昔語りをするほど昔のことを知っているわけではありませんが、恐らく1950年代初頭、コール・フリューゲルの分裂や東京グリークラブ(後の稲門グリークラブ)設立、東京六連や東西四連の開始の頃に、まず最初のIDマークが作成されたようです。
これは以下の図(第27回東西四連レコードジャケットの一部)のように、八分音符に重ねてG・L・E・Eのロゴを「W」形に配置したものです。図は上から早・慶・同・関で、早稲田以外はこれが襟章或いはバッジのデザイン。
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但し、第25回四連や前出の第27回四連のレコードジャケットのように、他団の襟章或いはバッジのデザインと一緒に何らかのIDマークを掲載する必要が生じた際は、このデザインを使用していました。
なお、早稲田グリーのIDマークとしては、上記デザインの他、団旗(臙脂地の左上に稲穂の校章/下辺にGleeClubのロゴ)、そして「楕円形」(楕円形の中にト音記号・五線・「GleeClub」のロゴ)があります。団旗は1952年の第1回東西四連に際して、関西学院グリークラブが4団体の団旗を一括して制作したもので、それで団旗の大きさが同じとなっています(当時これを見た聴衆は「おおっ、大きさが揃っている!」と唸ったそうです)。「楕円形」については調べたことがありませんが、「TOKYO JAPAN」と入っていることから、恐らく第3回世界大学合唱祭(1972)の頃にデザインされたのではないか、と推測しています。
下図、ご参考までに「早稲田大学校章」と「楕円形」。
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以上につきましては、当事者の方々の更に詳しい情報をお待ち申し上げます。
さて1970年代以降、関学・慶應・同志社が襟章か或いはバッジを持っている一方で、早稲田がそういった小物を持っていないことについては、「メンバー一人一人の存在こそが早稲田グリーのIDマークである」みたいな早稲田らしい思考があったのかも知れません。とは言え、近現代のいくつかの世代でスタジャンやウィンドブレーカーを制作し、背中に「WASEDA UNIV. GleeClub」と大書きしていた事実もありますので、その辺の整合性は取れていません。これも早稲田らしいといえば早稲田らしい。
ちなみに1988年度で制作したウィンドブレーカーは、下図の通りで、紺/白のリバーシブル。
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やや脱線しますが、このウィンドブレーカーでは、創立が1908年となっていますが、現在は1907年とされています。この変更の背景は、1907年の早稲田大学校歌制定式典において、これを歌った「声楽部員」なる存在が文献に残っていると言うことで、1990年代前半にOB会において便宜上の創設年を決定しよう、という議論がなされた際、推論として、1907年の校歌制定記念式典で模範演奏をするために「声楽部」が創設され、これが現在のグリークラブの前身だ、ということにした、従って早稲田グリーは校歌と同じ年に生まれ、校歌と共に歴史を歩んできた、という美しいストーリーになっています。ちなみに校歌制定に関する大学の正式な資料にはそういうストーリーは無く、あくまで「声楽部員が歌った」とだけあったように記憶しています。なので、もっと前から合唱を楽しむ大学公認の集団があったのかも知れないし、声楽部とは別系統の音楽集団がグリーの前身なのかも知れないし、それは分かりません。
山古堂主人が現役の頃では、茫洋とした歴史の中で史実は分からない(これが本当のところだと思いますよ)けれども、校歌制定の際に模範演奏をした寄せ集めの急造合唱団が、翌年から正式に演奏活動を開始した、という解釈で、校歌制定から1年遅れの1908年創立とされていました。確か1986年度のグリークラブ部長が「第78代」を名乗っていたことも根拠の一つであったと記憶していますが、これもまあ、歴代部長を初代まで遡れる訳でもないから、確証にはならんでしょう。
さて、現行の襟章について。
山古堂主人が4年生になる直前の1988年早春、練習部門の中で「早稲グリのロゴの入ったスタジャンやウィンドブレーカーは各学年で作るのに、レセプションなどの公式の場で使えるような、例えばブレザーのワッペンとか襟章が無いよね」という話があって、ぢゃあ作ったら使うかな、でも同志社グリーみたいな立派なワッペンは5千円以上になるから買えない人もいる、襟章なら初期費用は少々するが1個当たりなら数百円だろうし、どうだろう、ということで、襟章の作成を団員に諮ったところ、特に否定意見も出ず、ステマネや外政を含む7割程度の団員はむしろ積極的に賛成したのでした。
そこで、この話を提議した山古堂主人がいくつかデザインを起こして、団員に提示しました。実家に戻ればどこかに保存してあると思いますが、基本は大学公認デザイン、つまり体育会団体や応援団などの3本縞(後述)、入学時に大学からもらう「W」型の学部襟章、その他に近所の文房具屋で売っている様々なオリジナルバッジ等々の数種類を基本として、これにグリーのロゴを組み合わせる方針とし、長年の使用に耐え得るオーソドックスなデザインを目指しました。
ちなみに下図が、入学に際して配布される学部襟章(画像は法学部のもの)。
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このデザインで団内に提示し賛同を得て、3月下旬に大学正門近くの「KY商店」に持ち込みましたが、七宝焼の型を起こすところからなので納期が予想よりかかってしまい、1988年度の新入生勧誘活動や東京六連には間に合わず、確か第15回早慶交歓演奏会が最初の使用だったと思います。この襟章は団員にも四連の他団にも概ね好評で、特に黒地で地味な襟章(笑)の関西勢からは羨ましがられた記憶があります。
下図、KY商店に持ち込んだ原画と、完成した襟章(以下、現行版襟章と略す)
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ちなみに同志社グリー1988年度幹事長の栃木義博氏/栃木屋香阪堂ご主人の襟章が、何故かこの16年間ほど手元にあるので(爆)、ツーショット。
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以上の通り、デザインに独創性があるわけでもありませんし、この現行版襟章は「山古堂主人が作った」のではなく、1988年度の早稲田グリーが作ったものです。
なお、この現行版襟章の団内配布に関して、山古堂主人の同期で最も腹黒い(笑)三瓶雅夫君と策を練って、夏合宿で初めて上級生練習に合流して散々に疲れ果てた1年生に、最終日にキャンプファイアを囲みながら、4年生が現行版襟章を手渡し、一献の酒を酌み交わして、「入団以来この半年良く頑張った、これで君たちも正真正銘のグリーメンだ」とか言って泣かせると言う、極めて「ニッポンの抒情」的な演出をする手段としても使い、単なる帰属意識以上の意味合いも出すように仕組んだりしました(・・・でもこの演出、実は4年生をも感慨のあまり黙らせてしまうのでした)。4年生が費用負担して現行版襟章をプレゼントするこの儀式は、恐らく現在でも踏襲されているのではないかと思います。
また、当時ベースパートリーダーであった山古堂主人が、この襟章の管理を担当し、卒団時に次期ベースパートリーダーの鈴木健司君/1990卒に管理を任せたことから、代々のベースパートリーダーが襟章を管理する伝統になっています。
他方、現行版襟章に関して否定的な声が一部OBから出ました。
この1988年の第37回東西四連で、早稲田グリー単独ステージにおいて樋本英一氏を指揮者に迎えたところ、早稲田グリーOBの堀俊輔氏/1975卒が卒団後に東京芸大・指揮科に進み、そこで樋本氏と同級のライバルだったことから、一部OBから「何で堀氏がいるのにわざわざ樋本氏なんか呼ぶんだ!」と猛反発を受けたのですが、そのとばっちりで「由緒正しい襟章(つまり稲グリ版襟章)があるのにわざわざ別の襟章を作りやがって、二重に喧嘩売ってやがる」と言われた事は、強く印象に残っています。
まあ、現役は新しいことをやりたがり、OBは偉そうに現役を指導管理しようとするというこの構図は、大学のクラブに限らずニッポン社会全体として、ごく当たり前のことなので、別に何を言おうと/何を言われようと、相手のいう事が腑に落ちれば受け入れ、腑に落ちなければ、受け入れないか徹底議論すれば良いのですが、ただこの1988年については、OB会のごく一部の人間がちょっとラジカルにやり過ぎた。丁度50歳前後の、サラリーマンとしても偉くなり、脂の乗った方々が少なくなかったことや、そのためにOB会も活性化し、資金も潤沢になって、現役に金と口の両方を出す素地が整っていた(金は山古堂主人が現役の頃には出してもらってませんが)こともあったのでしょうが、上記の「樋本氏招聘事件」に際して、「そういう、OBを大切にしないような現役(この論理と言い草だけでも変です)に対しては、今後OB会は一切の協力をしない」と言い放ち、同年の早慶交歓・四連・定演において、これまでOB会=稲門グリークラブとして行ってきたOB会員・稲門グリーメンバーへの現役演奏会の宣伝とチケット販売斡旋を、一切行わない、と現役に宣告し、実行しました。無論これを首謀・主導したのはOB会のごく一部なのですが、実行したのはOB会です。
また、「今後コバケンさんを呼ぼうとしても、OB会の人脈で梶本音楽事務所に圧力をかけ、呼べないようにしてやる」とまで言われました。何と幼稚な!
でもまあ、チケットの件もコバケン先生の件も、現役のOB担当マネージャーを呼びつけて通告したのだから、正式の通告、でしょう。
結果としては、集客数に何ら影響はなく、1970年代後半以降卒のOBでは、むしろ積極的にチケット販売に協力して下さった先輩もおられました。そういう先輩方には今でも感謝している一方、第36回定期演奏会(1988)の幕間に、ロビーで「おい、今年の現役は全然ダメだな/こじんまりして早稲グリじゃねえな」とわざわざデカイ声で聞こえよがしにのたまった1960年代卒のOBも複数いるのでした。この定演の終演後、レセプションでスピーチしたOB会の代表者も「早稲田グリーは各世代が連綿と受け継いできた」とスピーチしたまでは納得出来るものの、それに続いて「OBあっての現役」「OBを敬え」的な論理転換をしたのには、思わず苦笑してしまいました。なんだ、ごく一部のOBぢゃなかったのね、と。いつの演奏会とは言わないが「声量だけのバカ声で乱雑なコーラス」を「いやあ、スゴイ声量だった、大成功だ、ボイストレーナーの山本健二氏/1956卒の手柄だ」と絶賛するOBがいたのも恥ずかしいが、更に後輩を声高にけなすことで自分の首が締まるアホぶりを、後輩の演奏会のロビーでひけらかすOBが、OB全体からすればカスみたいな比率とは言え、本当にいたことも、心の底から恥ずかしい。
そもそも樋本先生を招聘したのは、作品委嘱や舞台美術や高額指揮者の招聘などで派手な演奏会を主宰した1980年代中盤の卒団生の未納金が、総額で400万円にも達し、しかも以前記した通り、1988年度の現役はそういう未納金を払っていない世代の「指導」のせいか(笑)、人数がやや少なく、個人負担がイヤでも増加せざるを得なかった中、それまで早稲グリが招聘していたようなビッグネームを呼ぶには、あまりにお金がなかったからのです(別に樋本先生の絶対額が安かったと言いたい訳ぢゃありませんので、念のため)。1988年の現役は、1980年代のOBの未納金のせいで、1950-1960年代のOBからいたぶられた、とも言えましょうか。
正しく言うと、費用の問題も勿論ありましたが(爆)、樋本英一先生は前年(1987)の三女連(共立女子大学合唱団、日本女子大学合唱団、立教大学グリークラブ女声合唱団のジョイント・コンサート)の合同演奏において新実徳英「失われた時への挽歌」の指揮をされ、それが非常に好演であったことから、早稲田グリーをお預けしたのでした。そして樋本先生が「男声で一度、岬の墓をやってみたかった」と仰ったことから、早稲田グリー第37回東西四連の演目が決定したのでした。
ともあれ、1988年制作の現行版襟章については、以前OBメンバーズ掲示板に記した通り、1960年代卒のOBの方々からは「なぜ稲門グリーの襟章を使わないんだ」と叱られ、1970年代卒のOBの方からは「四連・六連の中で早稲田だけ襟章が無い、それが早稲田らしくて良いのに、何でわざわざ襟章を作ったのだ」と叱られ、1980年代のOBの方々からは「俺も買う」と言われました。この言葉たち、様々なことを端的に表しておりましょう。
以上、史上最悪のOB干渉(と思う)に関しては、当時の4年生で対策会議を開きつつ、下級生が動揺するかも知れないからと秘密にしたので、あまり知る人がいないことではありますが、将来への予防の意味も込めまして赤恥を晒しておきます。また、山古堂主人とて、その首謀者数名を一生軽蔑するとしても、その他のOBの方々に対して、或いは現在のOB会に対して他意を持つものでは全くありません。例え今でも山古堂主人に他意を持ちアナログ音源デジタル化プロジェクトを妨害する、ごくごく一部のOBがいるとしても、その他の大勢のOBの方々の御協力があってこそ、デジタル・アーカイブが着々と完成に向かっているのですから。
話を戻しましょう。
早稲田大学グリークラブ百周年を記念して新しい襟章を作るのも、襟章を実際に使用する現役が純粋に独自で判断した結果なのであれば、あるいは百周年に限らず、今後現役が自由な発想で新しい襟章を作るのであれば、それは全く異論をはさむべきことではない、と思います。ただ、やはりIDマークとしての要件、即ち自他共にひと目で早稲グリと分かる事、好き嫌いの生まれにくいデザインであること、そしてこれが重要ですが、一部の人間だけで走ってしまうのではなく、早稲田グリーの総意として作ること、といった最低限の要件は考慮すべきでしょう、ちょうど1988年度の早稲田グリーが現行版襟章を作った時のように。