fc2ブログ

合唱音源デジタル化プロジェクト 山古堂

早稲田大学グリークラブOBメンバーズ<特別編集> 真性合唱ストーカーによる合唱音源デジタル化プロジェクト。


第5回 東西四連って何? その1


山古堂主人のさして広くない交友関係の中ですと、「東西四連」という言葉を当たり前のように使っても知らぬ者はないのですが、このインターネットの世界は間口が12741.9Kmほどありますので、この言葉の説明も必要ですよねえ、、ってことで、今回のシリーズを掲載します。

「東西四連」は、大学男声合唱に関係した方のうち、特に関東・関西地区にお住まいの方にはピンとくる略称です。
でも混声・女声一筋の方には一生を送る上で全く関係ないモノかも知れません。山古堂主人の知る限りの挿話を備忘録的に交えながら、いくらか脱線しつつ、改めて解説しましょう。
なお、内容に誤りがありましたら御一報下さいませ。

「東西四連」の正しい名称は「東西四大学合唱連盟」で、通常はこの連盟が開催する「東西四大学合唱演奏会」を指します。東西四大学というのは、これも正しくは関東・関西それぞれ2校ずつの大学男声合唱団を指します。創立された順に、下記の4団です。

関西学院グリークラブ(1899年創立)
慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団(1901年創立)
同志社グリークラブ(1904年創立)
早稲田大学グリークラブ(1907年創立)


ご覧の通り、早稲田だけが「大学」なんですねえ(笑)
基本ですが、関西学院は「かんせいがくいん」と読みます。正式なローマ字表記が「Kwansei Gakuin」なので、一部の事情通は「くゎんせいがくいん」と読みます。
ついでに慶應義塾の「義」は鼻濁音ではありません。

さっそく脱線。
聖歌隊の延長として誕生した男声合唱団に英米風の「グリークラブ」と最初に名付けたのが、日本最古の大学男声合唱団・関西学院グリークラブで、この命名が他大学にも浸透し、男声合唱団の代名詞となって行きます。
その後聖心女子大学グリークラブのように、女声合唱団でもグリーと名付ける団が出てきますが、本来的には性別に関係有りませんから、全く問題ありません。
グリーとは「喜び」というような意味の英語ですが(じゃ「喜び組」はグリークラブ?)、そういう気持ちにさせるような曲のジャンル、「Glee」とか「Catch」と呼ばれるジャンルが、18世紀から19世紀のイギリスにあったのです。
社交クラブやパブに集う男性諸氏が楽しむ多声部の小曲、って感じでしょうか。
第1回世界大学合唱祭(1965年に米国ニューヨークにて開催、日本からは関西学院グリーが招待出場)にて「Glorious Apollo」という男声による合同演奏曲があり、その解説に「1780年ロンドンにて、最初のグリークラブのために書かれたグリー曲」とあります。
また、早稲田グリー第12回定期演奏会(昭和39/1964)にも「Five Glees」というステージがあり、
 1)The Bells In The Steeple(曲:Giuseppe Sammartini)
 2)Punch, An Emblem Of The Medium Of Life(曲:Thomas Arne)
という2曲の録音がライヴレコードに収録されています。

慶應がグリークラブとならなかったのは、詳細はワグネル百年史にありますが、要はドイツの後期ロマン派の巨匠、リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)への敬意を顕し、その名を冠したからです。
そもそも慶應は実学を重んじ、先進国ドイツの経済・法律・医学・文学・芸術等の摂取に熱心で、恐らくはその一環で、音楽においても東京音楽学校(東京藝術大学の前身)から指導者を派遣してもらい、学生によるドイツ音楽の実践を奨励したでしょうから、明治34(1901)年当時にワーグナーの目指した総合舞台芸術を実践しようというのはまさにドイツ文化摂取の先端を行くものであり、また慶應の塾生の自尊心を満たしたに違いありません。

で、復線。
この4大学の合唱団は、戦前の大学は女学生さんがいなかったので、いずれも男声合唱団です。
4団とも全て明治時代に活動を開始し、このうち関西学院は戦前・昭和8 (1933) 年の第7回競演合唱祭(今の全日本合唱コンクール)に初出場でいきなり初優勝しちゃう(笑)。
しかもその後何と3連勝して「関学旋風」を巻き起こします。
関学らしいですねえ。
ちなみに昭和10(1935) 年に3勝目を挙げた時の自由曲が、かの秘蔵の名曲「U Boj」。
また早稲田も昭和7(1932)年の第6回競演合唱祭から参加して、昭和15(1940)年の第14回合唱競演会(と改称)で遂に初優勝しました。
その時の学生指揮者が「遥かな友に」作曲者の磯部俶氏/昭和17(1942)卒で、その時の自由曲は「婆やのお家(本居長世作曲)」。
慶應も戦後の一時期に合唱コンクールに参加していますが、あまり成績は芳しくなかったようです。
慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団は、1960年春に畑中良輔氏が合唱指導に加わってから発声が劇的に向上し(畑中先生の述懐では「初練習の数時間で声が変わった、それくらいワグネルは何も知らなかった」そうです)、1960年代中盤からは東西四連でも他の3校を凌ぐような優れた演奏をするようになります。同志社は、後述しますが目の上のくゎんがくが如何ともし難かったようで。

さて、合唱コンクールで好成績を挙げるくらいですから上手い、いや違う、基本的にライバル関係なわけで、この4団の中でもあまり仲のよろしくない、ある一つの組み合わせが1960年代初まで存在しました。
まず早稲田/慶應(以降、大学名の順番は順不同です)は、もともと野球やレガッタ等のスポーツから始まった、まさに大学挙げての好敵手同士で、別に仲が良いとか悪いとか取り立てて言うまでも無かったのですが、早稲田/関学の関係はというと、とにかく早稲田はコンクールでなかなか関学に勝てなかった中で、それでも2、3回は関学を抑えて優勝したりしていたので、ライバルではあってもまだ感情的なレベルまでには踏み込まなかった様子。
今でも古い早稲田グリーOBの中には「あの時変な審査員が一人いて、もしこいつが普通の点を付けてくれていれば優勝出来たのだ」、あるいは古い関学グリーOBの中にも「あの時早稲田に負けたのが悔しくて悔しくて、今でも夢に見る時があるのだ」などど、ニコニコしながら40年以上も前のことをつい昨年のことのように言っていて、大変に微笑ましい(笑)。
後述しますが、早稲田と関学ではその当時から現代に至るまで一貫してその演奏スタイルが異なるので(爆)、そこにお互いに認め合う部分もあった訳です。きっと。
これが東西四連設立の伏線になります。

ところが関学/同志社たるや、犬猿の仲を錦絵に描いて金ムクの額縁に入れたような間柄であったようです。
ええ、ギラギラの犬猿の仲で、イメージ的に関学が犬で同志社が猿?(また脱線しますけど、徹底した反復で仕上げるような練習を、ある関学OBは「パブロフの犬のように」、ある同志社OBは「猿回しの猿のように」と表現していたのを思い出しました。やはり関学が犬で同志社が猿だなと一人でニヤけてしまいましたよ。)

・・・気を取り直して、
昭和30年代までは、コンクールも現代みたいな金賞連発とは訳が違って、関西地区から1校しか全国大会に出してもらえない。
加えて同志社は早稲田と同様に「ビューッと出す発声」だから当時の審査員には渋い顔される方向の団体。
当時のコンクールはフォルテ厳禁、ウィーン少年合唱団のように繊細に丁寧にハーモニーを紡ぎ出すことが高得点の鉄則で、早稲田なんぞもコンクール後の講評で「早稲田のような、思い切り声を出して音楽を鳴らす演奏スタイルが有っても良いかも知れない」というような慰めを書かれた。
この挿話でも分かる通り、関学のスタイルが「審査基準の基準」だったといっても過言ではありません。
それが少し変わってくるのは、昭和29(1954)年に伝説のデ・ポーア合唱団が来日したり、あるいはロバート・ショウ合唱団男声部とかエール大学グリークラブのレコードや楽譜が日本に入り始めたりしてからでしょうか。
とにかく関西学院が合唱コンクールで圧倒的に強くて、戦前に3連勝した上に戦後も6連覇し、更に1回の招待演奏をはさんで(3回勝ったら1回休み、というルールが一時期あったので)2連覇するくらいですから、傍から見れば「審査員に関学シンパがいる」とすら思ってしまうのです。
事実がどうかは、現代の全日本合唱コンクールと同じですな(爆)。
そんな訳で同志社は昭和32(1957)年のコンクールで関学グリー秘蔵の曲だった「デュオパの荘厳ミサ」を引っ提げ、遂に関学を破って全国優勝、それも全審査員が1位を付ける「完全優勝」したことが嬉しくてたまらず、当時生まれていなかったはずの同志社OBまでがつい昨年のことのように話したりします。

ということで、コンクール全国大会にあまり出て来ない同志社と早慶は、一緒のステージで歌うことがあんまりなかったから、恐らく仲が良いとか悪いとかいう話はなかったことでしょう。

そんな戦後の合唱コンクールの黎明期、東西四連設立につながる一つのきっかけが生まれます。
早稲田グリーは戦後初の合唱コンクールで優勝します。昭和21(1946)年のことで、まだ全国大会は無く、関東大会での優勝です。メンバーは23名、指揮は長尾要氏/昭和24(1949)卒。
その翌年から、グリーの戦後復興と音楽活動をより発展させるために、OBでありプロの音楽活動を始めていた磯部俶氏/昭和17(1942)卒を常任指揮者に迎えますが、同年、及び翌昭和23(1948)年と連続して東京大学コールアカデミーに敗れて2位。
他には立教グリー、慶應ワグネル、日本大学(男声)、共立女子、青山学院グリーンハーモニーも出てました。そして昭和24(1949)年、ついに関東大会を突破し、第2回全国大会に出場し、学生の部で優勝、狂喜乱舞。
関学グリーはOBを加えていたので一般の部で出場し、これまた見事に優勝しています。
この年のコンクールが大阪で開催されたことから、早稲田グリーはコンクール翌日の11月24日(木)に関学グリーを表敬訪問し、交歓会を催します。
それまでにもお互いコンクールで相手の演奏を聞くこともあったとは思われますが、磯部俶氏が第30回記念東西四大学合唱演奏会プログラムに記した有名な一文、

「関学は早稲田の明るくて力強いトランペットのようなユニゾンに驚き、早稲田は関学のオルガンのように柔らかくて美しいハーモニーに息をのんだ」

・・・それ50年経った今でも一緒やん(笑)

 岩田尚夫氏/昭和28(1953)年卒の表現では、
「翌日、関西学院との交歓会で関学のチャペルで聴いたあの重厚なハーモニーにはビックリ仰天。同じ学生でどうしてこんなコーラスが出来るのかと舌を巻いた。もっとも、関学も早稲田の底抜けに明るいコーラスと声の輝きに驚いたという。」

・・・それ50年経った今でも一緒やん(笑)

ちなみにこの交歓会には福永陽一郎氏も出席していました。福永氏のお父様が戦前の関学グリーOBであったこと、お父様が亡くなられた後の幼少の福永氏を、関学グリーのマネージャーが親身になって世話をしたこと、また福永氏自身も関学中等部に在籍し、その中等部グリーでの歌仲間が丁度この交歓会の頃に大学グリーに在籍していた、という多くの要因が、福永氏を関学グリーが身内同然に遇し、交歓会にも同席していた理由です。

で、ここに改めてお互いを認め合った早稲田/関学の間に絆が出来、翌年からの定期的な交歓演奏会の開催を約束します。そしてきっかり1年後の昭和25(1950)年11月24日(金)、約束を果たして早稲田の大隈講堂で第1回早関交歓演奏会を開催します。絆だから。

更に記すと、この交歓演奏会のために作曲家であり関学OBである山田耕筰先生にメッセージを頂こうと中野昭氏/昭和27(1952)卒が山田先生宅に伺いました。
そこで話が弾んで、エール交歓で関学は四部合唱の「A Song for Kwansei」を、早稲田は伝統のユニゾンで「都の西北」を歌う、と聞いた山田先生、好意で早稲田大学校歌を男声四部合唱に編曲してあげようと言い出し、その場で中野氏に五線紙を渡してユニゾンの旋律を書かせ、その日の夜8時過ぎには完了したとの電話連絡があって、翌日早速編曲を受け取ったとのことです。
それが昭和25(1950)年11月17日(金)。更に翌18日(土)、この編曲を早速練習し、磯部氏の提案で1番の歌詩をC-Durのユニゾンで始め、3番の歌詩でF-Durの男声四部合唱に展開するという現在のスタイルが固まったのでした。
何だか早稲田グリーは関西学院グリークラブ様に足を向けて寝られませんね(笑)

またも少し脱線。
東西四連設立当時の合唱コンクールがどのようなものであったかの実証として、下記。
早稲田グリーOBの宇野義弘氏(1957)からコピーを頂いた1956年の「合唱界」という雑誌に早稲田グリー特集が掲載され、また同じくコピーを頂いた同年の新聞には何と合唱コンクール予想がB5サイズにギッシリ書かれている。今から50年近く前だと、合唱コンクールも一般世間の耳目を集めていたのだなあ、と嘆息。
で、目を引く記述を転記すると、

1)早稲田は伝統もあるが、昨今急激に力をつけた、関東随一の合唱団。

2)早稲田は他団が克服に苦労しているバスの厚みを既に有しており、
加えてテナーの明るさと絶対的な声量を手に入れつつあって、関学と
一騎打ちになるだろうが、より繊細さに磨きをかけた関学がやや優位か

3)早稲田は在籍300余名のうち実働120-130名

ちなみにこの頃のコンクール結果は、昭和26(1951)年から昭和29(1954)年まで4年連続で、関東大会で横浜国立大グリーに破れ、昭和30(1955)年はついに関東大会を突破して全国大会に出場するも、僅差で関学が優勝。翌昭和31(1956)年は関学が早稲田に大差をつけて優勝、その新聞評(朝日新聞)に「早大は洗練さにまだ数段の差がある」、だそうです。
その審査員達は関学が好きだったのでしょうか、フォルテが嫌いだったのでしょうか。
まさか早稲グリが嫌いだったり(爆)
スポンサーサイト



コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

  • 2006/10/10(火) 21:35:54 |
  • |
  • #
  • [ 編集]

すいませんすっかり亀レスで。

>昭和39年に出場を辞退するまでの
>関学グリーに勝ったのは、1957年
>の関西大会での同志社グリーと
>1959年全国大会での日本女子大
>のみとなっています。

と御指摘を頂きましたが、本当ですか?
というか戦後、1947年からのいわゆる近代コンクールだけを調べておられるのではありませんか?

  • 2007/05/11(金) 00:18:31 |
  • URL |
  • 山古堂主人@上海 #-
  • [ 編集]

昭和30年代の全国コンクール

山古堂 主人  殿
あと2週間で第16回OB四連(神戸国際会館)となり、仕事中ながら、なんとはなしに今回の当番校である関学さんのサイトを見ているうちにここに到着しました。
上海の生活はいかがですか、同志社グリーの100周年(京都)以来のご無沙汰です。ご記憶にあれば幸いです。
さて、関学が全国コンクールで負けた年にたまたま私はその相方である同志社グリーの1年と3年に在学していましたので、正確なところをお知らせします。
1)関学が同志社に負けた年:1957
大阪は難波体育館でした。同志社はこの年に現役とクローバーが共に優勝しました。ちなみに、そのクローバーの招待演奏(郡山)に我々現役は学生服で加わっていました。
2)関学が木下保先生の指揮する日本女子大に負けたのが1959年(札幌)です。同志社は関西予選で私が指揮をして関学に負けました。その関学が札幌の全国コンクールで負けたことは我々にもショックでした。その頃、関東では各大学が専門家の指揮で歌うようになり、関西は学生が指揮をしていたので、「コンクールのあり方」が議論になったように記憶しています。そんなこともあって、同志社は私の次ぎの指揮者である浅井敬壱さん(今や全日本合唱連盟の理事長です)時代に福永陽一郎先生を技術顧問に呼ぶようになりました。
「この2回以外に関学の負けた年はないか」と言われるとちょっと困るのですが、この2回に関しては自信を持ってこれが事実であると言いきれます。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://yamakodou.blog54.fc2.com/tb.php/6-69a24522
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)