカート、レガートの区別、これは右腕で表現できる。テヌートとスタッカート、これも右腕で表現できる。フレーズのあたまとおわりを、いかに棒で表現するか、歌い手に出すブレスのキュー、これも右腕一本で伝えられる。駆け出しのぼくがそれをやろうとしても、歌い手にはなかなか伝わらないことも多かったが、それはぼくが下手くそなだけであって・・・少なくとも先生は、そういうテクニックこそ身につけるべきと教えていた。また先生は、意味もなく左腕が動く、というか無意識のうちに動いてしまう指揮者の多いことを嘆いていた。動きはひたすらシンプルに・・・右手ひとつに、みんなの意識を集めなさい。それが先生の教えだった。そして、右腕・右手でそこそこ表現できるようになってようやく、左腕・左手の使い方を少し教えて下さるのだった。
 少人数で歌うとき、とくにポリフォニーを歌うとき、意味もなく腕を動かしたんでは滑稽なだけ。では機械的にビートを刻めばそれで音楽になるか?なるわけがない。ゆったりとした流れを表現するときのなめらかな動き、リズムをしっかり刻む部分での瞬発力を生かした動き、それらを右腕の小さな動きのなかに凝縮してゆく・・・すべて先生に教えてもらったことが生きた。しかも、ポリフォニーにおいて、各パートのフレーズのアタマでキューを出したいと思うと・・・まずはそのパートのほうを向く。その方向で、右手で振れば、それで充分伝わった。それでもやっぱり左手を使いたい、となるのだが、常時左手を使っていると、やたらせわしなく動くばかりで、肝心のキューが見えなくなる。左手を使わずじっと我慢すること。これを教えてもらっていたからこそ、コンパクトな動きの中でポリフォニーの線を浮かび上がらせるコツがつかめたのだと思う。
 ぼくはアラウンドに参加しない不肖の弟子だった。でも、先生に教えていただいた技術で、少し毛色の違った音楽をするということについて、先生と直接お話することはなかったが、決して否定はされなかっただろう、そう信じたい。

 アラウンドのポスターには、先生の写真だけでなく、同じく指揮者として同行された畑中先生の写真もあった。

 東京六連では、26回以降、必ず「福永陽一郎」「畑中良輔」そして「北村協一」の名前が並んでいた。立教の指揮者といえば、それは先生だった。
 変化が起きたのが32回。慶応ワグネルの木下先生が亡くなられた。ワグネルは、東西四連は畑中(ブル)先生が振り、一方の六連では、客演的な指揮者をブル先生が選ばれるようになった。結果、ブル先生の名前が六連のプログラムから消えてしまった。
 そして34回、ブル先生が白羽の矢を立てたのが、他でもない先生だった。「ワグネルで、黒人霊歌を」というリクエストだった。
 かわりに立教が、ブル先生に指揮をお願いすることになった。それは、合唱連盟の機関誌「ハーモニー」の中で、陽ちゃん先生が「一大事件」とまで称したほど、センセーショナルな出来事だったようだ。
 六連に、もう一度、あの3人の名前が並んだ。そして、ぼくたちの運命が、変わった。
 一回限りの約束が、次の年もということになり、そして3年目、ぼくたちの代になってもやはり、ブル先生に指揮をお願いしたい、そう同期の仲間と話し合った。ブル先生は当初、「協ちゃんを、立教に返してあげないといけない」といわれていた。もちろんぼくたちも、先生とのステージを数多く作ることを望んではいた。特に春のシーズンに、先生とのステージがないのは問題だった。だから、不定期だった「同立交歓演奏会」を京都で行うことを決め、その指揮を先生にお願いし、その上で「3回目のブル先生」にアタックした。
 結局、ぼくたちの代がオンステできる3回の六連は、全てブル先生に指揮をお願いすることになった。歴代の立教OBの誰もがうらやむ、「Zigeunermelodion」「Liebeslieder」そして「Tchaikovsky」というラインナップでの、3回の六連だった。
 ぼくたちは、ブル先生に指揮をお願いできた幸せを感じながらも、本来はお願いするはずだった先生に対しても、恥ずかしくない六連のステージにしようと誓った。そして同立や、定期演奏会での最終ステージで、先生をホンキにさせるぞ、と意気込んだ。
 先生としかできない音楽、そして先生をホンキにさせるための、選曲。久邇先生のピアノが派手に鳴りまくる曲もいいけれど、やはり、アカペラだ。同立はスピリチュアルズ、そして定期では「尾崎喜八の詩から」、そのアンコールに「からたちの花」を選んだ。
 特に「からたちの花」、あれは、マジックだった。
 先生は「喜八」の練習中、あまりの出来の悪さに何度も雷を爆発させていた。先生のレッスンがまだ「喜八」に集中していて、アンコールまで手がまわっていなかった頃、不安に感じられた大久保(ダグ)先生から、「アンコールは『からたち』なんだって?本当に大丈夫?一度聞かせて」といわれた。ボイストレーニングの合間に、ぼくの棒で聞いていただいた。そうしたら「ああ、こんなひどい『からたち』は聞いたことない」と言われてしまった。こういう小曲でのダグ先生は、ほんとうに厳しいのだ。
 本番も近づきレッスンも大詰め、なかなか形にならない苛立ちが、先生とぼくたちの間で募っていく・・・すると普段は余計な話など一切されない先生が、「からたちのそばでないたよ」の部分で、話を始めたのだ。先生は、白秋の詩に、自分の学生時代の思い出を重ね、「立教にも芝生があるように、関学にも芝生がある。そこでのみんなの思い出だ」といわれた。そして、「みんなみんなやさしかったよ」で、「『さ』のフェルマータのあとの『し』は無声音で。八分音符ではなく、『か』の前にひっかけるように。これは作曲者が後で関学に来たときに直接言っていたことだよ」と技術的な解説をされた。そこまで話して、次に音にしてみた。先生は、『さ』だけでなく、『か』にもフェルマータをつけた。そして軽く拍をたたいて促音の『っ』を絶妙のタイミングで揃えた上で、次の『たよ』を、モルト・ルバートで締めた。一発で、決まった。
 マジックには、タネがある。でもあの「みんなみんなやさしかったよ」こそ、超一流のマジシャンにしかできない、超一流のマジックだった。
 この経験は、後輩たちにもしっかり受け継がれた。その後の六連で立教は、先生の棒でこれでもかこれでもかとアカペラに挑み続けた。
 そうして生まれた「優しき歌」や「雨」。これらは、たとえるならば晩年のジョージ・セルとクリーヴランド管弦楽団の演奏のようだった。合唱としての基本的な機能・技術をつきつめめてなお、さらに先にある何か、精密さの先にある「何か」を求めていた。
 六連という舞台。立教にとってそれは、かけがえのない場所だ。そこでの後輩たちの演奏に対し、誇りに思う。ぼくたちの3回目の六連、ひょっとしたら先生を裏切ってしまったかもしれないのに、その後も先生は、プロのしたたかさと、学生男声合唱出身者ならではの熱いパッションを持って、あの「からたちの花」をはじめ、かけがえのない音楽を残して下さった。
 でも・・・そのかけがえのない音楽を、六連で先生と共有することができなかったことに対し、ほんの僅かな後悔の念が、ぼくの心をよぎる。

 先生が亡くなったという報を受け取った月曜深夜から翌朝にかけて、ぼくが滞在していたホテルの窓の前は、冬の終わりの最後の雪だった。ウィンナ・ワルツのような高雅さはなかったが、先生とぼくの最後の舞踏だった。

 「北村協一」という表札のあるドアの前で、途方にくれてしばらく立ちすくんでいたが、また意を決してチャイムを押した。ピンポン、という電子音が鳴った。
 20年前は「はい、入って!」というしわがれ声がした。ドアを開くと、そこには「ラーク・マイルド」で髭が少し黄色くなった先生の顔があった。
 でも、今は、何も応答がない。もう一度押した。しばしの沈黙・・・やはり応答はない。
 そこであらためて、先生が亡くなってしまったことを、実感せざるを得なかった。

 もし間に合ったら、病院へ直行して、先生の意識の有無にかかわらず、やろうと思っていたことがあった。それは、先生の前で、シャドウ・ボクシングならぬ「シャドウ・コンダクティング」をすること。あの頃、先生の下で指揮法のレッスンを受けていたときのように。おそらく音もない静かな病室で、窓ガラスを鏡代わりにして、ベッドの先生に見てもらおうと思っていた。
 でも、間に合わなかった。
 ぼくは出張鞄を床に置いた。そして、開かなかったドアの前で、ぼくは右腕を振り上げた。

 St. Paul's will shine
 St. Paul's will shine
 St. Paul's, St. Paul's, St. Paul's will shine
 St. Paul's will shine to-night, St. Paul's will shine …

 終わったところで、ぼくは、この悲しい知らせを受けてからはじめて、涙を流した。

 先生、ほんとうにありがとうございました。
 ご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

                          2006.3.18
 先生が現役だったら「TOKYO-FM」に入れたいと思っていた長男の、6歳の誕生日に
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テーマ:合唱 - ジャンル:音楽

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